創業100年の老舗酒場『シンスケ』にハートランドがある理由
シュポーン!酒場『シンスケ』の店内に、今日も軽快な瓶ビールの抜栓音が響き渡ります。
東京は湯島に店を構えて約100年。老若男女、酒を、店を愛する酔客たちで連日賑わう名酒場『シンスケ』には、老舗でありながら古色蒼然とした雰囲気は微塵もなく、むしろ受ける印象はモダンでスタイリッシュ。
凛とした空気と、居心地の良さが同居する空間を采配するのは、作務衣に酒蔵「両関」の前掛けでビシッと決めた4代目・矢部直治さんです。「個人的にも大ファンで、当代シンスケの象徴」と語る「ハートランドビール」と、絶品の料理をいただきつつ、過去・現在・未来を見据えながら、歴史ある酒場を切り盛りする当事者として歩んできたこれまでと、酒にまつわるカルチャーのこれからについての想いを語ってもらいました。
名酒場シンスケが意識する“当事者”という感覚
来年(2024年)、創業100年という節目の時を迎える『シンスケ』。そのルーツにあるのは、1805年創業の升酒屋※です。酒場へと転じたきっかけは、1923年に起こった関東大震災だったといいます。
「震災で升酒屋を営む本家が壊滅してしまい、神田の酒問屋『一木商店』にて大番頭を務めていた次男の曽祖父が急きょ呼び戻されることに。酒問屋の若主人・鈴木新助氏にお許し願ったところ、事情を汲んで快く送り出してくれたうえ、お金や酒の仕入れの面でも親身になってくださったそうです。そのご恩を子々孫々忘れないようにと、新たな店名を『シンスケ』としました。カタカナ表記なのは言霊という概念から。漢字表記の真名だと呪いがかかるという言い伝えがあるため、純粋な音をあらわすカタカナにすることで恩人への敬意を表しています。
飲食店を営む方はみな同じだと思いますが、他称されるときは店名か役柄なのがふつう。僕の場合“シンスケの若旦那”とか“シンちゃん”という具合です。
ただ、これは非常にありがたいことでして、そう呼ばれるたびに『新助さんをはじめ、支えてくださる取引先やお客さまたちのおかげで今が在る』とつねに自覚できるわけです。おかげで自己実現に酔わず謙虚でいられる気がします」(矢部さん)。
シンスケの店内に身を置くと、その歴史に起因する、ある種のオーラが感じられます。しかし、積み重ねられた時間の重みこそあれ、古びた印象は皆無。ここに息づいているのは、歴史を踏まえた上での“今・ここ”の精神です。矢部さんは、そうした現在進行形な在り方を、“当事者”という言葉で説明します。
「お店でもモノでもスポーツでも、フレッシュなルーキーと歴戦のベテランを比べたとき、どちらがスムーズでこなれているかといったら、ふつうはベテランですよね。それは、時間の経過という研磨・研鑽を積み重ねることで余分な要素を削ぎ落し、ソリッドなフォルムにまで結晶化させているからだと思うんです。
シンスケは自分がはじめた商いではありません。僕は第四走者としてバトンを受け取ったに過ぎない。起点としての過去があり、バトンをもって走っている現在があり、そして未来にはバトンを渡す到達点がある。だから、己が当事者であることをつねに意識しています。
この“当事者という自覚”はきっと生きるうえでも大事なこと。現在を嘆いて未来に絶望したり、過去を懐かしんで愚痴をこぼしたりする風潮は、どこか他人事、被害者のような意識から発生しているように思います。もしシンスケが古びていないと感じていただけるのだとしたら、過去のノスタルジーに逃げず、望む未来のために現在を試行錯誤しているからかもしれませんね」(矢部さん)。
酒場は「寄り添う」商売
当事者たれ——。しかし、言うは易し行うは難し。老舗といえば「変わらない」ことも求められるだろうし、一方で、時代が要請してくる変化というのもあるはず。『シンスケ』は、その相反するベクトルの中で、どのようにバランスを取ってきたのでしょうか。
「昭和から平成を経て、令和の現在に至る中で、お酒との付き合い方は確実に変わってきた。たとえば一昔前の飲み方を考えると、なんというか力尽きるまで飲むみたいな必酔感があるように感じます。演歌の歌詞ではないけれど、肴はあぶったイカでいい的な世界であり、食事と飲酒は完全に分かれていた。ウチも60年代半ばまでは、酒肴は刺身、豆腐、塩辛など5種類くらい。ただし日本酒は4斗樽(72L)が4本も置かれ、1週間で空になるほどだったと聞いています」(矢部さん)。
「これが80年代に入り外食がポピュラーになるに従って、業界全体に酒と共に料理を楽しむという視点が生まれます。結果として、メニューには多種多様な料理が並び、飲酒行為のエンタメ化が進んで定着した。いわば“日本人の食生活”にパラダイムシフトが起きたわけです。そうした流れを受けて、酒は酔うためでなく嗜むものに変わり、量より質が重要視されるようになりました。
酒場は、庶民の生活に寄り添う商いです。世の中の流行を完全否定するのも肯定しすぎても違和感が出て、空間として長続きしなくなってしまいます。
まっさらにして構造から作り変えるリニューアルやリビルドではなく、残すところと変えるところを時代に寄り添わせていくようなフィッティングの範疇になるといえばいいのかな。当事者感覚を持ったうえで、時代と等距離で寄り添うくらいが適当だと思います」(矢部さん)。
シンスケをシンスケたらしめる“縁”と“自由”の解釈
ここで重要になってくるのが、「本質的なところは変えない」という前提条件。では、『シンスケ』にとっての本質とは何なのか?それで思い出されるのが、『シンスケ』の飲み物メニューの渋い構成です。
80年代以降のカクテルブームや焼酎ブームなどを経て、現在、酒場のドリンクメニューは非常に多種多様になっています。日本酒、焼酎、洋酒などのさまざまな銘柄がラインナップされ、飲み方も幾通りもの選択肢が。対して『シンスケ』では、瓶ビール数種に、日本酒は一銘柄「両関」のみというストイックさを貫いています。
「これまでのご縁を大事にしながらやってきた結果、というだけなんですけどね。秋田県湯沢市にある酒蔵・両関酒造さんとは枡酒屋だった大正時代から懇意にさせていただいていて、戦後の酒が入手しづらい時期にも戦前と変わらず唯一うちに卸し続けてくださったという恩義があります。
とはいえ、たしかに銘柄が選べないことに不自由を感じるのは無理もないこととは思います。
それで思い出したのが、作家の池澤夏樹さんが『セーヌの川辺』という本の中でフランス革命に言及して書かれた“自由とは規制の中で際立つ”という言葉。僕は、ならば一銘柄という規制のなかで際立つ自由って何だろう?と考えはじめたんです」(矢部さん)。
シンスケの日本酒は「両関」のみ。ただし種類は、本醸造、純米酒、大吟醸、冷用酒、樽酒から選べ、また、その“飲み方”は、熱燗・普通燗・ぬる燗・冷や(常温)・ちょい冷や・氷冷(桶の氷で冷やす)と多彩。日本酒の、温度差によって見せるさまざまな表情を味わい尽くせるのも、両関一本槍だからこそ。
「他のお店が銘柄の選択肢で勝負するなら、うちは種類と温度の選択肢で自由を演出する感じでしょうか。両関というお酒のポテンシャルを、最大限に味わってほしい、という思いもあります。
それと、シンスケの両関は全種類が特注品で一般販売されていません。また、酒肴の味付けに使う酒にも、料理用として一般的に用いられる料理酒(醸造調味料)ではなく、本醸造酒を使っています。親交の深い懐石料理の親方からは『もったいない』と呆れられましたが、酒場ならではの矜持として、酒と酒肴をマリアージュさせる要として変えるつもりはありません。ともあれ『涓滴岩を穿つ』というやつで、両関ひとすじも100年貫けばむしろストロングポイントに逆転したんじゃないかな。ここ数年、酒の銘柄についてのクレームは一件もありませんね」(矢部さん)。
シンスケとハートランド
シンスケのこだわりは、もちろん提供する瓶ビールにも及びます。
「80年代の生ビールブーム以降、瓶ビールを古くさいものとするような空気があって、90年代はお客さまに『生ビールがないなんてトレンディじゃないね』なんて言われてしまったことも。まあ、当店での瓶ビールの立ち位置は『日本酒を飲む前に喉を湿らすもの』なので聞き流していたのですが、『しかたないから、瓶ビールでいいや』みたいな物言いをされることには内心傷ついていました。『でいいや』って何だよ!と。そのときに僕の中に芽生えたのが、『瓶ビールのおいしさを再発見してもらいたい』という使命感です。
大学を卒業後、最終的には継ぐからとバイトで『シンスケ』に入りつつ世界を放浪し、帰国後は別種の仕事に就いていましたが、ちょうど30歳になったとき父が入院。ついに年貢を納めることになりました。その際、何か希望はあるか?と聞かれたので考え、『日本酒は両関さんで確定しているけど、ビールは自分が大好きな銘柄に変えたい』と宣言しました」(矢部さん)。
矢部さんの言う“自分の一番好きなビール”こそ、1986年の発売の『ハートランドビール』。今でこそ多くのファンに支持されている商品だが、当時はまだ歴史の浅いビールゆえに、「老舗が、なぜわざわざこんな新しいビールを?」と訝しがる向きもあったとのこと。
「主軸となるビールのブランド変更ですから、先代はかなり難色を示しました。けれど、自分が好きなものを売れない商いなんてやる意味がないと押し切りました。そういう意味で、ハートランドビールは僕にとって代替わりでイニシアチブを勝ち取ったシンボルでもあるんです。とはいえ、どんな物事でも急激な変化はトラブルの元になりかねません。なので当初は、個人のお客さまが訪れる1階カウンター席ではラガーのまま、グループ利用の多い2階テーブル席でのみハートランドをお出ししていました」(矢部さん)。
「外飲み」ならではの価値としての瓶ビール
それから数年後、ついに偏愛ビールを全面展開させる日がやってきます。きっかけは、2003年の酒類販売免許の自由化。コンビニでの酒類販売がスタートしました。その結果、瓶ビールを扱っていた酒屋が激減し、宅飲みが缶ビールに完全移行することになります。
「そんな時代の到来に、宅飲みと外飲みを分けて考える=外飲みならでは価値として、『シンスケ』では、ビールをボトル販売だけのブランドに統一することを表明しました。それが酒飲みへの仁義だと考えるに至ったからです。
具体的には、それまで扱っていたキリンラガービールをハートランドビールに、エビスビールをサッポロラガービール(赤星)に変更しました。ネームバリューの高いブランドから知る人ぞ知るブランドへの更新ですから、当時のお客さまからは『なんで!?』と疑念を抱かれましたが、外飲みならではの価値として缶売りのない瓶ビールというコンセプトをご説明すると、全員が好意的にご理解してくださいましたね」(矢部さん)。
ここで、冒頭の「シュポーン!」という景気のいい音を思い出してみてください。これは、前述の通り瓶ビールの抜栓音ですが、自分でやってみたことのある方はお分かりいただけるように、普通はまずこんな音は出せません。そう、この爽快な音の背景にも、矢部さんの瓶ビールへの並々ならぬ想いがあったのです。
※実際の音はこちら。
「生ビールジョッキの魅力的なビジュアルに対抗しうる要素を考えた結果、視覚で対抗するのではなく、別の感覚からアプローチすることを思いつきました。瓶ビールは栓を抜かなければ呑むことができません。そこで抜栓音=聴覚を刺激してみようと。
トライしはじめた頃は、濁った音しか出せないし、力任せにやっていたこともあって、王冠のギザギザ部分で指を切るのはしょっちゅう、そのほか瓶の首ごと割り折って手のひらを13針縫うなど散々でした。
先代や常連さんは『まるで大道芸だな』と冷ややかで否定的でしたし、試行錯誤し始めて5年が経過した頃、『僕も四捨五入したら不惑の40歳。こんなアホなことをしていたらダメなのではないか?』と正直心が折れかけていました。
そんなとき、食べ物に関する素晴らしいエッセイで知られる作家の平松洋子さんに『その音は、仕事が終わってさあ呑むぞというファンファーレになりうる。ぜひ完成させてほしい』と応援いただいたんです。本当に励まされました。
そこからは栓抜きの形や瓶に当てる角度、はては呼吸法まで研究して今に至ります。ただ、知らず身体に無理をさせすぎたようで2年前に肩のインナーマッスルを3本断裂(けん盤損傷)してしまいました。ドクターに怪我の理由を聞かれて『じつはビールの栓抜きで…』と正直に伝えたら、前代未聞過ぎてめちゃくちゃ困惑されました。治癒後、実技をチェックしにわざわざご来店くださり、身体に負担をかけない新型(現)抜栓術の開発に際してもアドバイスいただいています。
そのほかの試みとしては、ビールの飲み口=唇という触覚へのアプローチを狙って、瓶ビールをおいしく吞む専用のコップの開発にも取り組み始めました。こちらは10年以上の月日をかけ、木村硝子店さんのご尽力もいただいて2015年に完成。手吹きガラス製で手洗いが必須である都合上、1階カウンター席でのみ提供しております。
いまでも『生ビールはないの?』と言われることはあります。でも誰かがビールを注文するたび店内に響き渡るシュポーン!という抜栓音と、瓶ビール専用コップの唇への心地よさで『瓶ビールもいいね』となり、ついにリピーターから『やっぱり瓶ビールはいいね』と認知いただけるようになってきました。多少なりとも世の中に、瓶ビールの魅力を再発見してもらえたかもと手応えを感じてきたところです」(矢部さん)。
シンスケの考える「ロングライフ」
家業のルーツを見つめながら、同時に当事者として、時代と等距離で寄り添う。そのときの絶対条件は、変化はフィッティングの範疇に留め、本質的なところは変えないこと。ゆえに、古びない。クラシックになる。矢部さんの語る、店と自身の「これまで」の試行錯誤の数々の先には、常に「ロングライフ」という視点があるように感じられます。老舗酒場の主人として、「これからの100年」に今、どんなビジョンを抱いているのでしょうか。
「今の世の中を改めて考えてみると、昭和の時代の『物質的な豊かさこそが幸せに直結する』という仮説を基に社会システムが作られているわけですよね。ところが平成のあいだに『そうとも限らないし、むしろ豊かさを失う恐怖から独占や差別が生まれる』ということがわかってきた。でも、今さらシステム自体の構造改革は難しい。それが令和時代の閉塞感やノーフューチャー感につながっているような気がします。
100年後とは、現在と地続きの未来です。だから、いま生きている人はすべて当事者だし、自分の判断がそのまま100年後の世界に直結していることを意識してほしい。僕は酒場の主なので「酒場という空間と酒の面白がり方」を提案することを試みています。自分なりの過去と未来をつなぐアプローチが100年後を豊かにするのだと信じて。
ロングライフとは、『個人の思い入れ』が時間に磨かれて『他者と共感できる価値観』にまで昇華されることなのかもしれません。
ご質問を受けて、いま改めてハートランドビールの在り方を考えてみると、“素”という、明確かつ簡潔なコンセプトのソリッドさにシビレます。
ふつうのブランドが数十年かけて削り落とす装飾のような部位は最初からなく、ただし、個人の贔屓が入る余地だけはちゃんと残してある。それとやはりこのボトルがいいんですよ。沈没船から引き上げられたみたいでロマンチックですらある。持ち上げるわけじゃないけれど、『シンスケ』が100年かけて見出した“気付き”が、ハートランドには最初から宿っていた気がします」(矢部さん)。
世の中の面白がり方をシェアする。『シンスケ』4代目の考える「これからのオトナの役割」
そして今、矢部さんの想いは「酒」「酒場」というカルチャーの未来へと向かっています。それはつまり、次世代への橋渡し的な存在として、酒場の主人たる自身はどう振る舞うべきか、という自己問答――。
「50歳を過ぎた今、あらためて『オトナとは何か』ということを考えるようになりました。古代ギリシア・ローマ時代のことわざに『知恵のない老人はただ長生きしただけの人間にすぎない』というものがあります。現代人にも刺さる含蓄あるフレーズですが、そのまんま受け取るのではなく、老人=オトナ、知恵=視点と翻訳してみると別の意味が浮かんでくるように思います。すなわち世の中を面白がる視点をたくさん持つ者こそがオトナであると。
このところ『若者の〇〇離れ』という言い方をよく耳にしますけど、僕はあの言葉に違和感を抱いているんです。オトナが『〇〇の面白がり方』をきちんと伝えていないだけなんじゃないか、って。
若者の酒離れとのたまう50歳以上が若い頃は、まだ社会は寛容で多少の失敗も許してくれていた。けれど、いま若者とされる40歳以下は自己責任でワンミスが命取りという厳しい社会に放り出されているわけです。むしろ、『飲まなきゃやってられない』気持ちが強いのは若者のほうだと思う。
だからこそ、いまオトナが未来を担う若者たちに見せる背中は、それぞれの立場から世の中の面白がり方をシェアしていくものであってほしいんです。酒や酒場の面白がり方という角度は僕がこれからも当事者として覚悟をもって提案を続けていきます。なので、キリンさんはビールメーカーの当事者として同じことをしていただきたいし、この記事を読まれた方はご自身の職業の当事者としてこのシェアリングをぜひ試していただきたい。オトナを試みた後で呑むハートランドビールは、ほんとうに格別ですから」(矢部さん)。
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