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商品愛が高じて大学教授がマーケティングの研究テーマに据えた『ハートランドビール』。今なお“活きる教材”となる理由

1986年に誕生した、『ハートランドビール』。まず目を引くのは、沈没船から引き揚げた瓶をモチーフにしたというグリーンのボトル。抜栓すれば穏やかな香りが訪れ、一口含むと、麦のうまみを存分に感じる味わい。その製法やデザインは1986年の発売以来、変わらずに続いています。

『ハートランドビール』は、「素(そ・もと)—モノ本来の価値の発見」というコンセプトのもとに、新しい生活意識や価値観を持つ人に向けて発売されました。

「ハートランドビールは現象としておもしろい」と話すのが、慶應義塾大学ビジネス・スクールの井上哲浩教授です。その現象をマーケティング観点から分析したケース(実際の企業や組織が直面した経営課題を記述した教材)を作成し、クラス討議でも活用しています。

ご自身も『ハートランドビール』愛好家で、長年に渡って『ハートランドビール』の研究を続けてきた井上教授に、『ハートランドビール』観を伺いました。


『ハートランドビール』を研究して見えてきた、3つの大きなマーケティングの特長

慶應義塾大学ビジネス・スクールの井上哲浩教授
慶應義塾大学ビジネス・スクールの井上哲浩教授

─『ハートランドビール』との出会いは覚えていらっしゃいますか。

井上:私は「つた館」の経験者なんです。「つた館」は1986年の発売当時、ハートランドが六本木に構えていたビアホールですが、そこへ先輩を誘って行きました。たしか1987年頃のことで、もう30年以上前ですから、詳細な記憶は残っていませんが…。ただ、ビールの味も含めて、「つた館」へ至る道のりや、その場の雰囲気が素晴らしかったことは覚えています。

六本木6丁目にあったビアホール ハートランド、通称「つた館」
六本木6丁目にあったビアホール ハートランド、通称「つた館」

井上:そこからは、自宅でもハートランド をケース買いして備えるようになりました。ただ、「自分は一体、何に魅了されたのだろう?」とはっきりと把握するまでには、時間がかかりました。それこそケースを作成して、ようやく気づき始めたくらいです。

─研究の対象にするきっかけがあったのですか?

井上:大きかったのは、故人となった前田仁さん(*1)との出会いです。前田仁さんはキリンビールで『ハートランドビール』をはじめ、『一番搾り』『淡麗』『淡麗グリーンラベル』『のどごし<生>』『氷結』といった、現在も続くヒット商品を作り上げたマーケターです。その素晴らしさに興味を持っていたのですが、誘われた飲み会でたまたまお会いすることができて。

そこから次第に「ハートランドビールを研究対象にする」という考えが生まれました。前田さんをはじめ、キリンビールの方々にもご協力をいただき、貴重な資料もお借りしながら、分析を進めていくことにしたのです。

『ハートランドビール』を題材に行われた慶應義塾大学ビジネス・スクールのクラス討議
『ハートランドビール』を題材に行われた慶應義塾大学ビジネス・スクールのクラス討議の様子

井上:まず驚いたのが、売上の推移です。日本における主要ビール4社と、ハートランドビールの販売数量の推移を調べてみると、1994年をピークにビール全体の販売数量は顕著に減っていますが、ハートランドビールだけが継続的に伸張していました。1994年から2019年にかけて、約10倍の規模になっていたのです。

さらに研究を進めていくと、ほかのブランドにはない3つの大きな特長が見えてきました。一つは「素」と定めたコンセプトワーク、もう一つは「Awareness(アウェアネス=気づいてもらう)」を軸にしたコミュニケーション戦略、そして「誰かに話したくなるマイ・ハートランド ストーリー創出のための仕掛け」の3つです。

製品設計属性で商品を考えない、「素」という特異なコンセプト

ハートランド再活性化プロジェクトを率いた元キリンビール企画部部長の山田精二
2001年から『ハートランドビール』のブランドマネジャーを務め、「ハートランド再活性化プロジェクト」を率いた元キリンビール企画部部長の山田精二も特別講義を行った

―『ハートランドビール』のコンセプトは、どのような点が特長的だったのでしょうか?

井上:ハートランドでは「素」という抽象的な概念をコンセプトに据えています。通常、商品は「製品設計属性」から発想されることが多いものです。つまり、その製品がつくられるうえで一番のウリとなる特長を、コンセプトやネーミングに据えるということです。

ビールであればモルトやホップといった原材料、他のキリン製品を例に取るなら免疫を活性化する「プラズマ乳酸菌」もそうです。でも、「素」には製品設計属性は何もありませんよね。

─なぜ、「素」という抽象的なコンセプトが生まれたのだと思いますか。

井上:そもそもハートランドは、開発段階で「5番目のビールメーカー」を志向していました。自身を含む大手ビール4社の次ですね。さまざまな市場調査から、新しい生活意識や価値観を持つ人たちが台頭していることを捉え、すでにあるブランドでは対応できない”必要”や“スキマ”があると考えていたからです。

そして、どんな価値が消費者から求められているのかを掘り下げ、そこからコンセプト構築をスタートしています。それゆえに「製品設計属性」を出発点としない「素」という抽象的なコンセプトが誕生したのではないでしょうか。

のちのハートランドビールとなる、新ビールブランドのコンセプトをまとめた資料
のちの『ハートランドビール』となる、新ビールブランドのコンセプトをまとめた資料

井上:また、「素」が誕生した背景には、キリンビールにおける醸造哲学も深く関係していると私は考えています。「生への畏敬」「Brewingの精神」「五感の重視」という3点から構成されるものです。
 
ビールは生き物、つまりは酵母や原料の農産物を通して造られますから、それらには謙虚に学ばなければいけない。そして、あくまで“Making”ではなく“Brewing”だからこそ、ビール造りを単なる技術として捉えて設計どおりに造るだけではなく、芸術でもあると認識し、五感を発揮して造ることを重視していると言います。
 
このように、技術だけでなく感性を大切にする醸造哲学があったからこそ、“モノ本来の価値の発見”という、目ではなく心に訴えるようなコンセプトが生まれたのではとも考えています。

知らせる・気づかせるのではなく、気づいてもらう

慶應義塾大学ビジネス・スクールの井上哲浩教授

井上:もう一つの大きな特長が、「Awareness(アウェアネス)」を重視したことです。一般的なマーケティングでは、消費者に「知らせる」ことに焦点を当てますが、ハートランドは「気づいてもらう」ことを目指したのです。
 
例えば、誰かに教えてもらった「おいしいお店」より、自分で見つけた「おいしいお店」のほうに愛着が湧きませんか? 人は自分で気づいたことのほうに思い入れが強くなったり、より大きな価値を見出しますよね。ハートランドも、そうした商品になることを目指したのです。
 
この「気づいてもらう」ための仕組みは、あらゆるタッチポイントで設計されていました。瓶ビールの象徴でもある胴部分のラベルをなくしたデザインも、その一つでしょう。

ハートランドビールのボトルデザイン
表面にラベルがなく、多くを語らないボトルデザインも、発売当時から変わっていない

井上:また、ハートランドの発信拠点であった「つた館」では、常設ギャラリーを設置してアートの企画展を催したり、音楽アーティストによるライブパフォーマンスを頻繁に開催していました。これは人間の五感を広げる文化を発信することで、訪れた人が “いいモノを自分で見つける”機会をつくり、コンセプトである「素」への共感づくりを狙っていたからです。

「自分で見つけたいいモノ」は、誰かに教えたくなる

井上: では、自らハートランドの価値に気づいた人は、その後どうなるのか。結論から言えば、その人は“メディア”としての役割を担っていくのです。
 
例えば、ある女性が飲食店でビールを注文し、ボトルの色やラベルレスのデザイン、さらにエンボスの肌触りなどを通じてハートランドの価値に自ら気づき、気に入ったとします。このとき彼女は、「素」というコンセプトに紐づいたパッケージデザインと自分の価値観がつながったことで、 “自分で見つけた、自分のハートランド”というストーリーが生まれます
 
私の場合は、「つた館」の世界観とその場所で飲んだハートランドの味、そしてそこでの楽しい時間によって “私が見つけた、私のハートランド”というストーリーが作られました。
 
ブランドが発信するコンテンツと自分が持つ価値観が結びつくことで、そこには強烈な自分だけのストーリーが生まれます。 “自分で見つけたいいモノ”は誰かに伝えたくなるモノですが、さらに自分だけのストーリーがあればなおさら話したくなりますよね。

こうして、自ら気づき、自分のストーリーを持った人たちがメディアになっていくんです。拡張されたメディアとしての自分、自分のハートランドストーリー、この相互作用により自分とハートランドが同定化され、ハートランドに対する心理的所有感が生まれます。

ハートランドを提供している料飲店さんにも、自分にとってのハートランド ストーリーやハートランド愛を語ってくれる人がいますよね。同じように、それぞれに自分の価値観と結びついたハートランドの価値があって、 “自分が見つけたいいモノ”としてお客さんに伝えたくなるのでしょう。実際に、料飲店さんのハートランド愛が広まって作られた、その店独自の“ハートランド・クラスター”をいくつか知っていますよ。

─現在でいえば、SNSの口コミによって情報を広める手法のようですね。

井上:コミュニケーション戦略において、最大のメディアは人であると考えていたようですので、まさに口コミによって広がりやつながりが生まれることを狙っていたのだと思います。そのために、まずはハートランドを取り扱う料飲店や小売店、ビアホールを訪れたお客さんなど、顔の見える人たちとのコミュニケーションを最重要視し、現代で言うファンのような存在になってもらうことを目指していました。

つた館で使用されていたメニュー表
「つた館」で使用されていたメニュー表。お客さまが考案した料理アイデアを採用し、実際に提供していた。これもファンを作るための取り組みの一つだった

「拡張自己」だから、みんなハートランドを語り始める

つた館で使われていたオリジナルのビールジョッキ
井上教授が関係者から譲り受けた、「つた館」で使われていたオリジナルのビールジョッキ。一つひとつが手作り

─「ハートランド愛」を持ちながらも、それを他者へ伝えてくれるのは、語りたくなる要素があるからなのでしょうか。

井上:いま、この手元にあるハートランドは、近所のスーパーマーケットで買ったものです。ただ、私にとっては「近所のスーパーマーケットで買ったハートランド」ではなく、もはや「私の一部」だと感じられています。この現象は社会心理学で「拡張自己」と呼ばれています

たとえば、子どもが「大好きなぬいぐるみと一緒でないと寝られない」と思ったり、そのぬいぐるみを大人になっても捨てられなかったりする理由は、捨てがたい記憶であることと共に、ぬいぐるみが彼ら自身の一部であり、人生の一部にもなっているからだといえます。

同様に、私たちがハートランドと過ごした時間や経験は、それ自体が私たちの一部になる「拡張自己」につながります。ハートランドの持つ価値を共有したい、あるいは自己表現のツールとして伝えたいと思うことが、メディアとしての機能を果たす。それによって、じわじわと人々へ伝わっていっているのだと考えられます。

私も、来客のときはもちろん、ゲスト講師と学生を交えた貴重な打ち上げのときにも、ハートランドを用意します。そういった大切な時間をハートランドとともに過ごしたいと感じる理由も、これが私の一部になっているからです。ゼミ生や大切な仲間と一緒に、前田仁さんと武蔵小杉の焼き鳥屋でハートランドを飲んだ時間は、大切な思い出です。

ハートランドビールの30周年限定ボトル
『ハートランドビール』30周年限定ボトル。井上教授の所有品

─「ビールを飲んでいる」のではなく、「ハートランドを飲んでいる」という表現がしっくり来ます。

井上:まさにそうです。気づいたかもしれませんが、私は先ほどから『ハートランドビール』とは言っていませんね。たしかに売っているものは『ハートランドビール』です。でも、私たちが感じているのは、最終的には“ハートランド”という文化や世界なんですね

つくっている人の愛がなければ、ブランド愛も絶対に生まれない

慶應義塾大学ビジネス・スクールの井上哲浩教授

井上:せっかくですから、この機会にお伝えしたいことがあるんです。
 
すでにお亡くなりですから真偽は確かめられませんが、前田仁さんのマーケター人生においても、ハートランドはかなりのウェイトを占めていたのではないか、と思っているんです。私が受け持つ講義にゲスト登壇してもらったことがありますが、そのお話からも、私には彼がとてもハートランドを愛しているように見えました。
 
研究を通じて、ハートランド独自のマーケティング戦略を観察することができましたが、その根底にマーケターたちの愛がなければ、これほど長く愛される商品にはならなかったかもしれません。
 
企業活動ですから、ハートランドプロジェクトにもKPIやKGIのような数値目標がきっとあったでしょう。しかし、数値目標だけを追いかけてマーケティングをしていたら、とてもじゃないですが、選ばないような手法が多いと思うんです。それこそ、マス広告をやらないなんて、考えられませんよね。
 
それでも、その道を選んでやり続けたのは、商品を心から愛し、本気で価値を正しく伝えたいと思っていたからなのではないでしょうか。愛は、つくっている人の想いです。想いが伝わらなければ、消費者のブランド愛も絶対に生まれませんし、長続きなんてしません。
 
そして私がこれほどハートランドに魅了されたのも、ハートランドを通じたさまざまな経験からつくり手の愛を感じたからにほかなりません。
 
今回、こうしてハートランドのことをじっくりお話しする機会をいただけたことで、また素敵な“私にとってのハートランド ストーリー”が増えました。今日も、ハートランドがおいしく感じそうです。

慶應義塾大学ビジネス・スクールの井上哲浩教授

【プロフィール】井上哲浩
慶應義塾大学ビジネス・スクール教授。関西学院大学商学部専任講師、助教授、教授を経て、2006年より現職。コミュニケーション戦略、製品戦略、ブランド戦略などのマーケティング戦略のさまざまな意思決定問題に対して、主として、統計学や情報工学などの数理アプローチを用いるマーケティング・サイエンスにより研究を展開している。

(*1) 前田仁 1973年麒麟麦酒(現キリンホールディングス)入社。大阪支社営業を経て、マーケティングを担当し、ハートランドビール、キリン一番搾り生ビール、麒麟淡麗〈生〉、氷結などのヒット商品の開発を行った。2007年キリンホールディングス常務執行役員、メルシャン代表取締役専務執行役員、2009年キリンビバレッジ代表取締役社長を歴任し、2012年退社。2020年逝去。

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文:長谷川賢人
写真:土田凌
編集:RIDE inc.


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