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縁談きながにビーフシチュー【うしろむき夕食店*三の皿】

ポプラ社さん、新人作家冬森灯さんとコラボした『うしろむき夕食店』プロジェクト。毎月第三金曜日に新しい物語をお届けしています。

それでは、第三話『縁談きながにビーフシチュー』をお楽しみください。

▼これまでのお話はこちら

一の皿*願いととのうエビフライ
二の皿*商いよろしマカロニグラタン

▼うしろ向き夕食店プロジェクトについてはこちら

一気に読み切れない方のため、区切りのいいところで「栞」として🍺を入れることにしました。今自分が「何杯目のビール」まで進んでいるかをご確認いただきながらまた小説の世界に戻ってきてもらえればと思います。

1🍺

 店を出たら、並木台駅をはさんで反対側の、北口へ。
 いちょう並木のゆるい坂をのぼって、突き当たるちょっと手前で立ち止まる。
 ――――を左。

「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ」

 およそ道案内とは思えない単語が聞こえて、留守電に向かって話しかけてしまった。もう一度再生しなおしても、央樹からの録音メッセージはやっぱり同じ言葉を繰り返す。

「大根、ねぎ、緑の葉っぱ、って聞こえる。道案内の目印らしくないよね?」

 隣を歩く香凛(かりん)ちゃんが笑うと、白い息が空気に溶けた。並木道は黄色い葉に埋もれ、立ち並ぶいちょうの木々はすこしばかり葉の残った枝を、寒空に伸ばしている。ダウンジャケットのポケットをさぐって、かじかむ手に、ハンドクリームをすりこんだ。
 今日は満月だと聞いたのに、雲の流れがほとんど月を覆い隠している。

「植物がいちばん貴璃(きり)ちゃんの目に留まりやすいからじゃない?」

 そう言われれば、そうかもしれない。花屋に生まれたからそうなったのか、そうだったから花屋に生まれたのか、わからないけど。とにかく、ラッキーだったと思う。自分では覚えてないけど、物心つく前からずっと、自分が店を継ぐと言っていたそうだ。言葉にすると叶うと言うけど、私は希望どおりに父の店で働いている。
 植物好きが高じて店を開いた父は、娘たちの名も、花も実も愛でられる花梨と、英語名をプリンセスツリーという桐にあやかって名づけた。樹木にちなんだ名前のおかげか、すくすく育ったはよいものの、背も肩幅も大きいせいで、なんだかひとに圧迫感を与えてしまうようで、プリンセスにはほど遠い。先週末の和可子さんの怯えたような様子を思い出すと、目線がついつい下を向く。乾いた枯葉が靴の下で音を立てて砕けた。

 店や自宅のある並木台南口界隈は、猫の通る細い裏道までくまなく知っているものの、北口の、しかもこんなに離れた場所には今まで来たことがなかった。小中学校の学区は駅を境に分かれていたし、辛うじて知っていた駅周辺のお店も今はなく、大型の商業施設に姿を変えた。

「ねえ、もしかして、あれのこと?」

 姉の視線の先に、ロッカーの扉からあふれ出る、青い葉っぱがあった。
 近寄ってみると白く大きなロッカーの側面には、産直自動販売機、と書かれていた。もさもさと勢いよく茂った青い葉をたどってみると、個室に立派な大根が横たわっている。香凛ちゃんは、その勢いよく広がった大根の葉を、私の髪みたいだと笑った。頭頂で結んだ癖毛の髪は、腰にかけてあんな風に広がって、央樹には、竹ぼうきみたいだとからかわれる。
 自販機では大根の他にも、ねぎやほうれんそうが良心的な値段で売られていた。安いわあ、と嬉々として小銭入れを取り出す香凛ちゃんを、帰りにしようと押しとどめ、先を急いだ。

 央樹に教わった、うしろむき夕食店というお店は、お酒がおいしいらしい。
 今度行こうと話したままになっていたのを、香凛ちゃんに飲みに誘われて思い出した。

「角を曲がったら、右、左、右、だったよね」

 ロッカーの手前の角を曲がり、どこかの家のカレーの香りが漂う路地を進むと、行き止まりにぶつかった。あたりをやみくもに歩き回っても、シャッターの閉まった元商店や、住宅の入り交じる路地に、営業中のお店らしき場所は見当たらない。

「貴璃ちゃん、今日は定休日なのかもよ。諦めて大根買って帰ろっか」

 コートのポケットから出した手に息を吹きかけて、香凛ちゃんが踵を返す。
 そのとき、雲がすっと晴れた。
 満月に照らされて、十数歩ほど先の路地で、なにかが一瞬、金色に光った。
 野良猫か、迷子犬か、あるいはこのあたりでもときどき聞く、タヌキ?
 瞬く間に通り過ぎたそれがなにかは、わからなかった。
 だけど、上下に弾むように歩く、楽しげな雰囲気にこちらもうずうずして、香凛ちゃんの袖を引く。

「もうすこしだけ。あそこの路地だけ見てみない?」

 あの楽しげななにかが消えた角を曲がると、やわらかな色彩の絵が目に入り、思わず声をあげた。
扉に嵌め込まれたきれいなステンドグラスが、足元にカラフルな光をこぼす。
 ここが聞いたお店に違いない。央樹が言っていたとおりの、レトロという表現がぴったりの場所を、私は一目で気に入ってしまった。木造二階建ての洋館の格子窓からは、食事を楽しむひとたちが見える。取っ手には、かわいらしい金色の鈴も結ばれていた。近づくと、ステンドグラスにいっそう心躍った。
 水仙、福寿草、蓮華に菖蒲、鬼灯、桔梗、萩と菊。
 描かれた四季折々の草花は、広い空の下でのびのびと機嫌よく咲いている。見ているこちらの口元がゆるんでしまうような、気持ちのいい野原の風景だ。
 ふと思い出して見渡してみたものの、あの上機嫌ななにかは、もう見当たらなかった。
 鈍く光る金色の取っ手に触れたとき、内側から扉が開いた。
 軽やかな鈴の音が、りん、と響きわたる。

「お帰りなさい! お二人さまですね」

 ヒヤシンス柄の着物の店員さんが、明るい笑顔で、迎えてくれた。

2🍺🍺

「乾杯!」

 グラスを満たすのは、うれしさと楽しみの交わる香り。
 鮮麗な赤いワインは、積み重ねた一日の時間をまるごと労ってくれるみたい。ひとくち口に含むと、甘みと酸味と渋みがうつろいながら舌を転がって、最後にはふくよかな甘い余韻を残して、消えた。
 お通しがまた、おいしかった。ふろふき大根とワインが合うなんて、想像したこともなくて、私たちは顔を見合わせて何度も確かめ合ったくらい。
 おだしのうまみをたっぷり含んだ大根は、香凛ちゃんの白のスパークリングにも、私の軽めの赤にも、するりと寄り添うみたいに合う。たぶん、ワインの見立てがいいんだね、と頷き合った。料理との相性もいいのだろうけど、選んでくれた、あのヒヤシンス柄の着物の店員さんのお酒のセンスが、私たちの好みにもぴったり合うみたい。
 種類豊富なお酒とお料理はもちろんのこと、ふんわり柚子の香るおしぼりや、メニューを綴る文字の柳を思わせるしなやかさに、二人ともすっかり心をつかまれてしまった。
 どこもかしこもぴかぴかに磨きあげられているのに、こちらの背筋を無理に正すところのない、懐の深そうなお店。疲れた体をゆったり受け止めてくれるソファのやわらかさや、紅茶みたいな赤茶色に磨かれた艶のあるテーブル、寄木細工の床など、お店のすみずみにまで、気持ちが通っているのがわかる。ここはすこし昔の、なつかしい時代を思い出すようなお店だから、うしろむき夕食店と呼ばれていると聞いた。
 カウンターで料理を作る年配の女性が、オーナーだろうか。濃紺の着物をきりりと着こなす姿はとても粋で、かっこいいなあ、と憧れてしまう。
 居心地のいいお店のおかげなのか、いつの間にか、呼吸が深くなっていた。

「改めて、貴璃ちゃん、結婚おめでとう」

「ありがとう」

 私たちはまたグラスを軽く合わせた。
 先週末に区役所に婚姻届を出し、私と央樹は、家族になった。つきあって一年の記念日に籍を入れたものの、年末年始は花屋の繁忙期。それを過ぎてからゆっくりと暮らしをととのえるつもりで、今はしばしの別居婚生活を送っている。店が一段落したら央樹の実家に引っ越して、彼のお母さんとも同居する。

「結婚だけが人生のしあわせってわけじゃないけど、一緒に歩くひとがいるのは心強いものだよ。ほんと、おめでとう」

 そう言う香凛ちゃんは、一人で歩くと決めて、半年前に娘と一緒に実家に戻ってきた。
 結婚は、難儀なものだという。
 暮らし方には、そのひとのこれまでの人生がにじみ出てくるから、お互いの「違い」に目が向きやすくなる。結婚は、その「違い」との距離の取り方を学ぶ修業の場だと、グラスを干しながら、香凛ちゃんは力説した。

「ま、なにかあればいつでも相談にのるよ」

「ありがとう。さっそく相談したいんだ。売られた喧嘩に勝つにはどうしたらいい?」

 香凛ちゃんが思いきりむせて、咳き込んだ。

「結婚の話じゃないの?」

「結婚の話だよ。勝たなきゃいけないの。和可子さん、つまり央樹のお母さんに」

 月見が岡にある、央樹の家をはじめて訪れたのは、婚姻届を出した日だった。
 挨拶に行く約束は何度か流れ、とうとう入籍の日になった。
 央樹が製薬会社に就職してすぐお父さんは他界し、二人きりの家族だと聞いた。
 どこにでもいるふつうのおばさんだよと央樹は謙遜するけど、オレンジ色が好きだというそのひとは、きっと明るくて華やかで、央樹みたいに社交的な、素敵なひとなのだろうと想像した。なにせ、我が家に来るなりすぐ両親と打ち解けて、父と二人で飲みに出かけるような央樹を、産み育てたひとなのだ。
 だから、まさか喧嘩を売られることになろうとは、想像もしなかった。

「なんでまたそんなことに」

 香凛ちゃんが両眉をぐっと寄せる。なぜなのか私にもわからない。でも、わかっているのは、売られた喧嘩は買うしかない、ということだけ。

「やっぱり家事力を今から磨くしかないかな。女子力も敵わなそうなんだよ。腕力なら力仕事やってる分、自信あるけど」

 貴璃ちゃんは負けず嫌いだからなあ、と香凛ちゃんが腕組みをした。

「同居するんでしょ? なら央樹くんを取り込んだ方が勝つに決まってるんだから、変に決着つけないほうが平和だよ。真っ向から向き合おうとしないで、おいしく飲んで食べて、気分転換してやりすごしなよ」

 いっそボトルで飲もう、おつまみもたっぷり食べよう、会計は任せなさいと香凛ちゃんは気前よく言って、メニューを吟味しはじめた。
 もう喧嘩を買っちゃったんだよ、と話しても、はいはいといなされるばかりだ。

「なんだか勇ましいのがいると思ったら、フローリスト千賀のやかまし娘たちか」

「あれ、八百禅さん!」

 店に入ってきたもみあげの目立つ中年男性は、移動販売の八百屋、八百禅さんだった。昔は北口駅前にお店があったけど、そこは今、商業施設になっている。父と親しい八百禅さんはときどき店に立ち寄ってくれ、愛車の軽トラックにはいつもレゲエが流れてる。野菜の話を聞きつけると全国どこへでも飛んでいって、その様子を「もみあげ日誌」と称してウェブに書いている。ひろびろとした野菜畑や、滅多に見ることのない野菜の花の写真には、心がのびやかになる気がする。
 八百禅さんが座るカウンター席に挨拶に行くと、店員さんたちに紹介してくれた。店の主でお料理を作っているのは志満さん、接客係を務める希乃香さんはお孫さんだそうだ。

「大根、食べた? うまかったろ? 今年のはすこぶるおいしいよ」

 さきほどのふろふき大根は、八百禅さんが仕入れたばかりの、三浦大根で作ったという。来る途中の自販機も八百禅さんの販売所で、同じものを売っているらしい。帰りに絶対買います、と香凛ちゃんが力んでいた。

「大根てね、生で食べるとそれぞれ味が違うんだよ。畑の味、土の味で違う」

 八百禅さんの目の前に、志満さんが、スライスした生大根を差し出した。ワインのおつまみにするのだという。ワインに、生大根。合うのだろうか。

「花屋さんには並ばないけど、大根の花もきれいでね。春に、菜の花に似た白い花が咲くんだよ」

 希乃香さんが頷き、声に力を込めて、言った。

「そうか、お野菜にもお花は咲くんですよね。普段は意識しないけれど、お花が咲くから、お野菜や種ができるんですものね」

 なんだかうれしくなってしまい、私もちょっと熱くなる。

「ええ、花屋にあるものだけが、お花じゃないです。八百禅さんのもみあげ日誌で見ましたけど、ゴボウの花はアザミにそっくりだし、ねぎの花、ねぎ坊主はアリウムっていうまんまるのボールみたいな花によく似てますし。私いつも、自然保護園にそういう花壇を作ったらいいのにって思うんですよ。ミニ動物園に隣接するあたりなんて、ちょうどいいと思うんだけど」

 八百禅さんが、やっぱり千賀さんの娘だ、と笑った。父も植物の話となると熱くなる。

「でもすぐに食害に遭いそうだよ、イノシシとか、サルとかいるし」

 なにを植えようかと勝手に盛りあがる八百禅さんと私に、香凛ちゃんがやんわり意見する。
 自然保護園のミニ動物園にはカモシカやキツネ、タヌキ、イノシシ、サル、ヤギなど、かつて身近にいた動物たちが暮らしている。むかごを植えてほしいと力説していた希乃香さんは、真っ先に食べられると指摘されて肩を落とし、ならば入り口前の広場や遊歩道はどうかと、架空の花壇に思いを馳せては、笑いさざめいた。


「さ、お料理ができますよ」

 志満さんに促され席に戻ると、希乃香さんがおいしそうな香りを振りまくおつまみを運んできてくれた。
 炙ったタコとカマンベールチーズ、オリーブをピックで刺したピンチョスに、にんにくと一緒に炒めた焼きブロッコリー。それに、アンチョビバタートースト。
 希乃香さんに選んでもらった辛口の白ワインをグラスに注ぎ、ひとかじりする。
 オリーブとチーズの独特の香りと塩気がワインに合うのはもちろん、弾力のあるタコとの、食感と味わいのバランスがたまらない。炒めたブロッコリーはコリコリとして、にんにくの香りが食欲をそそる。色よくカリカリに焼きあがったバゲットには、アンチョビの癖のある香りがしみこみ、ワインをどんどんすすませた。
 心地よい酔いにおしゃべりも弾み、香凛ちゃんの新しい恋の話をしたり、骨董市に出る香凛ちゃんの知り合いからのお花の相談を引き受けたりして、いつもよりゆっくり話せている気がした。
 きっと、家とは違うけど、心からくつろげるようなお店の雰囲気のおかげなんだと思う。
 おいしい料理はワインをすすませ、おいしいワインは料理をすすませる。
 すっかり機嫌もよくなって、和可子さんのことも、うっすら忘れかけていた頃。希乃香さんが、お皿を携えてきた。

「こちら、禅ちゃんから、よければワインにどうぞ、と」

 半月状にスライスした生大根に、バターが添えてあった。大根には軽く塩をふってあるそうで、バターを挟むのが、志満さんのおすすめだという。見れば、八百禅さんは得意げに片手をあげている。

「生の大根に、バター?」

 いくらワインに合うと言われても、手を伸ばすのにはすこしの勇気がいる。希乃香さんがお盆で顔を隠しながら、囁いた。

「これは志満さんの受け売りなんですけど、ひとってはじめて出逢う味は、おいしくないって感じるものらしいです。だから、もしお口に合わなくても、大丈夫。それに、それがずっと続くとも限りませんよ?」

 おそるおそる手を伸ばしてみると、ぱりぱりした大根の辛みとほのかな甘みにバターの塩気とコクが加わって、知っているはずなのに、知らない味が広がった。

「意外。でも、合うかも」

 私たちは、心もお腹もたっぷり満たされて、店をあとにした。
 希乃香さんの明るい声に送られて外に出ると、ちょうど真上に、きれいな満月が浮かんでいた。

「いってらっしゃい。明日もいいお日和になりますように」


3🍺🍺🍺

 たいていの悩みごとは、花の世話をしているうちに、どこかへ消えていく。
 根っから花が好きなんだろうなぁと思う。
 花屋の仕事は、外から見ると、花を仕入れたり花束をつくったり、きれいなところばかりが目立つみたいだ。だけどそれはほんの一部分でしかなくて、きれいに保つための地味なお世話が大半。例えば、水の入ったバケツごとバックヤードに運び、花の状態をみて、水をかえて、それぞれきれいに洗う。冬だろうとふんだんに使う水は冷たくて、手がかさつくし、ひび割れもする。おまけに花のために店はいつもひんやりとして、底冷えがする。鉢物の土や泥、ときには虫の相手だってしなくてはいけない。
 でも、それも、花のため。花がきれいに咲くため。
 すこやかに咲く花を維持するためには、相応の努力が必要になる。そのせいで、きれいに手入れしたネイルだってすぐに剥がれるし手荒れにも悩まされるけど、専門学校時代の仲間とは、使い勝手のいいハンドクリームの情報交換で、話題には事欠かない。もっとも中には、花屋に就職したものの続かずに、他の仕事に鞍替えしたひともいる。
 どんな仕事にだって、合う合わないがあるし、見るのとやるのとでは大違いだ。
 そしてそれを私は今、家事について、痛感していた。

「なにこれ。なんでこんな、大変なの。しかも毎日とかって」

 ありえない、と言いつつ、五人分の洗濯物を色柄でより分けて、山をつくる。それだけでも、大きなため息がこぼれた。母はそれを見て苦笑する。

「央樹くんも協力してくれるって言ってるんでしょ? 二人でだんだんペースをつかめばいいじゃない」

「それはそうなんだけど」

 私ばかりがやるわけじゃなくても、まったくできないというわけにもいかない。
 さっきは、洗濯かごの中身をすべて洗濯機に入れようとして、止められた。洗濯とは、洗濯物と洗剤をいれて、ボタンを押す作業だと思っていた。分別、洗い方、ものによっては干す場所も選ぶ、複雑な作業が日々繰り返されていたとは、恥ずかしながら、想像もしていなかった。先に洗い終えたタオルをかごに移して、ひと山を洗濯機に放り込む。

「学校の家庭科で習ったはずでしょ?」

「テストのときは覚えたはずなんだけど」

 テスト、と鼻で笑う母は、私の倍の速度でタオルを干していく。
 これだけでも丸一日がたちまち過ぎてしまいそうなのに、掃除や料理、なにより仕事が他にあるわけだ。軽くめまいを覚える私に、これでも楽になったのよ、と母は言う。嫁いできた頃は二層式洗濯機で、もっと手間暇かかったそうだ。
 暮らす、って、大変なことだ。
 世の家事に携わるすべてのひとたちに、心から敬意を抱かずにいられない。
 母に家事を教わるうちに、後悔はむくむくと頭をもたげてくる。
 貴璃ちゃんは負けず嫌いだからなあ、と香凛ちゃんにはいつも言われる。今更負けず嫌いな自分を嘆いても仕方なくて、肚をくくって、取り組むしかないのだけど。
 あの入籍の日を思い返すと、ため息がこぼれた。

 私たちは、あっけなく、家族になった。
 大晦日から元旦になっても、目の前に見える世界がなにも変わらないのと同じように、婚姻届の提出前後も世界はなにも変わらない気がした。どこか現実感がなくて、赤いワンピースの足元同様、すかすかして、心もとなかった。
 一か月前に結婚しようかと話が出て、なんだか強い風にうしろから吹かれるように、物事があっという間に進んでいった。央樹のお母さんへの挨拶は央樹の仕事やお母さんの用事で遅れていた。それでも、喜んでいるから大丈夫と聞かされれば、疑うこともなくそれを信じた。
 届を出した区役所そばの洋菓子店で央樹はケーキを買い、私は花束を抱えて、瀟洒なマンションにある榎本家のドアをくぐった。
 玄関横の飾り棚には、子どもの頃の央樹や、家族の写真など、たくさんの写真立てが並んでいた。逢ったことのない幼い央樹にも、面影があって、頬がゆるむ。高校時代のなつかしいスナップには、央樹と私が写っていた。並ぶとほとんど背が同じなのはあの頃と変わらないものの、こんな未来が待っているなんて思いもしなかった。
 時間が積み重なり、不思議なめぐり合わせで今日につながったんだと感慨深かった。
 央樹の家族の歴史と、私の歴史が結び合わされて、新しい日々がはじまるのだ。
 

「あなたが、貴璃さんね」

 廊下の向こうに立つそのひとは、想像したように華やかでおしゃれで、素敵だった。
 肩で切り揃えたボブは内巻きにセットされ、胸元に大きなリボンを結んだブラウスに、やわらかな光沢が揺れる。微笑みをたたえる薄い唇には赤い口紅が映え、低めの声は、シャンソンでも歌わせたら似合いそうな、独特の艶があった。
 きりっとした眉と細い鼻筋が央樹によく似ていた。
 駆け寄ると、小柄な彼女は私を見あげて、半歩ほど後ずさったかに見えた。

「はじめまして、お母さん」

 オレンジ色の花束を差し出すと、彼女はやんわり拒んだ。

「和可子というの。そう呼んでくださる?」

 好きだと聞いたオレンジを基調に、華やかなひとに似合うように、白、黄色、黄緑で、両腕に抱えるほどの花束をまとめた。でも、和可子さんは、片方の眉をあげて、困ったように言った。

「あなたのお好みで、選んでくれたのかしら。若い方がお好きな感じのお色ね。なんていうか、元気が有り余っている感じ」

 和可子さんの視線は、私の服から、髪、そして頭のてっぺんにさかのぼっていった。
 見渡してみれば榎本家のインテリアは、落ち着いたローズピンクばかりが目につき、唯一見つかったオレンジ色は、食卓の中央に置かれた鋳物のお鍋くらい。たぶん好みが違ったのだ。視線で助けを求めても央樹はまるで気づかずに、食卓に並ぶ料理に声を弾ませている。そこはかとなく、波乱の気配がした。

4🍺🍺🍺🍺

 食卓には、たくさんのお料理が並んでいた。ゆで卵やいくらを散らしたグリーンサラダ、スモークサーモンのマリネ、それにカッティングボードの上に用意されたチーズ。オレンジ色の鍋の中には、カニが三杯。
 ロゼのスパークリングワインで乾杯をして、央樹の好きな食べ物の話や、和可子さんの普段の暮らしぶりを聞いた。水彩画教室や美術鑑賞倶楽部、なつかしの映画を観る会、水中ウォーキングに市民合唱団と、和可子さんは複数の市民サークルに参加して、日々忙しく過ごしているのだそうだ。央樹の社交性は、やっぱり和可子さん譲りなのだろう。

「お花屋さんなんですってね。どんな優雅な方かと、お会いできるのをとても楽しみにしていたの」

 ことさらに、優雅、という言葉を強調して、和可子さんは言った。花束はリビングの端にぽつねんと飾られ、楽しみ、という言葉は上滑りして響いた。きれいなお料理はどれも、きっとおいしいのだろうけど、緊張のせいか、味がよくわからなかった。

「いいわね。毎日お花に囲まれる、きれいで、素敵なお仕事で」

「花屋って、きれいなばかりじゃないですよ。体力仕事なんです。水とか泥とかぬめぬめと戦うのが大半ですから。央樹よりも腕力あるかもしれないです」

 心なしか視線が険しくなった気がした。
 呼び捨てなのね、と言われて、はっとする。私はそんなふうに呼んだことなかったわ、と言われると、和可子さんと私の間になにか、くっきりと線を引かれたような気がして、腰のあたりがぴりぴりと落ち着かなくなる。
 変な緊張感のせいか、飲んでもあまり酔わず、体の力が抜けることがないし、のどがひどく渇いた。気づくとグラスが空になっていて、その都度、央樹が注ぎ足してくれる。
 ずいぶん召しあがるのね、という和可子さんの笑顔は、目が笑っていなかった。

「私たちの頃とは、いろいろなことが違うようだわ」

 央樹よりもお強いみたい、と言われて、慌ててワインボトルを手にしたものの、和可子さんはワイングラスを央樹の方へ押しやった。

「私、お酒はいただかないの。たぶん飲めないわ。主人もあまりお酒が強くなかったから、二人で洋菓子を食べるのが楽しみだったのよ」

 央樹が買ってきたケーキ箱から、ひときわ地味なお菓子を取り出した。

「妻はいつも夫より一歩下がって控えめに、って言うでしょう。だから私はいつもこれ」

 一歩下がって控えめに、というところで、和可子さんは私をちらりと見た。このひととうまくやっていけるのだろうかと、不安がよぎった。
 サヴァラン、という洋菓子らしい。
 透明なカップに入ったそれは、リング状の茶色い生地の真ん中に、白いクリームがしぼられた、シンプルなお菓子だった。店によってはクリームやフルーツを飾ったものなどもあるらしいけど、他の華やかなケーキに比べれば、素朴な姿らしい。
 よほど気に入っているのか、シロップがしみているのがおいしい、味わい深い、こんなに素敵な香りのお菓子は他にない、とひどくほめそやして、うっとり目を細めた。

「恋の味とでも言うのかしら。ただの恋ではないわ、一世一代のロマンスみたいな、とびきりの恋よ。あなたたちも籍を入れるのでしょう。その頃には、すこしわかるかもしれないわね」

 胸に手を当てて、うっとり微笑む和可子さんに、央樹が告げた。

「もう入れたんだ」

「どういうことかしら」

 和可子さんの低く尖った声が、空気を凍りつかせた。

「さっき出してきたんだ、婚姻届。今日が記念日だから。貴璃はもう家族だよ」

「私に、相談もなく……?」

 和可子さんの声が震えている。

「相談しただろ、籍入れるって。母さん、いいわねって言ってたろ」

「こんなに早いなんて聞いてないわ! だってついこの間の話じゃない」

「大きく問題なければ、時期なんて早くても遅くても、大して変わらないよ。書類出すだけなんだし。もうちょっと早く逢わせたかったけど、仕方ないだろ。俺も母さんも用事があったんだから」

 それはそうだけど、と言いつつも、和可子さんはすこしも納得していない様子だ。式は、挨拶は、と声を上ずらせていく。

「そういうのはゆっくり考えるし、相談もちゃんとするよ。少なくとも、貴璃が引っ越してきてから。年末年始にかけて花屋さんは忙しいんだ、それが一段落してから」

 和可子さんは、自分で自分を抱きしめるように、腕を組んだ。

「貴璃さんのお仕事が優先なの? 妻たるもの、夫の仕事に支障なきように、一歩下がって、万事取り計らうのが務めでしょう?」

 常に一歩控えること。夫を立てること。夫や家族の健康を第一に考えて暮らしをととのえること。和可子さんは、顔を真っ赤にして、矢継ぎ早に「嫁の心得」を説いた。
 そのたびに、澱のようなものが胸に溜まっていく。それは、かつては当たり前だった考え方かもしれないけど、今や教科書やCMだってこれだけ声高に、もう違う、と発信しているのに。

「母さん、もうそういう時代じゃないから。今は互いに協力し合うのが一般的だよ」

「いくら世の中が変わっても、大切なことは変わらないものだわ」

 和可子さんは不愉快さを隠そうともせず、私に向き直った。

「貴璃さん、あなたご自身は、どうお考えになっているの。お仕事を続けるにしても、央樹を最優先にしてくださるわよね。きちんと暮らしを守るのでしょう?」

 和可子さんの顔が、見ているこちらが苦しくなるほど、険しくなっていく。その不機嫌に引きずり込まれないように、息を大きく吸い込んだ。

「それはちょっと難しいです。市場が早いので、だいたい央樹より先に出勤します。帰りも、央樹より遅いときも、あると思います」

「家事は俺も協力するつもりだし、そう話し合ってるんだよ」

 家を守るのは妻の務めだわ、とぴしゃりと言い放って、和可子さんは泣いているような怒っているような顔で、私たちを交互に見た。
 どうして、そこで線引きをするのだろう。
 夫だとか妻だとか、それ以前にひととひとの結びつきであるはずなのに。協力し合うことのなにがそんなにいけないのか、私にはわからない。そんな線引きは、ただの窮屈な、足枷に思える。

「家を守らない嫁などもってのほか。央樹がたとえ許しても、榎本家の名にかけて私が認めませんよ。家事はできないわけじゃないでしょう? とくとお手並み拝見させていただくわ」

 あまりに威圧的な様子にかちんときて、わかりましたと答えてしまい、引っ込みがつかなくなった。

5🍺🍺🍺🍺🍺

 素直にやったことがないと言えたら、今頃違う未来に立っていたかもしれない。
 生きる、っていうことは、無数の選択肢から、つねになにかを選び取ることなんだろう。大事にしたいのは、選ばなかった未来じゃなくて、選んだ道を望む未来につなげるための、一歩だ。
 商店街のおばちゃんたちを見る限り、ああいう手合いは、同じ土俵に立つところからはじめないと、こちらの言い分もまるで耳にいれてくれない。和可子さんの言う「家を守ること」が家事なのなら、それをやり遂げてから、かつての当たり前と今のそれは違うとわかってもらうのがいちばんいい。
 とはいえ、ただでさえギフトの多いこの時期、並行してクリスマスやお正月準備の品にも対応しつつ、家事を身につけるというのは並大抵のことではなくて、あっという間に日々は過ぎ去っていった。
 香凛ちゃんの知り合いのアンティークショップのひとと打ち合わせた帰り、商店街のケーキ屋さんをのぞいてみた。ショーケースにはサヴァランはなかった。気になって、お店のひとにたずねてみると、別のお菓子をすすめられ、サヴァランというのはフランスの美食家の名前にちなんだものであることなどを、あれこれ教えてくれた。
 店を出た瞬間。
 けたたましい金属音とともに、道路の向かい側の自転車が、ばたばたと倒れていくのが見えた。スーパーマーケット前に停められた自転車が、みるみるドミノ倒しになって、すべてがなぎ倒されていく。その端に、半ば呆然と立ち尽くしている着物姿のひとは、まぎれもなくうしろむき夕食店の希乃香さんで、私は慌ててそばに駆け寄った。
 二人で自転車をせっせと起こし、しばらくすると、反対側の端からも、がしゃんがしゃんと音が聞こえた。視線を向けた先に、央樹がいた。


「変わらないね。ここ」

 央樹が、赤いギンガムチェックのテーブルクロスをなでる。
 南口商店街の老舗洋食店・オクラ座は、いつものように満席だった。
 シェフの星野さんは髪が白くなってきたけど、いまも変わらず、恰幅のいい体で力強く鉄のフライパンをふるい、奥さんの好美さんが笑顔で注文をとる。
 安くてボリュームがあり、ごはんがおかわりできるとあって、昔も今も学生の姿が多い。今日も制服姿の集団や、元学生のサラリーマン、中年男性が、カウンターでメニューブックを開いていた。
 リクエストに応えるうちに増えたメニューはアルバム一冊分にふくれあがり、ひととおり眺めるだけでも時間がどんどん過ぎ去る。写真入りメニューは二冊しかなくて、必然的に順番待ちになる。せっかちな客たちは、日替わりを注文するのが、いつからかこの店特有のならわしになった。
 今もメニューを手にしたサラリーマンが選ぶのを諦めたのか日替わりと叫び、学生たちの一団にメニューが手渡された。もうひとつのメニューはカウンターに座る中年男性がさきほどから熱心に見入っている。
 こうして央樹と逢うのは、入籍の日以来、ほぼ二週間ぶりだった。メッセージアプリや電話で連絡を取っているものの、こうして顔を見られると、やっぱりほっとする。

「掃除と洗濯はなんとかなりそうだけど、料理が難しいよ。あれは経験が必要。付け焼刃じゃ太刀打ちできなそう。和可子さんに、もってのほか、って言われそうだよ」

「あんまり無理しないでいいよ、俺もなるべく家事するし。それにさっき希乃香さんにも、いいこと教わったろ」

 一区画分の自転車をドミノ倒しにした希乃香さんは、財布を落としたのがそもそもの不幸のはじまりだったらしく、下ばかり見て歩いていて、自転車に気づかず、ぶつかったらしい。見る間に倒れていった自転車は、五十台はあったと思う。結局財布も見つからなかったけど、希乃香さんは律儀なひとらしくて、お礼をしたいと言い張った。それに甘えて、料理を格上げする魔法を、教えてもらった。志満さんから料理の手ほどきを受けているという希乃香さんは、丁寧に教えてくれたばかりか、なにかあったらいつでも相談にのると、頼もしい言葉までかけてくれた。

 メニューはまだ回ってこない。
 カウンターに座るおじさんは、メニューのページを行きつ戻りつして、まだ迷っているらしい。店内は暖房が効いているのに茶色いジャンパーを脱ぎもせず、帽子やサングラス、マスクすら外さずに、せわしくページをめくっている。丸めた背には、肉まんのような柄が描かれていた。その珍しい柄を、前にどこかで見たような気がした。
 結局、学生たちの方が先に注文を決め、ようやく私たちにメニューが回ってきた。

「俺、ビーフシチューにする。家じゃ出てこないから」

「そうなの? 和可子さんお料理上手で、なんでも作りそうなのに」

「昔はよく作ってたんだけどね」

 和可子さんがサークルに参加しだしたのは、お父さん亡き後かららしい。すこしずつ、増えていったのだという。寂しいんじゃないかな、と央樹は言う。だから、貴璃が来て、家族が増えたら喜ぶよ、と。先日の様子からは、とてもそうは思えないけど。
 書類上は、私たちは、家族になった。でも、実感はまだない。家族と心から感じるのは、どんなときなのだろう。それが自然と生まれるものなのか、努力して作りあげるものなのかも、想像がつかない。
 やがて、ビーフシチューとクリームコロッケが運ばれてきた。
 お料理にはどれも、オクラの輪切りが仕上げに飾られる。切ると星形になるオクラがあちこちの皿に散る様子を星座に見立てたのが店の名前の由来だと、以前、好美さんがうれしそうに教えてくれた。壁には、好美さんが描いた、オクラの花の水彩画が飾ってある。やわらかなレモンイエローの、ハイビスカスに似た、かわいい花だ。
 央樹はビーフシチューの具だけを先にせっせと口に運ぶ。相変わらずだなあ、と見つめながら、サクッと揚がった俵形のコロッケをフォークで割ると、とろりとクリームソースが流れ出てきた。中にはチーズが入っている。溶けたチーズと、なめらかなクリームソースの取り合わせは、何度食べても、飽きることがない。
 央樹はあらかた具を食べ終えると、ごはんにシチューのスープをまわしかけ、うれしそうにほおばった。

「またその食べ方?」

「うまいよ。これがいちばんおいしいビーフシチューの食べ方。貴璃もやればいいのに」

「私は遠慮しとく。別々に食べる方がいい」

 ようやく、カウンターのおじさんが好美さんを呼び止めて注文した。
 央樹は、そちらを横目で見て、声をひそめる。

「ずっと気になってたんだけど、あのおじさん、あのときのあのひとに似てないか」

 そう言われてみれば、あの肉まん柄は、あのおじさんの着ていた服の柄だったかもしれない。でも、十五年以上経っているのに、まったく同じ服を着ているものだろうか。

 高校時代、何人かでオクラ座に来たことがあった。店内はいつものように混んでいて、その中に、あんなふうな、ちょっと怪しい格好をしたおじさんがいた。まだ暑い季節だったのに冬物のジャンパーを着込んで、店の中なのに帽子もサングラスもマスクも外さない。おじさんは先に店を出たのだけど、私たちが会計をしようとすると、星野さんは「もうもらっている」と妙なことを言った。
 あの怪しげなおじさんが、私たち全員の食事代まで、払ってくれたのだそうだ。
 央樹と二人ですぐさま追いかけたけど、おじさんの姿は見つからなかった。オクラ座に戻ると、仲間は帰ったあとだった。
 あのとき家まで送ってもらったのが、央樹と親しく話すきっかけになった。いわば、あのおじさんが私たちの距離を縮めてくれたのだった。
 
 カウンターに座るおじさんは、メニューを選ぶのはあれほど時間がかかったのに、たちまち食事を終え、あっという間に店を出ていった。
 異変に気づいたのは、そのすこし後のこと。
 レジで学生たちがにわかに騒がしくなり、聞けば、学生たちの食事代を、あのおじさんが支払ったという。聞くが早いか、央樹は私に待っているよう言い置いて、コートを手に飛び出していった。
 好美さんによると、よく来る客ではなく、素性も目的も、まるで心当たりはないらしい。

「近頃流行ってるのかしらね、ああいうの、他のお店でもたまに聞くよ。そういえば貴璃ちゃん、結婚したんだって?」

 相変わらず商店街の奥さまネットワークは情報が早い。この店で食事したのが親しくなったきっかけだと話すと、好美さんは喜んで、注文用紙になにかを書きつけてくれた。

「それね、絶対に失敗しないお料理。私が唯一、星野に褒められる料理よ。貴璃ちゃんの役に立ててちょうだい」

 戻ってきた央樹は、お冷を一気に飲み干して、見失った、と肩を上下させた。

「やっぱりあのひとだと思う。だけどおかしくないか、同じ格好、同じ姿。髪の毛だって、白髪が交じってるわけでもなく、真っ黒だ」

「そうかなあ。年を重ねるほど、十年くらいの見た目の変化ってさほど大きく感じないよ?」

 央樹はコーヒーを二つ注文して、こめかみのあたりを指さした。

「生え際だよ。白くなったり、後退したり、細くなったり。生え際は年齢を隠せない」

 よく見ているものだなあ、と感心する。営業職ならではの観察眼なのかもしれない。央樹は和可子さんを一人にできないからと遠方への転勤を断り続け、昨年、社内一業績が悪い営業所に飛ばされたらしい。でも、そのおかげで、高校卒業後に疎遠になっていた私たちは、お互いの得意先の病院でばったり再会し、つきあうようになった。
 運ばれてきたコーヒーにミルクをいれると、央樹は表情を引き締めた。

「あのひと、年を取らないんじゃないか」

「は?」

「いろんな理由が考えられるけど、大きく二つの考え方があると思うんだ。一つは不老不死の男みたいに、年月を経ても老いないひと。もう一つは時間旅行者(タイムトラベラー)。あのときと今がおじさんの時間軸ではつながってるのかもしれない」

「中二病がすぎるんじゃない?」

 鼻をふくらませて話をどんどん広げる央樹を一蹴して、私はコーヒーを飲んだ。

6🍺🍺🍺🍺🍺🍺

「貴璃さん、来てくれたのね」

 インターホンの向こうで、和可子さんは、不敵に微笑んだ。
 ドアを開けると、左の足首には包帯が巻かれていた。三日ほど前、サークルに出かけた際に、足をひねったらしい。歩く姿はすこし引きずるようで、ぎこちなく見える。
 買い物や家事も不便らしく、「ちょうどよい機会だから」手伝いに来てほしいと、央樹を通じて頼まれた。二日間家事をがんばっていた央樹は、今日から地方の学会に仕事で出かけていて、家には和可子さん一人。
 つまりこれは、挑戦状なのだ。家事の「お手並み拝見」の。

「和可子さんはお部屋で休んでて大丈夫ですよ」

 受けて立ちましょう、という気持ちで、エプロンをつけて、和可子さんと向き合った。私にはちゃんと勝算がある。母の助言のほかに、好美さんの絶対失敗しないレシピも。

「ひとまずお洗濯とお掃除、それから夕食を作りますね。買い物もしてきました。ほかになにかご希望ありますか?」

「そうね。一段落ついたら、お紅茶をいれてくださる?」

 お安い御用と請け負うと、和可子さんは自室に戻っていった。

 ケーキの箱を冷蔵庫にしまい、テーブルにピンクの薔薇を一輪飾る。
 よし、と気合をいれて、メモ帳に鉛筆を走らせる。
 まず洗濯。白いもの、色柄ものを仕分け。先に白を洗う。
 お米を研ぎ炊飯器にセット。料理の仕込み。
 洗濯物を干す。色柄ものを洗濯。掃除機かけ。
 紅茶をいれる。色柄ものを干す。よし、ぬかりない。

 大人二人の洗濯物は、五人家族に比べればかなり少なくて、あっという間に仕分けも済んだ。和可子さんの白いシャツやブラウスは光沢があって、凝ったレースの飾りがついていた。私のひび割れた指先もなめらかにすべるほど、手ざわりがいい。青いストライプのワイシャツからは、ほのかに央樹の香りがして、がんばろう、と気合も入る。
 お米を研いで炊飯器にセットし、オクラ座の好美さんに教わった「絶対失敗しない料理」、塩豚のポトフの材料をキッチンに並べる。
 じゃがいも。にんじん。たまねぎ。セロリ。昨日から漬け込んでおいた、塩豚。
 材料を入れて鍋に任せておけば、必ずおいしくできるそう。だけど、念には念を。私にはとっておきの切り札がある。
 希乃香さんに教わった、「料理を格上げする魔法」も、ちゃんと仕込んできた。
 ワインだ。
 料理を格上げする魔法は、お酒全般なのだと、希乃香さんは教えてくれた。
 お鍋なら日本酒、煮込み料理にはワイン、揚げ物の衣にビール。いつものお料理にちょっと加えると、深みと奥行きを与えてくれるという。ポトフなら白ワインがいいと、アドバイスももらった。飲んでもおいしいのを使うと、いっそうおいしくなると聞いた。
 見たところ、塩漬けの塊肉が入るのは、あのオレンジ色の鍋くらい。材料を入れ火にかけて白ワインを注ぐと、キッチンに芳醇な香りが漂った。飲みたい衝動を必死にこらえて、次の家事にとりかかる。計画立てが功を奏したのか、洗濯も掃除も、滞りなく進み、協力してくれたひとたちに心の中で感謝した。
 紅茶は思った以上に難関で、食器棚にはずらりと紅茶缶が並んでいた。はじめて茶葉からいれた紅茶は、ティーカップに注ぐときれいな色になり、ほっとした。リビングの薔薇のそばに置くと一枚の絵のようで、意気揚々と和可子さんに声をかけた。
 いい調子、と口にしながら洗濯機を開けたとき。
 リビングから小さな悲鳴が聞こえた。

 和可子さんの背中が、よろめいていた。
 具合でも悪くなったのかと、駆け寄って椅子に座らせる。病院が先か、央樹に連絡が先かと迷っていると、震える手がベランダにはためく白い洗濯物を指した。

「洗濯機で洗ってないわよね……?」

「はい。しっかり洗濯機で洗いましたよ。もちろん、色柄ものと分けて、洗濯ネットにもちゃんと入れました」

 和可子さんはうつろな目で洗濯物を見つめると、力なく呟いた。

「ブラウスも、シフォンのシャツも、どちらも絹。ヴィンテージの一点ものよ……。クリーニング用のかごに入れておいたのだけど」

「絹って……たしかふつうに洗濯しちゃ、だめなやつですよね」

 言われてみれば、洗うときにはつややかだったそれらは光沢を失って見えた。慌てて取り込んだものの、あのなめらかな手ざわりは消え、一度濡れて乾いた紙みたいに、ごわごわしていた。
 ごめんなさいと差し出しても、和可子さんは言葉もなかった。ただ私の手をじっと見て、肩を落とすと、洗濯物を隣の椅子に置いた。
 これ見よがしに大きなため息をひとつつき、紅茶に口をつけたかと思うと、ひどく咳き込んだ。

「渋い。渋すぎる。飲めないわ」

 咳ばらいをし、のどを鎮めた和可子さんの顔に、今度は困惑が浮かんだ。

「ねえ……さっきからのこれ、なんのにおい?」

「夕食にポトフを作っているんです」

「私の知っているポトフは、こんなふうにすっぱいにおいはしないわ。それに、ちょっと、焦げたようなにおいも」

 慌ててキッチンに戻ると、たちこめる香りは、さっきよりも酸味が際立っていた。ワインの香りは空気に触れて変化するのが楽しいけれど、料理においてもそれは例外ではないらしい。ただ、今は、あまりいい変化には思えない。
 材料をひたひたに覆っていた水分は半分に減り、煮崩れたじゃがいもが、鍋底に真っ黒く焦げついていた。見た目が悪くてもせめて味がよければと、祈るように味見してみたものの、スープにもお肉にも、ワインの酸味だけがしみこみ、ひどい味がした。
 はじめて食べる味はまずく感じるものだと聞いたけど、そうではなく、これは明らかに失敗だとわかる。私の知っているポトフも、こんなふうにすっぱい味はしない。
 黒くこびりついた焦げも、菜箸でいくらつついても、はがれない。
 力任せにつついていると、横からのぞき込んだ和可子さんが、声を震わせた。

「そのお鍋……主人からの、プレゼントなのよ……」

「ご、ごめんなさい!」

 なんだか自分が、和可子さんの大切なものをどんどん踏みにじっているような気がして、いたたまれなくなる。キッチンの調理台に置いたままの、ワインの空き瓶を手に、和可子さんが大きなため息をついた。

「まさかとは思うけど、これをポトフに?」

「ワインは煮込み料理を格上げしてくれるって聞いたので」

「格上げどころか、台無しじゃない。まるまる一本なんて、もってのほか。貴璃さん、あなた、家事ができるなんて嘘ね?」

「あの、ごはんは、炊けてますから」

 炊飯器を開けると、水に浸かったままのお米がそこにはあった。どうやら炊飯ボタンを押し忘れていたらしい。
 挽回の手立ても、開き直るすべも、もはやなにも思いつかない。困り果てる中、いつでも相談してください、と言った希乃香さんの顔が思い浮かんだ。

「和可子さん、お出かけのしたく、お願いできますか」

7🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

「こんなお店があったなんて」

 タクシーの中ではずっと不機嫌だったのに、うしろむき夕食店に着くと、和可子さんの目はきらきらと輝いた。
 空いていたカウンター席に通されると、和可子さんはサークルで鍛えあげた社交性を発揮して、おしぼりを出す志満さんに素敵な結城紬だと声をかけ、メニューを運んできた希乃香さんにかわいらしい銘仙だと目を細める。たちまち、長く通う客のように、なじんでしまった。私には、薄紫色の着物、薔薇柄の着物、としかわからないけど、和可子さんにはさまざまな着物の違いがわかるらしい。

「お酒じゃない飲みものも充実していてうれしいわ。トパーズソーダってどんなものかしら」

 和可子さんがメニューを指さしてたずねると、志満さんは軽く頭を下げた。

「申し訳ありません、孫が気取った名前をつけまして。これじゃなにかわかりませんよね。梅シロップをソーダで割ったものなんですよ」

「いえ、素敵なお名前だわ。ロマンがありますもの。こちらをいただきます。貴璃さんは、ワインかしら?」

 もちろん、とのどまで出かかるのをぐっとこらえて、私も同じソーダを注文した。
 お通しの小鉢には、こんもりと盛りつけられたきれいな紫色のおひたしが出された。

「きれい。紫キャベツの千切りかしら?」

「菊の花なんですよ」

「わ、これが食用菊ですか」

 食べる花は店では扱わないから、見るのも食べるのもはじめてだった。
 志満さんが見せてくれたのは、子どもの手のひらほどの、可憐な花。萼からはずし、酢を入れたお湯でゆがくのだという。
 しゃきしゃきとした独特の食感で、控えめなおだしとお酢の味わいに、ほのかに菊の香りが加わる。

「菊の花は、中国では長生きのお薬と言われて、お茶やお酒、漢方薬と重宝されてきたようですよ。山形や新潟など北の方で食べられるみたいですね」

 八百禅さんが東北で仕入れて届けてくれたという。和可子さんは、花を食べるなんて風雅だとしきりに感心している。

「新潟の一部ではおもいのほか、山形ではもってのほか、と呼ばれるそうですよ」

「もってのほか?」

 思わず和可子さんを横目で見てしまう。

「おもいのほかおいしい、もってのほかおいしいからだとも、あんまりおいしいからお嫁さんに食べさせるなんてもってのほかだからだとも、聞きましたよ」

「秋茄子にもそんな話がありますわね」

 和可子さんは、志満さんが手元で盛りつける菊の花を見つめながら、金色のソーダを口に運ぶ。

「意地悪のようにも言われますけれど、茄子は体を冷やすからむしろお嫁さんを大事にする言葉だと言われることもありますね。アタシはお嫁さんをやったことがないので、真偽は知りませんけれど」

 希乃香さんの祖母と聞いたはずなのに、不思議に思っていると、志満さんはその昔大恋愛を経て未婚の母になったのだと、希乃香さんが教えてくれた。
 さぞご苦労されたのでしょうねと和可子さんが気遣わしげにたずねる。志満さんはホウロウ引きの容器を取り出しながら、穏やかに答えた。

「たとえ逢えなくても、そのひとと重ねた時間は、なにも変わらずに残っていますからね。ちょっと、うしろを振り向けば、いつだって思い出すことができますよ。それも不思議と、よかったことばかり」

 しばしの沈黙ののち、素敵だわ、と和可子さんが呟いた。

「一世一代の恋でしたのね。ご苦労はおありでしたでしょうが、生涯を賭けた恋なんて、憧れるわ。お相手はどんな方でしたの?」

 不躾な質問なのに、志満さんは気を悪くすることもなく、ぬか漬けを取り出しながらなつかしそうに目を細めた。

「ちょっとそそっかしくて、優柔不断で、でも憎めないひとでした。洋食屋さんで隣り合わせたんですよ、同じハンバーグ定食を食べていてね。あちらは学生、アタシは芸者でしたから、人目を避けて逢瀬を重ねましたけど、いろいろありましてね。姿をくらませてしまいました」

「志満さんとおじいちゃまのそんな話、はじめて聞いた」

 だって聞かれなかったもの、と志満さんは飄々としたものだ。
 希乃香さんは、そのおじいさんを、捜しているのだという。店の存亡がかかっていると聞いた和可子さんが、できることなら協力してさしあげたいわ、と志満さんを見た。

「なにか、手掛かりはないのかしら、芸能人の誰それに似ているとか」

「役者の松嶋孝蔵に似てましたよ。でも、もうすこしばかり、いい男でしたけど」

「それなら町で見かけたらすぐにわかりそうですわね。私、大ファンですの。物静かできりっとして紳士的で。新しい映画は、ご覧になりました?」

「ええ、封切りに」

 和可子さんはひとしきり志満さんとの映画談義に花を咲かせ、急にふと、お腹が空いたわ、と私を見た。ようやく、料理の注文をしていないことに気づいたらしい。
 ぬか漬けと焼きたまねぎ、冬野菜のスフレはすぐに決まったものの、肝心のメイン料理がなかなか決まらない。メニューに並ぶお料理をあれこれと挙げては迷い、ページの最後に書かれた文字に目を止めた。

「おみくじってなにかしら」

料理おみくじの存在は知っていたけど、私も試したことはまだなかった。希乃香さんがうやうやしく運んできてくれた白木の三方には、赤い縁取りの懐紙の上に、こんもりとおみくじが積みあげられていた。

「じゃあ、貴璃さん、お願い」

「和可子さん、引かないんですか?」

「凶が出たら、嫌だもの。年を重ねると、悪い結果が出るのはおそろしいものなのよ。大切なひとを守れなくなるのは嫌」

 志満さんに同意を求めた和可子さんは、アタシはハタチなので、との答えに、二の句が継げなくなっていた。志満さんは、ハタチから年を取らないと決めたのだそうだ。
 一つを選び、開いてみる。

「吉も凶もないです。『縁談きながにビーフシチュー』って」

「ビーフシチュー……?」

「そういえば和可子さん、あんまり作らないんですよね?」

 ビーフシチューを注文してからの和可子さんは、すこし様子がおかしかった。
 吉とも凶とも書かれていないおみくじが、それほどショックだったのか、先ほどまでの浮かれぶりが嘘のようだった。心ここにあらずといった様子で、他のテーブルの家族連れや恋人たちをぼうっと見ては、時折思い出したように料理や飲み物を口に運ぶ。希乃香さんおすすめのアメジストソーダも頼んだのに、きれいね、と言ったきり、黙り込んでしまった。
 冬野菜のスフレは、大根やにんじん、ほうれんそうを重ねた断面の彩りがきれいで、口にいれるとふわっとチーズの香りが広がった。小ぶりのをまるごとオーブンで調理した焼きたまねぎはとても甘く、添えられた燻製醤油をたらすといっそう、ワインが欲しくなった。山ぶどうの原液をソーダで割ったアメジストソーダは、香りや雰囲気がワインに近く、だからこそ余計に、もどかしい。
 それに、おみくじに書かれた言葉が、ひっかかっていた。
 縁談きながに。
 婚姻届を出して縁は結ばれたはずなのに、きながに、とはどういうことなのだろう。なんだか、明るい話には思えない。家族と認められるのに時間がかかる、と言われている気がした。売られた喧嘩には、勝つどころか、大敗もいいところ。和可子さんに認められる日なんて、来ないんじゃないかと思えてくる。

 おいしそうな香りとともに、志満さんが暖簾の奥から姿を現した。
 円形の耐熱皿に入ったビーフシチューは、こっくりと深みのあるいい色をしていた。
 ごろりと大きなお肉の塊と、にんじん、じゃがいも、ブロッコリーが彩りよく盛りつけられている。フルボディのワインに合わせたらさぞおいしいだろうと想像するせいか、料理から芳醇な赤ワインが香る気がした。
 目の前に並ぶシチューとごはんに手をつけようとせず、じっと見つめたままの和可子さんに、お先にいただきますと声をかけて、スプーンを手に取る。
 濃厚なビーフシチューは、思ったよりも、口当たりは軽かった。
 塊のお肉は、スプーンで難なく切り分けられるほど軟らかくて、噛めばほろりとほどけた。ひとさじの中にうまみが重層的に溶け込んでいるのに、すこしも重たく感じず、ゆたかな味わいの余韻だけが残る。いくら食べてもしつこく感じない。
 そういえば、央樹と話すようになったあの日も、ビーフシチューを、食べたのだった。

8🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 文化祭前日、私たち実行委員は、目まぐるしい一日を過ごしていた。事前に計画は立てたものの想定外のことが起こって、思ったように進まない。私が担当する大看板の製作もその例にもれずに、本来なら校門前にもう飾られているはずの、畳四枚ほどの大看板の最終仕上げにようやく取り掛かっていた。
 中庭で、校舎の壁に立てかけた看板は、スローガン「怒濤を乗りこなせ!」に合わせ、北斎の浮世絵みたいな高波と、制服姿の学生たちがサーフボードで波を滑る様子を描く。砕け散る白い波頭を描き加えれば完成、という頃には、日が傾きはじめていた。
 あらかた描き終えて、いったん遠くから見てみようと、離れたときだった。どこかから飛んできたボールが当たり、看板は、描いた面を下にして倒れ、ばふんと土煙をあげた。
 突然の出来事に、声も出なかった。起こしてみると、塗ったばかりの白い波頭には砂粒がこびりつき、手で払っても、とれないばかりか、どんどん奥に入り込んでしまう。爽快なはずの白い波しぶきは、無数の、黒々とした汚点に変わっていた。
 そこに現れたのが、央樹だった。アトラクション班のチーフを務める彼は、的当ての準備中に、窓からボールが飛び出したと説明し、ごめん、と頭を下げた。そこまではよかった。

「悪いけど、もう一回描いてよ」

 かちんときたのは、私だけではなかった。なにそれ、と誰かが吐き捨てる。描くの大変なんだよ。もう間に合わないよ。軽く言わないでよ。抗議は次々に重なった。
 やればできるって、と央樹が安易に言い、頭に血がのぼった。
 私は央樹の前に進み出て、白いペンキを差し出した。

「なら、あなたが描きなよ」

 央樹は無言でそれを受け取ると、次の瞬間、足元の砂を掴んで、ペンキ缶に思いきり投げ入れたのだった。
 めまいがした。私たちが重ねてきた時間をすべて、ないがしろにされたようで。
 食って掛かる私を制して、央樹は砂とペンキを交ぜ、砂まみれの波の上にたんたんと塗り重ねた。ペンキは乾くに従ってうすい膜のようになり、砂の凹凸が、立体感のある波しぶきのようになって、思いもよらない景色を、目の前に映し出した。
 おもいのほかうまくいった、と笑う央樹の頬や指には、白いペンキがついていた。
 全員で筆をとり、看板を仕上げたあとはオクラ座になだれ込み、みんなでビーフシチューをほおばった。一緒に作業や食事をするうちに、ぎこちなかった空気は消えていた。
 
 思えば、出逢ったあのときから、央樹と私は「違う」ことが多かった。考え方も、好みも、ビーフシチューの食べ方だって。でもそれを、「違う」と線引きしたまま、踏み越えずにきた。知らないこと、わからないことは怖いから、それを避けようとするのは、自分の身を守るための、本能に近いのかもしれない。だけどもしかしたら、一歩踏み込んだ先に、思いもよらない景色がある。あの波しぶきのように。
 シチューのスープをごはんにかけて食べる央樹に、星野さんがうれしそうに話していた。
 煮込み料理の主役は、具材よりもスープだから、と。いろいろな具から、それぞれの味わいが醸し出されて、おいしいスープができる。似たような味ばかりでなく、違う味が入るからこそ、深みが生まれて、味わいがゆたかになる。ひとも似てるね、と。
 あたらしく家族をつくるのも、煮込み料理のようなものなのかもしれない。
 これまでまるで違う人生を歩いてきたもの同士が、同じひとつの、家族という鍋に入る。煮込むうちには、煮崩れたり、灰汁が出たり、吹きこぼれたりもするだろう。合う合わないも、経験しないとわからないことも、きっとあるだろう。
 でも、できることならすこしずつでも、一緒においしいスープを作っていきたい。
 スプーンを手に、私は央樹がやっていたように、ごはんにスープをまわしかけた。


「貴璃さん、あなた、その食べ方」

 和可子さんが目を見開いた。

「はじめてやってみましたけど、意外とおいしいですね。央樹に教わったんです、いちばんおいしいビーフシチューの食べ方だって」

「あのひとも、そうやって食べていたわ」

 ふうっと、長く息を吐いて、和可子さんは胸元で手を組んだ。

「具を先に食べてしまって、残りをごはんにかけるの。主人が最後に食べたのも、ビーフシチューだった。あのオレンジ色の鍋にたっぷり作ったの。もうちょっと長く、一緒にいられると思っていたのだけど。人生っていうのは、わからないものね」

 それからはなんだかビーフシチューを作る気になれなかったという。二人で食べるのはさびしくて、と和可子さんは目線を落とした。和可子さん自身も、それ以来、ビーフシチューを食べていないのだそうだ。央樹がオクラ座で食べていると知ると、目を細め、志満さんを見あげた。

「本当ね。たとえもう逢えなくても、重ねてきた時間は、なくならない。央樹を通じて、あのひとに逢ったこともない貴璃さんが、同じ食べ方を」

 志満さんが、穏やかな笑みをたたえる。

「つながるんですよ、きっと。おいしいものは、誰かと分かち合いたくなりますから。一緒においしいものを食べたい相手は、大切なひとでしょう?」

 大切なひと、と繰り返すと、和可子さんはビーフシチューにようやく口をつけ、おいしい、としみじみ呟いた。

 最後のひとさじまで丁寧にビーフシチューを食べ終えて、ごちそうさまでした、と和可子さんは手を合わせた。

「とてもおいしかったです。手をかけてあるお味で」

「手は、そうかけちゃいないんですよ。うちは本格的な洋食屋さんやレストランさんと違って、家庭料理ですから。アタシはお肉とお野菜をぽんと鍋に入れただけ、あとは時間が育ててくれたお味ですよ。そうそう、それから赤ワインを一本」

「一本……ですか?」

 びっくりして、聞き返す声が裏返った。それは、私が失敗したポトフと、同じ量だ。

「ええ。それと、企業秘密ですけれど、隠し味に八丁味噌を」

「シチューにお味噌だなんて」

 もってのほか、とでも続きそうな調子で、和可子さんが言った。

「線引きするのはもったいないですよ。アタシたちの若い頃と違って、男性が育児休暇を取る時代ですからね。枠はどんどん取っ払わなけりゃ。とくにおいしいものはね。希乃香が言うには、ワインと食べ物を合わせるコツは、香りや味、同じ産地、それに似た色だそうですよ。濃い赤ワインも八丁味噌も、お色がちょっと似てますでしょ」

 どちらも同じ発酵食品ですし、と志満さんは平然と続ける。

「前の、バターを挟んだ大根と白ワインも」

「ええ。どちらも白かったですよね。共通点さがしって、合うものさがしにはとってもいいんですよ」

 希乃香さんが他のテーブルのお酒を準備しながら、合いの手をいれる。

「お酒とおつまみの世界は奥深いですよ。それ以外にも、全然違うものがぴったり合ったりしますから。極甘口のワインに癖のあるブルーチーズも合いますし、苦めのビールと栗もなか、黒ビールとチョコレートケーキとかも。個々の知っている味が結びついて、知らなかった、新しい味の広がりを見せてくれるのが楽しいんです。驚きの分、おいしさも増える気がしますよ」

「もし、合わなかったら、どうなさるの……?」

 和可子さんが、志満さんと希乃香さんを交互に見た。
 希乃香さんが、私を見てにっこり笑い、ワインを二本、目の前に並べてみせた。

「同じ品種から作られるワインでも、産地が違うと、風味も味わいも、違います。万華鏡にたとえられるほど、がらりと変わるものもあるんです。品種にもよりますが、育つ土地、極端に言えば畑によっても、味が変わるんですよ。土地と環境の個性が、ぶどうの魅力を決めるのって、なんだかすごいことですよね」

 そういえば八百禅さんも、大根は畑によって味が違うと、言っていた。
 味わいの違うワインは、楽しみであり、醍醐味でもある。自然を凝縮したような味わいに、同じ品種でも、育つ環境によって万華鏡のようにさまざまな個性があるなんて、考えるだけでも、楽しい。さまざまな個性が、時間をかけて熟成し、それぞれにおいしいワインになる。

「同じ品種でも、産地の数だけ味があるんですから、いつかなにかは合います。わたしは信じてます」

 希乃香さんの言葉に、志満さんがやんわり重ねる。

「うまくいかなければ、別の方法を探せばいいだけですよ。おおらかに、試してみればいいんです。楽しみを増やすつもりで、きながにね」

 きながに。
 カウンターテーブルの端に置かれたおみくじに、目をやった。
 帰り際に希乃香さんが、この間のお礼だと、ラム酒の小瓶を渡してくれた。バターでバナナを焼き、仕上げにかけると素敵なデザートになるという。
 和可子さんは、また来ます、と志満さんに軽く頭を下げた。
 いってらっしゃい、の声に見送られ、私たちはタクシーに乗り込んだ。

9🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 家につくと、キッチンにはまだ、ワインのすっぱい香りが残っていた。

「飲めばよかったなあ」

 ポトフに入れるワインは、コップ半分ほどが適量だったらしい。もったいない、と心底思った。
 鍋を洗おうとすると、和可子さんの手が横から伸びてきた。

「和可子さん、私、やりますよ。責任をもって、焦げたところを磨いてピカピカにします。力仕事は得意ですから、しっかりゴシゴシと」

「遠慮しておくわ。お鍋のコーティングがはがれてしまうもの」

 そう言って白い粉と水を入れ、火にかけた。

「こういうのは、重曹で煮るの。一度でうまくいかなければ、何度も」

 ついでに、と和可子さんはお湯を沸かして、紅茶をいれてくれた。たくさん並ぶ紅茶の缶からひとつを選び出し、夜用のカフェインレス紅茶よと説明しつつ、無駄のない手つきで、ティーポットにお湯を注ぐ。

「おいしい紅茶はね、元気よく、跳ねるの。鮮度も、沸かしたてのお湯も大切だけど、大事なのは、ちょうどいいティーポット。大きすぎても、小さすぎてもいけないの。うちのは、三人用だから」

 ちょうどいいわ、と消え入りそうな声が聞こえた。
 私ならそのまま牛乳を注いでしまうのに、和可子さんはミルクもレンジで加熱して、紅茶に添えて出してくれた。
 ミルクティーは、やさしい味がした。
 見えないところにも心を配ってくれているからこその、まろやかな味わいなんだなと知った。

「すごいですね、和可子さん。いろんなこと、たくさん知っていて」

「それは、あなたより長く、時間を重ねてきたのだもの」

 当然よ、とでも言うように、和可子さんは背筋をピンと伸ばした。

「家を守るのは大切な仕事よ。きちんと愛情をかけて、央樹のことを大切にしてほしいの。一日でも長く、あなた方が一緒に、幸せに暮らせるように」

 私たちは、向き合って争っていたわけではなく、それぞれ違う場所から、同じ方向を見つめていたのかもしれない。和可子さんも私も、央樹を大事にするという同じ思いのもとに、つながっているのだと、気づいた。
 あなたにだけ言うことではないのかもしれない、と和可子さんは言った。

「ぶどうは育つ土地で味が違う、って言っていたわね。私たちとあなたたちでは、育つ畑が、違うのかもしれない。今の時代には、今の時代に合った夫婦の形があるのかもしれない。央樹にとっては、あなたが大切なひとなのだから。お互いに、大切にしあうことが大事なんだわ、きっと」

 大切なひと、という言葉に、彼らが紡いできた家族の歴史の中に、自分がまざりあうような気がした。途中で具材を取り出しても、風味はスープに溶け込んでいるように、大切に受け継がれた家族の気配はここに残っている。ビーフシチューの食べ方にも。

「でも、家事のことは、自信ないです。和可子さんみたいにはできません」

 和可子さんは、リビングの椅子に置かれたブラウスとシャツに目をやり、たしかにあれはひどいわ、とため息をついた。

「私の想像を超えていたわ。思いもよらないことをやってくれたし。とても及第点はあげられないわね」

 和可子さんは、紅茶のお代わりを注いでくれ、私の手をじっと見た。

「でも働き者の手だってことは、わかるわ。そういう手、おもいのほか、嫌いじゃないの」

 うっかり目頭が熱くなるのを、いいハンドクリームがあって、とごまかすと、和可子さんは熱心に聞いてきた。

「あのう、家事はダメでしたけど、他の得意なことだったらたぶん、及第点は楽に超えたと思うんです。ワイン飲み比べ選手権とか、花束配達タイムバトルとか、水入りバケツ運搬長距離走とか」

「あなたって本当に、思いもよらないことを言うのね」

 和可子さんがぷっと吹き出した。

「やってみたらいいわ、二人で協力をして。それでも難しかったら、私も、いるし」

「……和可子さん!」

 自分に見えている世界と、誰かに見えている世界は、すこしずつ違う。
 だけど、「違い」があることを前提に、お互いがその「違い」を理解しようとする思いが、私たちをすこしずつ、近づけていくのかもしれない。
 違うからこそ、新しく触れるなにかに、きっと世界はすこしだけ広がり、ひととのかかわりの数だけ、深まり、ゆたかになっていく。
 花屋にある花だけが花ではなくて、野菜に咲く花も、食べられる花もある。
 花もワインもひとも、きっと、違うからこそ、面白みにつながる。


「和可子さん、デザートにサヴァラン、召しあがりませんか」

 冷蔵庫からケーキの箱を取り出す。

「あら? そのお店、前はサヴァランはなかったけれど」

「ええ。でも、ババがありました。和可子さんにはこれだなと思って。……和可子さん?」

 和可子さんは表情を硬くして、低い声で呟く。

「……貴璃さん、あなたとせっかく仲良くなれるかと思ったのに。そう。ババアはババでも食べておけとおっしゃるのね」

「ち、違いますよ! そんなこと言ってません! ババは、和可子さんの好きなサヴァランと同じお菓子のことですよ!」

 商店街のケーキ屋さんに教わったことを、必死に説明した。

「ババもサヴァランも、ブリオッシュ生地にラム酒のシロップをしみ込ませたお菓子なんです。サヴァランはリング形、ババは俵形が多いようですけど、もとは同じお菓子のことなんですよ」

「では、あの、私がおいしいと思っていた香りは、お酒の香りだったの?」

 和可子さんは、信じられない、とでも言うように、頭を横に振る。

「お酒は飲めないっておっしゃってましたけど、香りや味はお好きなのかも」

 希乃香さんにもらった、ラム酒の蓋を開けて差し出す。

「一世一代の恋の味って、この香りでしょう?」

「貴璃さんから教わることも、たくさんあるのかもしれないわね」

 和可子さんは、何度もラム酒の香りを確かめて、言った。

「今日、すこしだけわかったの。貴璃さんは誠実が取り柄ね。そして、負けず嫌い」

「私もわかりました。和可子さんは中身が乙女でロマンチストなんですね。そして、負けず嫌い」

 いたずらっぽく笑う和可子さんから、ラム酒の小瓶を受け取って、それぞれのミルクティーに、ひとさじずつ垂らした。
 私たちは、ティーカップを掲げて、笑みを交わし合う。

「乾杯!」


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