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願いととのうエビフライ【うしろむき夕食店*一の皿】

ポプラ社さん、新人作家冬森灯さんとコラボした『うしろむき夕食店』プロジェクト。いよいよ本日より小説の連載がスタートします。

一気に読み切れない方のため、区切りのいいところで「栞」として🍺を入れることにしました。今自分が「何杯目のビール」まで進んでいるかをご確認いただきながらまた小説の世界に戻ってきてもらえればと思います。

それでは、第一話『願いととのうエビフライ』です。

・『うしろむき夕食店』プロジェクトについてはコチラ
・冬森灯さんについてはコチラ

1🍺

 都心から私鉄で約二十分。急行は停まらないので要注意。
 並木台駅北口から、丘に向かって延びるいちょう並木に沿って、徒歩十分弱。
 突き当たりのT字路の、ひとつ手前を左。目印は珍しい自動販売機。

「珍しい自販機?」

 思わず、隣を歩く菫(すみれ)の手もとをのぞき込む。
 握っているのはスマホではなく、葉書大の紙だ。しかも達筆すぎる字はうねうねとのたうつ線にしか見えない。たよりない街灯が照らす夜道なのに、こともなげに道順を読み上げる菫に感心した。真昼の太陽の下でも、私にはとても読めそうにない。
 とはいえ、読めない文字はひみつの暗号のようで、目的のお店に期待がふくらむ。
 ひどくのどが渇いていた。日が暮れ、夜風が吹いても、まだ暑さと湿気が体にまとわりつくせいだ。菫は紺色のワンピースの袖をまくりあげ、道順のメモを団扇がわりにした。肩まで伸びた菫の髪がかすかに揺れる。

「彩羽(あやは)、きっとあれだよ」

 日に焼けた腕がすっと伸びた。
 細い路地への曲がり角、トタン屋根の商店の店先に、白くぶこつな長方形が佇んでいる。
 見た目はロッカーみたいだ。透明窓の個室が縦に六つ、二列に並ぶ。側面には、油性ペンで大きく、産直自動販売機、と書いてあった。
 街灯のかぼそいあかりはここには届かず、ロッカーの中は暗くてよく見えない。顔を近づけると、ビニール袋に入った楕円形の茶色っぽいものが見えた。里芋かなにかだろうか。

「野菜の自販機って、はじめて見た」

「これ、彩羽の番組で使えるんじゃない?」

「そうだね。もしその珍しいお店が取材できるなら、いい布石。イメージしやすそう」

 目指すのは、うしろむき夕食店、という変わった名前のお店だ。
 菫が茶道教室の知人から教わったその店は、ウェブにもメディアにも載っていない穴場らしい。ノスタルジックな雰囲気がとても素敵でくつろげるお店、と菫に誘われた。
 それにちょっと変わった、料理のオーダーシステムがあるという。
 街角特報(マチトク)コーナーにはおあつらえ向きの話題だ。

 細い路地に入ると、あたりはいちだんと暗さを増した。
 店舗と住宅のいりまじった路地を、メモをたよりに右、左、右、と進む。なのに、それらしきお店は見当たらなくて、私たちはすっかり道に迷ってしまった。

「地図見てみるよ。位置情報がヒントにならないかな」

「でも菫、目的地を設定しないと、道順はわからないよ。いっそタクシーの配車アプリは? 地元の運転手さんならこみいった道にも詳しそうじゃない?」

「さすが優等生」

 配車アプリを立ちあげてすぐに、菫は肩を落とした。近くを通る空車タクシーは一台もない。駅前に建設中の大型商業施設の工事のため、道を迂回しているらしい。道行くひとに聞こうにも、自転車や原付はたちまち通りすぎてしまう。
 どうやら、自力で見つけるしかなさそうだ。
 途方に暮れてあたりを見回してみると、横をすり抜けた原付のライトが、路地を歩く小さななにかを照らした。
 猫? 犬?
 小型犬くらいの大きさで、一瞬照らし出された体は金色に光って見えた。
 猫にしてはしっぽが短い。柴犬かなにかだろうか。
 街灯をたよりに目をこらすと、その生き物はふさふさしたしっぽを揺らし、すこし先の路地を右へ曲がった。スキップするような軽やかな足取りがあまりに楽しげで、どこへ行くのか気になった。

「ちょっとあっち行ってみない?」

 私は菫の袖を引き、生き物のあとを追った。

 路地を右に曲がると、正面の突き当たりに、光る絵画がぽうっと浮きあがっていた。

「ステンドグラスの扉! あそこかもしれない!」

 菫が声をあげた。メモに書かれたとおりらしい。ステンドグラスの嵌め込まれた観音開きの扉。二階建てのレトロな洋館。ドアの両側に二つずつ背の高い格子窓。その奥には――

「満月みたいな照明が見えて、おいしそうな香りがするはず、って」

 菫の声がうっとり響くのは、漂ってくる、このいいにおいのせいもあるだろう。お肉の焼ける香りだろうか。頭の中が食欲一色に染まっていく。

「お店のひとは着物だって言ってた。あそこに間違いないよ」

 窓の向こうには、二人の着物姿の女性がカウンターや客席の間をなめらかに動いている。菫は目的地が見つかって安心したのか、歩みをゆるめ、ハンカチで首の汗をぬぐった。
 あの犬のような生き物の姿は、もう路地のどこにもなかった。
 一枚の絵のように続く左右のステンドグラスは、晴れた日の野原を思わせた。淡く明るい色彩で描かれた四季折々の草花は可憐で、その陰に小さなバッタや蝶、小鳥がひそむ。絵柄は下の方にまとまり、画面の大部分は、ひろびろとした空だ。乳白がかった水色の濃淡は、霞む空そのものを写しとったよう。
 真鍮の取っ手には、赤い糸で鈴が結びつけてあった。
 手を伸ばそうとしたとき、内側から勢いよく扉が開いた。りん、と澄んだ音が夜道に響く。

「お帰りなさい! お二人さまですか?」

 はじけるような笑顔が、私たちを迎えてくれた。ふわんと鼻をくすぐるおだしの香りに、私はなんだか、なつかしい場所に戻ってきたように感じた。

2🍺🍺

「乾杯!」

 グラスがぶつかる音は、しあわせの音だ。
 グラスを交わし合える相手がいることが、うれしい。
 冷たいグラスに注がれたビールは輝いて見えた。ほどよい冷たさがのどを滑りおりると、体にたまった日々の澱が洗い流されていく。きめ細やかでやさしい泡の口当たり。はじけながらのどを潤す炭酸のさわやかさ。甘さとほろ苦さの余韻も、私を内側から浄化してくれるよう。
 満足のひと息があふれ出た。ミントソーダを手に菫が笑う。グラスに浮かぶミントは涼しげで、葉についた気泡が、白熱灯のあたたかな光をきらきらと反射した。

 案内された窓際の端の席からは、店の中がよく見渡せた。
 ミルクガラスのまるい照明が、漆喰の壁や店の調度品をやわらかく照らす。六つある客席テーブルの座席はゆったりとしたソファ。テーブルも寄木細工の床も、壁際のチェストやカウンターに並ぶ曲木の椅子も、木の家具はどれも、うなぎのタレを思わせるこっくりとした赤茶色に磨きこまれて、つややかだ。長い時間をかけ、傷も含めて、慈しまれてきたとわかる。
 にこやかにきびきびと働く、あの着物のひとたちが、守りとおしてきたのだろう。
 すこし前の、古きよき時代を思い出すようなお店として、うしろむき夕食店といつのまにか呼ばれていた、というのも頷ける。
 私たちを迎えてくれた店員は、二人いるうちの年若い方で、ホールの担当らしい。ゆるく束ねた黒髪を揺らし、大きな目をあちこちに向けて、よく動く。私より少し年上くらいだろうか。白いエプロンの下にのぞく着物はポップで、黒地に赤青黄三色の線と点が描かれている。抽象絵画みたいで、はつらつとした雰囲気の彼女によく似合っていた。
 カウンターに佇む年配の女性が店の主だろう。きりりとまとめた白髪に、割烹着と灰白地の渋い着物がなじみ、紺色の暖簾を背にすると絵画のように映えた。頻繁に行き来しているところを見ると、暖簾の奥は厨房なのだろう。

「素敵ね、女将さんのお着物。塩瀬絣、ううん、白大島かな。半襟の鶸色もきれい」

「あの枝豆みたいな色のこと? 鶸色っていうんだ」

「あっちの子は、たぶん銘仙。あの抽象柄に紫の菊の半襟ってなかなか合わせられない。かなりのお着物通だと思うよ」

 茶道教室に通う菫は着物に興味津々のようだ。私のマチトクでのレポートをきっかけに通いはじめて、三か月ほどになる。茶道の先生の凛とした空気も素敵だったけれど、ここの女将さんも格好よさでは負けていない。立ち居振る舞いに一切の無駄がなく、うつくしい。
 次々にお客さんが訪れ、あっという間に店は満席になった。
 子ども連れの家族や恋人たちが夕食を楽しみ、年配のご夫婦が差しつ差されつし、スーツ姿の女のひとは文庫本を片手にビールを、カウンターの中年男性はグラスワインに目を細め、みな思い思いにお酒や食事を楽しんでいる。
 蝶が花を渡り歩くように、楽しげに働く二人の姿は見ていて気持ちがいい。出されたおしぼりは温かくてほんのり柚子の香りがし、メニューは和紙にたおやかな文字で手書きされていた。
 心のこもったもてなしに、ふっと肩の力が抜けて、呼吸が自然と深くなる。
 ビールやワイン、日本酒にリキュール。お酒もノンアルコールの飲み物やお茶も種類豊富で、なつかしい料理もちょっとしゃれたものも同じようにメニューに並ぶ。
 お通しの洋風きんぴらごぼうは、粒マスタードがきいていて、アンチョビ醤油で仕上げたそうだ。ぴりっとした辛みとうまみがビールにとてもよく合う。これだけでも料理への期待がぐんと高まった。
 でも。狙いは、菫から聞いた、この店特有のちょっと変わった料理のオーダーシステム。
 私はさっと手を挙げ、にこやかにやってきた店員にたずねた。

「お料理のおみくじがあるって聞いたんですが」

 それも、結構、当たると聞いた。
 うやうやしく運ばれてきたのは、白木の三方だった。ふちの赤い懐紙の上に、小山のように小さな紙片が積みあげられている。店員は軽く黙礼すると、テーブルにそっと置いた。
 すかさず、私は名刺を差し出した。

「ラジオ局シュトラジの高梨(たかなし)彩羽と申します。こちらのお料理おみくじ、ぜひ番組でご紹介させていただけないかと思いまして」

 若い店員は、大きな目をさらに見開き、名刺と私を交互に見た。動きが一瞬止まったかと思うと、勢いよく頭を下げ、テーブルに思いきりぶつかった。大きな音が店に響き、おみくじがいくつかこぼれ落ちた。

「ご丁寧にご挨拶いただきまして。わたし、福浦(ふくうら)希乃香(ののか)と申します。夕食店シマの主は、あちらの祖母・支倉(はせくら)志満(しま)ですので、ちょっと聞いてまいります」

 このお店の本当の名前は、夕食店シマ、というらしい。
 おでこを真っ赤にしたまま希乃香さんはカウンターへ駆け寄る。私もあとに続き、志満さんに挨拶をした。志満さんは丁寧に手をぬぐい、希乃香さんから名刺を受け取った。

「平日午前の情報番組『スリーチアーズ』で、沼尾健のアシスタントとして、街角特報、マチトクというコーナーを担当しています」

「お声がけは光栄なんですけれども。うちはこういうのはすべてお断りしていまして」

 志満さんは、濡れ手ぬぐいをおでこにあてる希乃香さんをちらりと見、両手で持った名刺をくるりと反対向きにすると、私に差し戻した。

「ご覧のとおりの小さい店です、手一杯でして。お客さまがたくさんいらしてくださっても、おもてなししきれませんので。ありがたいんですけれども、ごめんなさい」

 きっぱりと言い、丁重に頭を下げる。希乃香さんも同じようにふかぶかと頭を下げた。

「お客さまとしてなら、いつでも大歓迎ですので」

 顔をあげてふんわりと微笑むしぐさが、志満さんと希乃香さんはよく似ていた。

3🍺🍺🍺

 中学生の頃から憧れていた放送関連の仕事に就けたのは、幸運だったとしか言いようがない。夢が叶うんだ、なんてしみじみ実感したのは入局直後くらい。すぐに、上には上がいて、私はまだスタートラインに立っただけだと痛感した。
 先輩たちの言葉の瞬発力や場の空気の作り方には、どうやっても追いつけないと思った。自分の力は磨いても光る実感はなく、もがき続けているうちに一年が過ぎ、二年目もたちまち半分を過ぎた。技術も能力も未熟な二年目では、単発番組やアシスタントはやらせてもらえても、メインを務めるレギュラー番組なんてまだ先のことと思っていた、のに。
 ライバル局のFMスパークルでは、同じ二年目のパーソナリティ・飯倉(いいくら)麻里奈(まりな)が、今期の改編からメインパーソナリティになった。同じ二年目、同じ週二回の情報番組レギュラーでも、片やメイン、片や一コーナーのみのアシスタント。差は大きい。私はもっと努力を重ねなければいけないのだ、理想的なパーソナリティを目指して。
 せめて、私が担当するマチトクでは、ほかのひとがまだ目を向けていない情報を伝えたい。

 おみくじで料理をオーダーするお店なんて、うってつけの話題に違いないのに。
 惜しいし、残念すぎるけれど、無理強いするわけにもいかない。
 心配そうに見つめる菫の手前、平然としたふりをして、席についた。

「残念、ほかを探すよ。今日は純粋にお客さんとして、楽しもうか」

 大丈夫。ちゃんと笑えてるはず。
 テーブルに置かれたおみくじの山から、菫と私はそれぞれ、ひとつを選び出した。吉と出るか凶と出るか。その先が自分の未来に重なるように思えて、指先に力が入る。
 でも、そこに書いてあるのは吉でも凶でもなく、思いもよらない言葉だった。

「『学業あせらず炊き込みごはん』?」

 はずれもいいところだ。もう学生でもないのに学業だなんて。当たると聞いたおみくじの肩透かしに、取材辞退の残念さはすこし薄れた。

「私のは『旅立ち南へお魚ムニエル』だって。やった、今度三崎にマグロ食べにいくんだよ。南に行くといいことあるのかも」

 菫は一人で何度も頷く。

「当たってるね、私のも、彩羽のも」

「えっ、どこが? 私、ぜんぜん学業なんて関係ないのに」

「学びって言い換えたら十分当てはまるし、あせってるでしょ、FMスパークルのひとと比べて。彩羽は昔からあせるとびっくりするようなことするよね。普段は真面目な優等生なのに。顧問挑発事件のときだってそうだったでしょ」

「あれは、挑発したわけじゃなくて、入部できないのかと思ったから」

 私と菫は、高校の放送部で出逢った。
 放送に憧れはじめた中学校時代、校内放送は委員会の仕事だった。私は委員争奪じゃんけんに三年間負け続けて、進路選択では放送部のある高校に絞って探した。
 一週間の部活見学期間中も、ほかには目もくれず放送部だけに通い詰めて、先輩たちに教わりながら機材をいじらせてもらったり、早口言葉の練習にいそしんだりした。
 坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。
 少女シャンソン歌手新春シャンソンショー。
 農商務省特許局、日本銀行国庫局、専売特許許可局、東京特許許可局。
 訪れるたびに難易度があがっていく早口言葉に苦戦し、舌を噛んで腫らしながらも、楽しくて仕方がなかった。
 早口言葉を全部きちんと言えたら入部できる、という先輩の軽口を真に受けて、あせって必死に練習した。入部届提出の前日は徹夜もした。朝一番に職員室に乗り込んで、呆気にとられる顧問を前に、滑舌よく早口言葉を披露した。
 でも実際は、早口言葉なんて言えなくても、届を出せば、入部できたらしかった。職員室でも部室でも、顧問を早口言葉で挑発した新入生として、生意気な印象を持たれてしまったのだ。
 あせると本当に、ろくなことがない。まわりが見えなくなってしまうから。
 以来、なるべく波風を立てないように、ひたすら真面目に、優等生であろうと努めてきた。

「あせらないで、彩羽は彩羽のペースでいいんだよ。今日取材できないってことは、ほかにもっといい話題と出会う、ってことかもしれないじゃない」

 高校のときから、菫のこのおおらかさに何度助けられてきたことだろう。
 視界がじんわり潤む。
 ありがとう、と言おうとすると、菫の口の端が、ひくひくと不規則に跳ね上がった。

「菫?」

「思い出しちゃった、彩羽のあの下手な歌」

 まずい。
 私は菫が話し出すのを遮り、希乃香さんを呼び止めて、おみくじの料理を注文した。
 今日の炊き込みごはんはアボカドとベーコン、ムニエルは太刀魚だと希乃香さんは楽しげに教えてくれる。

「ごはんはご注文いただいてから炊きあげるので、すこしお時間いただきますね。今日の太刀魚、大きくてとっても新鮮ですよ! お魚って大きく育ちすぎない方がおいしいものも多いんですけど、太刀魚は珍しく大きければ大きいほど味がよくなるんです。そういうお魚って、ほかには、アカムツ、キンメダイ、クエ、それから」

「希乃香。お客さまは、あなたのお話よりも、お料理を召しあがりたいと思うけど」

 志満さんの一言に、カウンターの中年男性が声をたてて笑った。志満さんと談笑する彼は常連客の一人らしく、さきほども希乃香さんを呼び止め、お酒を選んでもらっていた。
 菫はすっかり、料理とお酒に気をとられ、さっきの話題をうまく忘れてくれたようだ。
 私たちも、料理に合う飲み物を、希乃香さんに選んでもらった。菫にはハーブのブレンドされたお茶を、私には山椒の香りがするクラフトビールを見立ててくれ、おかわりするならとさらにもう一種ずつ選んでくれた。
 慧眼というべきか、ローズマリー風味のフライドポテトと、ルッコラとくるみとカッテージチーズのサラダに、山椒の香るクラフトビールは素晴らしく合い、ムニエルと炊き込みごはんが来る頃には、おかわりを注文していた。

「お待たせしました、太刀魚のムニエルと、アボカドとベーコンの炊き込みごはんです。太刀魚はレモンとディルのバターソースでどうぞ。炊き込みごはんは、おとりわけしますね」

 太刀魚はあらかじめ二つに切り分けてあり、その気遣いがうれしかった。うすい衣をまとった銀色の肌に、黄色と緑のソースが映える。希乃香さんが、栗みたいにころんとした土鍋の蓋をとると、おだしと肉のうまみが調和したいい香りが広がった。色艶を増したアボカドもベーコンも、はやく食べてくれと言わんばかりに、輝いて見える。
 口に運ぶと、緑の鮮やかなアボカドは、ただただ濃厚なおいしいクリームと化していた。うまみの凝縮したベーコンと、おだしと肉汁をたっぷり吸い込んだお米が、ぴかぴか光っている。菫も私もほぼ無言であっという間に一膳目を食べ終え、おかわりをよそった。
 希乃香さんに見立ててもらったクラフトビールのゆたかな苦みは、アボカドとベーコンのうまみを引き出してくれ、おのずと目尻が下がる。
 ビールを好きと感じるのも苦手と感じるのも、この苦みの影響は大きいのかもしれない。
 ビールの材料はシンプルだ。水と麦芽、酵母、そしてホップ。
 ビールらしさを感じさせてくれる苦みや香りは、ホップから生まれるという。ひとくちにホップといっても、その香りも味わいも個性的で、薔薇のような花の香り、ライチのようなフルーツの香り、品種によって違うのだそうだ。
 その個性的な香りはそれぞれに、違う楽しさを見せてくれる。シンプルな材料で作られるものだからこそ、ひとつひとつの材料の個性は際立ってくるに違いない。
 それは、このお店の料理とも、通じる気がした。

 希乃香さんが、ガラスの小皿を二つ運んできてくれた。みずみずしい、いちじくだった。

「あちらのお客さまのお土産です。もしよろしかったらどうぞ」

 カウンターの中年男性が軽く手をあげて微笑む。甘みが強いのに後味がさっぱりしていた。お礼を言うと、お酒のあとにいいっていうからねと照れくさそうに笑って、扉を指さした。

「気に入ったら、大通りに曲がるところの自動販売機に行くといいよ、おかわりあるから」

 あの野菜の自動販売機のことだ。入っていたのは、いちじくだったらしい。
 会計を済ませて店の外へ出ると、夜風が頬をなでた。それが心地よいのはたぶん、ほどよいお酒とお料理のおかげ。
 背中に、希乃香さんの声が響いた。

「いってらっしゃい。明日もいいお日和になりますように」

4🍺🍺🍺🍺

 エレベーターの扉が閉じると、ふっと、音が消えた。
 五階にある編成局制作部アナウンスチームから、八階スタジオフロアを目指す、わずかな間。局内のいたるところで響くオンエア中の番組が聴こえないだけで、そこはただの高梨彩羽から、パーソナリティ・高梨彩羽にギアを切り替える、特別な空間になる。
 切り替えの儀式は、扉が閉じた瞬間に、思いっきり、口角を引っ張りあげること。もうこれ以上無理、というくらいまで口角をあげて十秒キープ。
 そして呪文。かまない・ダレない・とちらない。
 扉が開いたら、パーソナリティ・高梨彩羽として、勇んで一歩を踏み出す。

 収録スタジオの重い扉を開けると、ミキサー卓の前にはすでに、栗さんが座っていた。機材の並ぶ調整室の向こうは、区切られた小さなアナウンスブース。私にとっての聖域だ。

「おはようございます! 栗さん、今日もよろしくお願いします!」

 栗さん、と慕われている栗谷さんはベテランの放送技術者だ。シュトラジの良心といわれる温厚な人柄で、目立ち始めた白髪を金髪に染めようかとここ半年ほど迷っているチャーミングなおじさま。甘い、と評されることもあるけれど、甘いもの好きだから否定できないなあとはぐらかして、笑ってるような懐の深いひと。そういう栗さんに、これまでたくさんのアナウンサーやパーソナリティが、育ててもらってきた。
 栗さんは、ミキサー卓に一リットル紙パックのメロンジュースを置いて、私が両手で抱えるCDの山を指さした。

「ちょっと待って彩羽ちゃん。今日の収録予定、ぼくが聞いてるよりべらぼうに増えてる?」

「いいえ。いつもの沼尾さんの番組の、マチトクだけですよ?」

「五分のコーナーに、そんなに音源使うの? ぼく預かるのいつも二枚くらいだったよね、それどう見ても十枚以上はあるよね」

 音響機材の上にCDを積みあげ、栗さんに、持参したお弁当箱を手渡した。

「これ、おすそわけです。とってもおいしかったので。三時ですからおやつにどうぞ」

 すぐに蓋をとった栗さんが、お、と声をあげる。

「いちじく?」

「はい。甘ーいですよ」

 栗さんは、これって買収だよねと一瞬身構えたものの、いちじくの魅力には抗えなかったらしい。またたく間にふたつとも平らげた。

「で、この山盛り音源の理由はなに?」

「気合いです」

 三枚の進行表を取り出すと、栗さんは、ぐえ、とうめいた。一日の放送分を三パターンも準備するなどこれまでに例がないという。よくやるねと半ば呆れていたものの、ひとつひとつを確認しメモを書き加えてくれる。こういうところが、栗さんはやさしい。
 生放送は流動的だ。沼尾さんと放送作家の直前打ち合わせで番組の流れが変わることもあるし、その日の天候によってかける音楽を変えることもある。それに合わせてマチトクも、晴れ、曇り、雨と、それぞれ原稿と曲を準備した。
 アナウンスブースに入り、ヘッドホンをつけると、再び音は消えた。
 この瞬間が好きだ。
 無音の向こう側には、無数の言葉や音やきらめきがひそんでいる。一瞬ごとにそれを捕まえて、リスナーに届けたい。背筋と神経をぴんと張り、口角をぐっとあげる。
 ヘッドホンから栗さんの声が聞こえる。
《はい五秒前。四、三、》
 声と指先でとられるカウントは、二、一と指先のみになり、どうぞ、というような手のひらのしぐさで合図(キュー)が出される。誰もが耳にしたことのあるなつかしいオールディーズのメロディにのせ、私はやる気に満ち満ちて、話しはじめた。

 昨日のお昼前、本城ディレクターに声をかけられたとき、てっきりまた叱られるのだろうとげんなりした。
 ひとは空腹になると気がそぞろになったり、気が立ったりするものだ。本城ディレクターのぴりぴりぶりから察すると、かなりお腹が空いていそうだった。チョコの一粒でも差し入れようかと思ったけれど、よけい叱られそうな気もして、やめた。
 陰でカミナリ雲と呼ばれているのは、ご本人も承知らしい。あごひげに包まれた不機嫌顔と、時折落とされるカミナリを恐れて、本城ディレクターが制作部のデスクにいると誰もがどこか落ち着かなくなる。隙があるのはカジュアルすぎる服装と四方八方に暴れる癖毛くらいだという。とくに、放電現象と呼ばれる音――本城ディレクターが指先でノートパソコンの端をとんとん叩く音――はカミナリが近い合図で、それに気づくとみんな取材や打ち合わせを口実にして、箒で掃いたようにいなくなる。
 取材の下調べに熱中していたせいで、どうやら放電現象を聞き逃したらしかった。

「彩羽、お前、暇だよな」

「いいえ。明日沼尾さんのマチトクの収録なので、今日は原稿づくりと来週分の下調べがあります。それから営業部とCM録りの打ち合わせ、週末の榊原さんの生放送用の選曲も」

「暇、だよな」

 言い訳は聞きません、ということなのだろう。本城ディレクターはあごの無精ひげを指先でなでつけながら、私を見る。

「……はい。暇かもしれないです」

 なるべく神妙な面持ちを装って、カミナリ雲のようすをうかがう。たずねているわけではなく、ごり押しがしたいらしい。腹をくくったものの、厄介ごとを押しつけられるのはたまらない。穏便に逃げる方法はないかと思いめぐらした。

「もっと会社に貢献したいと思っているよな」

「あの、マイルドな言い方ですけれど、それってパワハラになりませんか。スレスレかギリギリアウトかわかりませんけれど、お立場的に問題が出てしまうとまずくないですか」

 できるだけ声をひそめて告げると、本城ディレクターは珍しく、フロア中に響きわたるような大声で笑いだした。

「抜擢の話をパワハラって言うの、お前くらいだろうな。彩羽、自分の番組持ちたくないか」

「えっ。それはもう! やります! やりたいです! やらせてください!」

 鼻先に手のひらを突き出されてはじめて、私は本城ディレクターに詰め寄っているのに気づいた。慌てて離れると、本城ディレクターは、頭から食われるかと思ったとぼやきながらも、なんと、新番組企画を立てる、と約束してくれたのだ。

 企画を実現させるのが、本城ディレクターの仕事。
 カミナリを落とそうが常に不機嫌だろうが、制作に携わる誰もが本城ディレクターに一目置いているのは、彼の番組づくりへの真摯な姿と、企画の確度の高さからだ。彼の企画が通らなかったことは一度もない。
 やっとチャンスがめぐってきたのだ。私にできるのは、思いつく限りの努力を重ねること。入念な収録準備はもちろん、滑舌や発声のトレーニング、フリートークの会話力を高めるために、辞書を読み込み語彙力を増やすこと。一人前のパーソナリティになれる機会は、絶対にモノにしたい。
 そう思うと、目の前の仕事にもがぜん、やる気が違ってくる。
 三パターンのマチトクは、それぞれトピックスも変えてみた。
 うしろむき夕食店には取材を断られたものの、せっかくなので並木台近隣の情報を集めた。近く大型商業施設もオープンする注目の場所ながら、時期的に他局はまだ取り上げてない。一つ目は、産直野菜の自動販売機。管理者に連絡してみると、あのいちじくをごちそうしてくれた夕食店の常連さんだった。おかげで快く応じてくれ、八百屋を営むという彼に話を聞くことができた。ほかの二つは、駅を挟んで反対の南口方面に広がる、並木台自然保護園の話題。池の遊歩道の散策や、ミニ動物園、季節ごとに開催される骨董市の紹介もはさみながら、細かくBGMも変えた。
 もちろん、かんだり、とちったりしたら、そのたびに収録をやりなおしてもらった。
 本番で使われるのはたった一つのみ。栗さんがどんなに無駄だ徒労だと助言してくれても、私ができる努力はこのくらい。できる限りのことをしっかりやりぬきたいと拝み倒すと、栗さんはしぶしぶつきあってくれた。
 左手にストップウォッチを握りしめ、口角をあげて、私はマイクに語り続けた。

「おつかれさまでした!」

 アナウンスブースから出ると、栗さんが床にしゃがみこんで、足元の音響機材をあちこちチェックしていた。複数のCDプレイヤーのトレイを入れては出して、その都度ヘッドホンでチェックしている。

「ごめん彩羽ちゃん、エンディング曲のフェイドアウト、ちょっと早めだったよね」

「大丈夫です、無理なく聞こえてましたよ。……機材、調子悪いんですか?」

「完全に音が消える直前に止まった気がしてね。ついにガタがきはじめたのかもな。こいつもがんばってるんだけど」

「愛着湧きますよね、機材とはいえ。いろんなことを乗り越えてきた、大事な仲間ですもんね」

 しゃがみこんで機材に触れると、栗さんはそうなんだよなあ、としみじみ頷いた。
 シュトラジは、もとは首都放送といって、ラジオ放送黎明期の開局から放送をお届けしてきた。そのせいか、昔から聴き続けてくださっている方が多く、一緒に育ってきたと言ってくださる方もいる。一方で若い世代は、おしゃれ文化発信に力を入れるFMスパークルや、マルチリンガル放送とスポーツ中継に力点を置くノックウェイヴなどの後発局に親しみを持つ人が多い。それに負けじと、幅広い世代にいっそう親しまれるよう、開局五十周年を機に社名をカタカナに変えて、番組づくりに取り組んでいる。
 これまで二か月ごとに実施されてきた聴取率調査も、首都圏を中心に、毎分ごとの聴取率が翌営業日すぐにわかるようになった。
 数字がすべてではない、と思う気持ちは根強くあるものの、その数字に従って経済や社会が動いていくことは変わりようがない。
 世の中はどんどん変わり、新しくなっていく。
 その波に乗りながら、さらにその先へ、手を伸ばさなければと強く感じる。
 今、私に、なにができるのか。
 きっといつの世も、そう考え続けたたくさんの先輩たちが、知恵を絞りながらそのときどきを乗り越えてきた。
 彼らとともに、歴代のこの音響機材たちも、時代と戦ってきたのだ。

5🍺🍺🍺🍺🍺

 マチトクを三パターン作ったと話すと、番組メインパーソナリティの沼尾さんは驚いた。そんなに気合い入れすぎなくていいよと言いつつも、天候で選ぶのは面白がってくれたようだ。今日も素材を届けに生放送用のオンエアスタジオを訪れると、アナウンスブースの中から、大きな体を揺すって手を振ってくれた。
 沼尾さんは気さくなトークが人気で、とくに年配の女性たちに息子や孫のようにかわいがられている。リスナーとの交流はメールやSNSが主流になったものの、沼尾さんの『スリーチアーズ』には、葉書やファックスでのリクエストや感想が数多く届く。番組でもなつかしい曲を流すことが多くて、今も、昔の歌謡曲、星影のワルツが流れていた。
 曲が流れる間も、パーソナリティは決して暇ではない。細かい進行や、リスナーからの反応を確認して、次のトークに備える。それが一段落ついたのか、沼尾さんは片手をあげ、スタジオ内だけでやりとりできる小マイクのスイッチをいれた。
《彩羽ちゃん聞いたよ! 新番組受け持つって?》

「ありがとうございます! そうなんです、うれしくって」

《まじで? うれしいの? すげえ肝っ玉だな。俺だったらちぢみあがっちまうよ》

「そういうものですか……?」

 新番組へのプレッシャーという意味だろうか。たずねようか迷っているうちに曲は終わり、沼尾さんはまた手をあげて放送に戻ってしまった。

 制作部に戻る間にすれ違ったほかの先輩たちも、お祝いの言葉だけじゃなく、どういうわけか、あなたも大変ね、とか、へこむなよ、とつけ加えてくれる。新しい番組ができるときというのは、こんなにも心配され、なぐさめられるものなのだろうか。
 席につくと、とととととと、と小さな音が耳に入った。反射的にそちらを見てしまい、放電現象だと気づいたときにはもう、すこぶる不機嫌そうなカミナリ雲と、ばっちり目が合っていた。
 手招きに応じる間、珍しくスーツ姿の本城ディレクターは、苦しいと言いながらネクタイを大きくゆるめ、シャツのボタンを二つ外した。

「彩羽、お前、弁当の中の好物は、先に食う方? 残す方?」

「先ですね」

 本城ディレクターはあごの無精ひげをなでながら、なら先にいい話な、と告げた。

「黒松圭って知ってるか」

「ものすごく好きです!」

 今や若手を代表する人気俳優の彼は戦隊ヒーローものでデビューし、子どもだけでなく母親もテレビの前に張りつかせた。雑誌特集をきっかけに飾らない人柄が受け、朝ドラ出演で演技力が評価され、幼児からおばあちゃままでお茶の間のみんなに愛されている。

「お前の番組な、最初のゲストが、黒松圭に決まった」

 有頂天とはこんな気持ちのことだろうか。いつかそんな機会が訪れたらと夢見ていた。そう舞い上がる私に、本城ディレクターはため息をあびせた。

「あれ、いい方が先ということは、悪い話もあるってことですか?」

 無言で、封筒が突き出される。
 おそるおそる封筒を開けると、本城ディレクターの企画書のほかに、一枚の紙が出てきた。

「新スポンサード番組、企画コンペのお知らせ……?」

 発行元は首都圏を中心に大型商業施設を手掛けるディベロッパー・梧桐不動産開発。あらたにスポンサードするラジオ番組の募集概要と、並木台にオープンする商業施設の概要、オリエンテーション日時が記されていた。

「あのう……もしかして、コンペにかけるのは」

「お前の番組。勝ち取れ」

 本城ディレクターが、私をびしっと指さした。
 先輩たちの同情と励ましは、つまりこれが理由だったらしい。

 オリエンテーションで番組に提示された条件は三つ。
 梧桐不動産開発が近日オープンさせる新商業施設の案内を含むこと。
 新商業施設のイメージキャラクター・黒松圭の新作映画宣伝を含むこと。
 黒松圭と共演俳優をゲストに迎え、映画主題歌を必ずかけること。

 コンペに参加する放送局は、三十分のトーク番組を想定し、実際に黒松圭と共演俳優を招いてパイロット番組を作る。タレント費用は梧桐不動産開発が受け持つという。コンペには担当者だけではなく広く社員の参加を募り、とくに新規にオープンする商業施設では、従業員全員が投票権を持つ。ウェブで公開された番組に、それぞれ一票を投じるのだそうだ。
 それはつまり、長く放送に携わっていることも、営業努力も、根回しも、まったく通用しないということだ。それどころか、下手をすれば、若い層に知名度や親近感を持たれている他局の方が有利な戦いになるかもしれない。案の定、コンペには、シュトラジのほかにFMスパークルとノックウェイヴも参加を表明した。FMスパークルのパーソナリティ候補には、飯倉麻里奈の名が記されていた。
 あの飯倉麻里奈と、勝負することになる。
 これは不安だろうか、恐れだろうか、あるいは、対抗心か。
 大きな炎を孕んだ氷の塊が、体の内側で、互いにせめぎあっているようだ。

 飯倉麻里奈の担当するレギュラー番組は、局アナが順繰りに担当するお昼の情報番組だった。高めでツヤのある声質も、トークで飛び出す話題も、FMスパークルらしく、トレンドを的確につかまえていた。番組公式SNSのほか個人アカウントでも積極的に発信していて、スタジオで自撮りした写真はファッション誌から抜け出してきたようだった。おしゃれさはもちろん、流行の話題は他局の追随を許さないだろう。飯倉麻里奈はここに勝負をかけてくると思われた。
 ノックウェイヴの方は、フリーで活躍しているトリリンガル男性DJ、ロイをメインに据えた。ロイは複数の放送局で番組を受け持つ人気DJだ。世界の音楽事情に詳しく、雑誌で音楽コラムの連載も持つ彼はおそらく、その強みをいかした番組を構成するだろう。

「だから、逆に、王道中の王道の企画は、出してこないんじゃないかと思うんです」

 私は、本城ディレクターと栗さんの顔を交互に見ながら、番組企画案を並べた。スタジオフロアの片隅に設けられた打ち合わせスペースのテーブルは広く、紙が小さく見えた。
 栗さんは持参したクッキー缶からパイ菓子をつまみ、企画案に目を通す。本城ディレクターは、書類をテーブルに置き、ずっと腕組みをしたまま、眉間に深い皺を刻んでいる。

「……違うんだよなあ」

 重い口がようやく開いたのは、栗さんが四枚目のクッキーに手を伸ばしたときだった。びくっと手を引っ込めた栗さんが、なにが、とたずねると、本城ディレクターはあごひげを指先でなぞり、低くうなる。

「彩羽さ、これで勝てると思うの?」

「勝つために、立てた企画ですよ。きっちりしっかり伝えるべき情報を伝える番組です」

 ゲスト紹介から、新商業施設とイメージキャラクター話題へつなげる。施設内のシネコン話題から、新作映画の公開日とあらすじ、ゲストのエピソード披露。最後に映画主題歌でエンディング。
 必要情報を十分に盛り込んだ手抜かりのない企画のはずだ。

「これ、自分で面白がってしゃべれんの?」

 本城ディレクターは企画案を伏せると、その上に頬杖をつく。

「ラジオってさ、ナマモノっぽいところが、面白いと思うんだよな」

 栗さんがチョコチップクッキーをほおばりながら同意する。

「ああ、それあるね。本城ちゃんはつまり、一方通行じゃない感じを目指したいんでしょ」

「それ、リスナーの反応を取り入れるってことですか? 無理ですよ、収録番組ですし。それっぽく仕込んでもバレたらリスナーの気持ちが冷めませんか。コンペとしては不利だと思います。そういうのってなぜか伝わる気がしますし」

「そういうことじゃなく。生真面目すぎるのが問題じゃないかって言ってんの。無難にまとまってるだろ。これ、あえてお前がやる意味ってどこにあるんだよ」

「それは……」

 答えに詰まる私に考えなおせと言い置いて、本城ディレクターはさっさと出て行ってしまった。

「彩羽ちゃんさ、いままでずっと、いい子だったんだろうね」

 栗さんが、いつも以上にやさしい声で、クッキーをすすめてくれる。

「マルがもらえるように、懸命に準備したり、勉強したり。実際、すごく真面目でいい子だとぼくも思ってる。だけど、仕事って、そういう思いから離れた方がうまくいくこともある。最短距離で答えを見つけようとしないことも、大切だよ。正解は無数にあるんだよ」

 最短距離どころか、何度やりなおしてみても本城ディレクターからのOKは出なかった。テナント店舗クルージングを主体にインタビューで進めていく案。すべてについて黒松圭にコメントさせるクローズアップ案。事前の社内アンケートをもとにしたランキングスタイル案。その都度、カミナリが落ちて、突き返される。
 時間ばかりが無情に過ぎ、収録を翌週に控えた週末、制作発表の場がやってきた。

6🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 会議室、と言われてこんなに広い空間を想像するひとが、いったいどれだけいるのだろう。
 都心にそびえる梧桐不動産開発本社の大会議室はあまりに広く、小中学校の体育館を思い出した。入口の受付は三つにわかれ、関係者、本社社員、そして長蛇の列を作る新商業施設テナントの店長たちが、順番を待ちつつ、ずらりと並んだ椅子の海の向こうを眺めていた。前方ステージの大きなスクリーンでは、さわやかなイメージ動画が繰り返し流れている。
 受付開始とほぼ同時に会場入りした私と本城ディレクターは、最前列の真ん中に用意された関係者席に腰を落ち着けてからも、小声で相談を繰り返していた。すぐにネクタイをゆるめる本城ディレクターも、さすがにこの場ばかりは、ぴしっとした姿のままで足を組んでいる。

「いいか彩羽、お前の今日の一番大事な役割は、収録順の最後(ケツ)を勝ち取ることだぞ」

 これから始まる制作発表では、イメージキャラクターが黒松圭になると明かされ、彼が登場する新番組をみんなで選ぶ、コンペの詳細が発表される。私たち関係者も簡単な挨拶をして、収録順のくじを引く、と段取りを聞かされていた。

「わかってます。これでもくじ運はいい方ですから」

 くじ、という言葉に、あの夕食店のおみくじが思い浮かんだ。
 学業あせらず。
 あせるなと言われて、あせらずに済むのなら、どんなに楽だろう。
 番組企画はまだOKが出ていない。黒松圭のコメント中心の番組案と骨子は決めたものの、飯倉麻里奈やロイが打ち出す「強み」にあたるもので、本城ディレクターと意見が合わないのだ。私はきっちりした番組づくりを提案する。本城ディレクターはもっと肩の力を抜けという。同じゴールを見ているはずなのに、そこまでのルートはまるで違って、衝突ばかりを繰り返していた。
 後方で小さなざわめきが起きた。
 振り向くと、飯倉麻里奈が、栗色のロングヘアをなびかせるようにして、こちらへ向かってくる。シフォンのワンピースに、ファーのボレロとエンジニアブーツを合わせた姿は、相変わらずファッション誌から抜け出たようだ。シンプルなカーキのシャツワンピースを選んだ私は、華やかさに気後れした。
 一瞬目が合ったかと思うと、飯倉麻里奈は小走りにやってきて、右手を差し出した。華奢な手首に重ねづけされたブレスレットが、しゃらしゃらと音を立てて私を威嚇する。

「はじめまして、FMスパークルの飯倉麻里奈です。シュトラジの高梨彩羽さんですね? ご一緒できてうれしいです」

 笑顔のなんとまぶしいこと。私はうまく笑顔を返せているかわからなかった。

 会場が暗くなり、スクリーンに新商業施設のオープニングCMが流れ始めた。
 弾むようなアコースティック・ギターの調べにのせて、緑色のいちょう並木の木漏れ日や、光を反射する水面が映る。ハミングが重なるとカメラが引いて、映し出された風景は、並木台自然保護園だった。画面に現れた黒松圭が池の遊歩道からミニ動物園を抜け、駅を通りすぎる。施設名とオープン日時が表示され、黒松圭は新商業施設の入り口に歩いていく。
 向こう側から気持ちのよい風が吹いてきそうなCMだった。
 照明がつくと、ステージには黒松圭が立っていて、会場には歓声と拍手が響いた。

 司会の男性は社員らしく細身のスーツがよく似合い、進行は手慣れたものだった。
 新番組関係者がステージにあがる頃には、客席との間に掛け合いが生まれるほど場はあたたまり、私たちは拍手に迎えられて中央に並んだ。ドレスシャツにヴィンテージデニム姿のDJロイも、モデルのような出で立ちの飯倉麻里奈も、それぞれの個性を前面に打ち出していた。二人とも背筋をぴんと張り、すこしも視線をぶらさずに、客席を見つめている。自分が選ばれるという確信を、隠そうともしない。
 自信に満ちあふれた彼らと並ぶと、自分が一回りも二回りも小さくなったように思えて、それを表に出さないように、精一杯の笑顔で取り繕った。呼吸が浅くなる。震える足にぎゅっと力をこめて、舞台を踏みしめた。

「では番組パーソナリティのみなさんから、新番組をひとことで言うとどんな感じか、ご紹介いただきましょう! ……と」

 マイクをロイに渡しかけた司会が、いいこと思いつきました、と興奮気味に話し出した。

「くじ引きよりも、これもコンペではどうです? 客席のみなさんが参加した方が、面白そうですよね? 拍手が多い順に、好きな収録日を選べるようにしませんか」

 会場は大きく盛り上がった。
 よけいなことを思いついてくれたものだ。重ねた手にべたつく汗がにじみ出てきた。正面に座っている本城ディレクターが、口の動きだけで、勝、ち、取、れ、と威圧してくる。
 マイクを持ったDJロイは、大げさな身振り手振りを交えて、客席に語り掛ける。

「エシカルな番組を目指したいですよね。地域の今も世界の今もフラットな感覚で捉えながら、そこに音楽をリンクさせて、ヴィヴィッドに発信するつもりなんで、応援よろしくお願いします!」

 頼もしい、という司会のコメントと客席の力強い拍手が彼を讃える。続く飯倉麻里奈が進み出ると、拍手は消え、会場中が彼女の言葉に耳を澄ましているようだった。

「きらきらした番組です」

 ゆるふわコンセプトですね、との司会の薄ら笑いにすこしも怯むことなく、はい、と笑顔で彼女は続けた。

「ときめくものや、わくわくすること、気持ちを大切に番組に取り込んでいきたいです。さっきのCMの映像でいったら、木の梢や池の水面にきらきらする光、ああいう感じをお届けしていきたいです。たとえば、ここで一番きらきらに近いのは、」

 そういって小首を傾げて、司会者の隣に立つ黒松圭をのぞき込む。

「黒松さんの笑顔かなって思うんですけど」

 黒松圭は、照れながらもとびきりの笑顔を見せ、客席が沸いた。
 耳鳴りするほどに響く拍手に包まれ、マイクは私の手に渡ってきた。
 口がからからに渇く。照りつける照明がまぶしすぎて、頭の中も真っ白になっていく。
 ――しゃべるのが仕事のはずでしょう、しっかりしろ私。
 考えてきた言葉がどこかへ消えていく中、必死に自分を鼓舞して、マイクを構えた。

「……っちり」

 絞りだした声が、裏返った。きっと口が渇いていたせいだ。
 会場に起こった笑い声が耳に入ると、全身の血液が一気に逆流した。
 笑われている。
 頭も舌もまわらず、ひとつも気の利いた言葉なんて思い浮かばなかった。

「きっちり、しっかり。伝えるべきことを、伝えていく番組にしたいです」

 拍手してくれたひとはいた。社交辞令的な拍手が、まばらに。
 本城ディレクターと目が合った。腕組みした指先で肘を小刻みに叩く彼の背後に、黒く嵐を孕んだ雲が浮かんでいるようだ。眉間の皺まではっきり見えた。これまで見たことがないほど数多く、深かった。

 こんなにいたたまれない、苦い気持ちは、久しぶりだ。
 体が重苦しく、足を一歩前に踏み出すことすら、ひどく疲れた。
 勝負はこれからなのに、始まる前からもう、私の敗北は決まったも同然に思える。
 来週の収録日は舞台挨拶の人気順にうしろから決まり、私は月曜午後の収録トップバッターになった。もう準備にかける時間もない。でも、与えられたチャンスを台無しにしたのは、私だ。今の企画でいくしかない。なにを話してもうつろな答えしか返せない私に、本城ディレクターは、もう帰って飯食って寝ろ、と背中を向けた。見限られたんだと思っても、涙すら出なかった。ただひどく重い体をひきずって、電車に乗り扉付近に体を持たせかけた。
 停車駅で扉が開くと、ホームの立ち食いそば店から、おだしの香りがした。強いおだしの香りはおいしそうで心惹かれる。だけどすこし違う。体が求めているのは、この香りじゃない。
 ――あのお店。
 閉まる直前に電車を降り、私は、並木台を目指した。

7🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

「お帰りなさい!」

 扉を開けると、希乃香さんの明るい声と笑顔が迎えてくれた。そしてこの、包み込むようにやわらかくまろやかな、おだしの香り。
 お店は今日も賑わっていた。和やかに食卓を囲むひとたちの中、ひとりテーブル席を占拠するのも気が引けて、カウンターに通してもらう。
 希乃香さんの着物は今日もポップで、エプロンの後ろ姿にのぞく、グレー地にピンクの大胆な菊柄も、合わせたターコイズの帯も、どちらも強い個性なのにしっくりなじんでいた。志満さんのブルーグレーのお着物も、よく見れば細やかな柄が織りだされている。見過ごしてしまいそうなところに、きちんと手をかけてある様子が、とてもシックに思えた。
 あれから何度か通ったけれど、いつも二人の着こなしにはほれぼれする。それに。

「この香りが、落ち着くんですよねえ……」

 温かいおしぼりの柚子の香りを、目を閉じてしばらく吸い込んでいると、鼻先でおだしの香りが濃くなった。ことり、と小さな音に目を開けば、志満さんが小さなお猪口を置いてくれていた。

「ひとくち、飲んでみて」

 お猪口には、淡い金色のおだしが入っていた。

「うんと疲れたときの、アタシのお作法なんですけどね」

 疲れたときでも、ひとくちおだしを飲んでおくと、その後のお料理もお酒も、おいしくいただけるのだという。

「ようやく慣れましたけど、希乃香が転がり込んできたときなんて、毎日飲んでいましたよ。鰹節を削らせれば手を怪我するし、買い物を頼めば財布を落とすし。そりゃもう気苦労の連続で」

「志満さん、またわたしの話してるでしょう」

 希乃香さんが、唇をすこし尖らせて、うすいグラスとクラフトビールの小瓶を持ってきてくれた。最初の一杯は軽めのを、とお任せして選んでもらったものだ。
 静かに注がれるビールは、色が薄く透明感があって、その繊細なうつくしさにしばし見とれた。口に含むとフルーティな香りが鼻腔に心地よく通り抜け、冷たさにのどがきゅっとせばまる。

「おいしいー……」

 体の奥の、深いところから、満足のひと息があふれ出た。
 細胞のひとつひとつに、しみわたっていくようだ。

「そのひとことを聞くと、アタシの疲れは吹き飛びますよ」

 志満さんは、厨房から運んできたホーロー容器の中身を、豆皿にちんまり盛りつける。自家製のぬか漬け、きゅうり、パプリカ、そして山の芋だという。郷愁をそそる独特の香りに思わず私にもと注文した。志満さんはてきぱきと手を動かしながら、希乃香さんが来たときのことを冗談めかして振り返る。

「あのときは大事件だったんですよ。アタシ一人で気楽に切り盛りしてた店に、あちこちの会社を潰して歩いた縁起悪い子が、突然転がり込んでくるんですから」

 希乃香さんは、私の目の前に手書きのメニューを置くと、志満さんから豆皿を受け取った。

「彩羽さん、わたしが潰したわけじゃないですよ。入社した会社が、たまたま、潰れちゃっただけなんです」

「たまたま、七社もね」

「えっ、そんなに!」

「でももう大丈夫です。七転び八起きっていうでしょう?」

 希乃香さんの言葉に、志満さんの表情がすこし翳ったように感じた。
 ぬか漬けの食感の楽しさとまろやかな酸味は、ビールがすすむ。続いて、雲形の小鉢が出された。

「こちらお通し、カミナリこんにゃくです」

「カミナリ……」

 本城ディレクターの不機嫌な顔が脳裏をちらついて、気が重くなる。

「彩羽さん、ご注文お決まりですか?」

 メニューを持ったまま、何度も同じところを読んでばかりだと気づいた。どの料理もおいしそうなのに、考えが上滑りしていくようで、選びだせない。自分の選ぶものに自信も持てなくて、おみくじをお願いした。

 薄く白い和紙を開いていくと、願い、という文字が飛び込んできて、胸が大きく跳ねた。その先を読むのが怖くて、指先が震える。

「『願い……ととのう、エビフライ』」

「いいエビが入ってますよ」

 笑みをたたえて、志満さんが紺色の暖簾の向こうに消えていく。
 カミナリこんにゃくは、箸の先で何度かつついてみたものの、なんだか口に入れることができなかった。
 本城ディレクターと制作発表終了後に話したことも、あまり耳に入ってこなかった。覚えているのは、無難に済まそうとすると誰の心にもひっかかりを残さない、と言われたこと。きれいにまとめようとするな。お前まるごと体当たりでやれ。
 言われていることが、わからなかった。
 いつだって私は体当たりしているつもりだし、無難になんて後手にまわっているつもりもない。前へ。前へ。むしろ、前のめりに、攻めているつもりなのに。
 いつの間にか下がっていた視線の先へ、頼んでおいたグラスビールと一緒に、大きな皿が差し出された。

「お待たせしました。エビフライです」

 思い描いたエビフライの姿とは、ずいぶん違っていた。
 想像していたのは、キャベツの山を背にして、まっすぐにそそり立つようなエビフライ。
 でも、目の前にあるのは、頭も尻尾もついたまま、腰も曲がった二尾のエビフライ。
 からりと揚がったようすはおいしそうではあるものの、曲がった姿は見てくれが悪い。お店らしいエビフライというのは、まっすぐピンとした姿が魅力なのではないだろうか。
 不格好なエビがつぶらな瞳で前方を見つめ、手足を上に反り返らせるさまは、なんだか、必死に腹筋しているように見えた。
 不格好で、必死で。まるで、高校時代の、私のようだった。

 放送部伝統のトレーニングは、それはそれは厳しかった。
 本入部初日、放送部は文化部のふりをした熱血体育会系部活だったと知った。
 集合はジャージ。グラウンド十周にはじまり、腹筋百回、演劇部と張り合っての腹式発声練習までが基礎トレーニング。見学時にはおくびにも出さなかったメニューにおののき、話したら入部しなかったでしょう、とやさしく微笑む先輩が鬼のように思えた。私を含む新入生八人のうち、初日で二人が退部した。
 中でも腹筋は、かなりきつかった。
 腹筋だけでも苦しいのに、リズム感と発声練習を兼ね、歌いながら腹筋させられるのだ。子どもなら誰でも知っているだろうアニメ映画の主題歌を歌いながら、先輩たちはこともなげに腹筋を繰り返す。試しにやってみると、歌うだけならほのぼのした歌が、腹筋と組み合わせると、途端にアップテンポでハードになり、戦慄した。
 歌も腹筋も、どちらかに意識をとられると、どちらかがおざなりになる。先輩たちについていかなくてはと、死に物狂いで、がんばった。生意気な新入生のレッテルをなんとか払拭しようと、ひたすら真面目に取り組んだ。
 ふと気づくとまわりの声がとぎれ、あるいは小刻みに震え、やがて止んだ。
 どうしたのだろう、と止まった瞬間、爆発的な笑い声が響いた。
 ――みんな、私を、笑っていたのだ。
 音程やリズム、歌詞も、みんなとは違っていたらしい。
 あのときの恥ずかしさと、いたたまれなさは、忘れられない。
 それは、今日私が味わった苦い気持ちに、よく似ていた。


「どうかされましたか?」

 こぼれ落ちた大きなため息に、希乃香さんが声をかけてくれた。取り繕おうにも言葉が思いつかなかった。

「ごめんなさい、なんでもないんです。お店でこういうエビフライって珍しいな、って。まっすぐなものかと思っていたので。その方がきれいでしょう?」

 希乃香さんはしばしエビフライを見つめ、そうですね、と同意した。

「まっすぐでピンとしたエビフライは見た目もうつくしくて、食べやすいかもしれないです。でも、こうして腰が曲がっている方がエビらしく見えるって私は思います。多少不格好かもしれないですけど、本来の姿が見えるようで、親しみが湧きません?」

「親しみ、ですか?」

「ええ。完璧にととのったものはうつくしいですけど、完璧なひとなんていないでしょう。ちょっとくらい不格好な方が、相手からすると親近感が湧くものじゃないでしょうか」

 菫の顔が思い浮かんだ。
 あの腹筋事件のとき、菫が話しかけてくれた。
 希乃香さんはちょっとよろしいですかと断ると、ひらがなの「つ」の字のように重なったエビフライを、腹合わせになるように動かした。頭が下になるように皿を動かすと、くっついた顔はVのように、二つの腰はMのようになり、見慣れた形を作った。

「ほら、ハートが、できるでしょう?」

 ハートの姿で向き合ったエビたちは、互いに言葉を交わしているようにも見えた。

 あのとき、笑われて、いたたまれなくなった私に、菫は声をかけてくれた。
 隣で腹筋をしていて、ひときわ大きな声で笑っていた彼女は、わざと違う歌を歌ってるのかと思ったよ、と話しかけてきた。ちょっと近寄りがたいひとかと思っていたと。顧問挑発事件の噂は、新入生の間にも広がっていたらしかった。
 だから腹筋で歌が聞こえてきたとき、わざと違う歌を歌ってきつい腹筋に抗議しているのかと思ったら、だんだん歌が下手なだけだとわかり、大笑いしたのだそうだ。
 私、この子と仲良くなりたいって思ったんだ、と、あのとき菫は言ってくれた。

8🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

「なんだか食べるのがもったいないですね」

 志満さんがお皿の端に添えられた小さなココットを手のひらで示した。

「そうおっしゃらずに。おいしいうちに召しあがってくださいな。自家製のタルタルソースをおつけしていますけど、ソースでもお塩でも、お好みのものがあればお出ししますよ」

 最初のひとくちはそのまま食べてみると、エビのうまみが口いっぱいにあふれた。さくさくと軽い衣の歯ざわりとあつあつの温度が、ビールの冷たさにまじわっておいしさが乗算されていく。二口目には自家製タルタルソースをかけてみる。まろやかな酸味に複雑なうまみが溶け込み、しゃきしゃきとした食感も楽しい。エビの甘みが引き立ち、こちらもビールによく合って、おいしさの幅はどんどん広がっていく。

「細かく刻んだぬか漬けと、生たまねぎが入っているんですよ。フライって、パン粉をつけて揚げますでしょ。たまねぎとパンって、とてもよく合うんです。そういうことわざが西洋にあるくらい」

「ことわざですか?」

「ええ。『あなたとならパンとたまねぎ』っていうんです。それしかなくても幸せだっていう意味らしいですよ」

 軽やかな衣の秘訣は、ビールらしい。衣にビールをすこし混ぜると、揚げ物がさっくりしあがり深みも出るのだと、志満さんは教えてくれた。
 さすが洋食店ですね、となにげなくつぶやいた言葉を、志満さんは強く否定した。

「いいえ、うちは洋食店じゃなくて、夕食店。ご家庭の夕食みたいに、肩肘張らないでお食事を楽しんでいただきたいの。ご家庭で楽しむお食事って、ポテトサラダと煮魚とか、ハンバーグと切り干し大根みたいに、洋食も和食も線引きしないで一緒に並ぶ、いろいろな感じが魅力でしょう?」

 志満さんのお料理はどれも、まあるい味がする。
 主張しすぎず、隠れすぎず。ほどよい頃合いで、おいしさが引き出されているように感じる。おいしくなるよう、手と心をかけた味。そこに希乃香さんが選んでくれた飲み物を合わせると、うれしさやよろこびが、体と心に満ちるようだ。

「なんだか、すごく大きな、ヒントをもらった気がします」

 ハート形のエビフライと、志満さんの言葉から。
 きっちりしっかりだけじゃない、親近感が湧くようなこと。線引きしない、いろいろな感じ。たぶんそれは、本城ディレクターや栗さんが言っていたこととも重なる。
 私は、カミナリこんにゃくを口にして、お皿の横に置かれたおみくじを眺めた。

「おみくじ、すごいかも。当たるって聞いてたけれど、本当にそうかも」

 ビールを飲み干すと、希乃香さんが、にっこりと微笑む。

「信じるって大切なことです。彩羽さんの願い、ととのいますよ。私は信じてます。いいなあ、私もあやかりたい」

「希乃香さんの願いって?」

「自分の居場所があることです! だからもうこのお店がある時点で叶っているようなものですけど」

「希乃香、そのことだけれど」

 志満さんが、静かな声で告げる。

「アタシは自分がしゃんとしてるうちに、店のこともきちんとするつもりなの」

 希乃香さんの顔から血の気が引いた。

「し、志満さん、それはまさかお店を閉めるわけじゃないでしょ? しゃんとしてるうちにって、いつも年齢を聞かれるとハタチだって答えてるじゃない」

 箸の先が滑った。その三倍でもまだ足りないのでは。いくらなんでもサバを読みすぎだろう。いつもきりりとした志満さんでも年を気にするのかと、ほんのり親近感を抱いた。

「ハタチから年は取らないと決めたの。でも体も頭もしっかり働くうちに、迷惑かけないようにちゃんとしなきゃと思ってね。未来永劫このままってわけにはいかないからね」

 希乃香さんがしおしおとカウンターテーブルにもたれかかる。

「七転び八起きのはずが、七転八倒になっちゃうのは、困るよ……」

 希乃香さんは私のおみくじに目をとめた。

「志満さん、こういうのはどう? 志満さんの願いをわたしが叶えたら、わたしにお店をやらせてくれるっていうのは。彩羽さん、乗りかかった舟と思って、証人になってもらえませんか」

 希乃香さんの勢いにおされて、私は頷いた。志満さんはしばらく考えたのち、希乃香さんをまっすぐに見つめた。

「もしあなたが本気で店を継ぐというのなら、アタシも本気で課題を出しますよ。それでもやるつもり?」

「もちろん! ほかに行くところなんてないもの。ここを潰されたら困ります!」

「なら、おじいちゃまを、見つけていらっしゃいな」

 希乃香さんが動揺したのがわかった。

「おじいちゃま、って……だって、お母さんも会ったことがないって」

「ええ。おじいちゃまは、結唯(ゆい)が生まれたことも知らなければ、孫のあなたのことも知りませんよ。だけど、冥途のみやげに、もう一度くらい会ってみるのも面白そう」

 くつくつと笑う志満さんの横顔が一瞬、少女のように可憐に見えた。
 志満さんはその昔、芸者さんだったそうだ。希乃香さんのおじいさんと出逢い、大恋愛の果てに娘さんを授かったけれども、生まれる前に二人は別れてしまったという。
 希乃香さんは、小島(おじま)孝一(こういち)さん、というおじいさんの名前をメモして、懐にしまい込んだ。
 当時、小島さんは化学を学ぶ学生さんで、二十歳だった志満さんは、そこから年を取らないことに決めたと話した。もともと花柳界では、芸者さんは年を取らないという暗黙の了解があって、どんなにお年を召した方でもおねえさんと呼びならわす。その伝にならった志満さんは、希乃香さんにもおばあちゃんなんて言わせないため、名前で呼ばせているのだと、いたずらっぽく笑った。

 穏やかに笑う志満さんに、現実を一歩ずつ踏みしめてきた強さを、見る思いだった。
 時間は前にしか進まない。
 だけど、うしろを振り返ってみれば、それまで辿ってきた、そのひとにしか歩めない日々が連なっている。そこで得たやさしさや、あたたかさの中にはきっと、明日へ踏み出す一歩へのヒントが、詰まっているのかもしれない。
 希乃香さんと志満さんの、いってらっしゃい、の声に送られて、私はうしろむき夕食店を後にした。

9🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 収録スタジオの窓から見える、ビルに挟まれた空は快晴。晴れた空は、ひとの心も明るくしてくれる。それは、調整室で栗さんとカミナリ雲に向き合う私も例外ではなかった。

「彩羽、お前本気か」

「冗談で収録当日に内容を変えたいなんて言う勇気はありませんよ」

 本城ディレクターはあごひげをさすり、勇気っていうより正気の沙汰じゃないなとぼやいて、進行表を睨みつけている。栗さんは差し入れの生チョコをつまみ、耳にさした鉛筆に手をかけた。

「彩羽ちゃん、結構思い切って変えたね。食べ物を中心にしたトークっていう考えは面白そうだけど」

「食べ物の話題って、そのひとの素の部分が出ると思うんです。施設や映画の紹介でも、黒松さんたちの、素の魅力を引き出したいんです」

 共演俳優としてベテランの松嶋(まつしま)孝蔵(こうぞう)が来ると決まったのだそうだ。モノクロ映画の時代から活躍する俳優で、小柄ながらも渋く凛々しくストイックな姿に憧れ、男女問わず長年のファンも多い。新作映画では、黒松圭演じる若手警察官とコンビを組む、リタイアした敏腕刑事役を演じるという。
 栗さんが進行表にBGMや曲出しのタイミングを書き加えていく。
 それをなおも睨みつけながら、本城ディレクターは、ようやく口を開いた。

「栗ちゃん、悪いけど、軽くリハしてやってもらえるか」

「ありがとうございます!」

 リハーサルに進めるのは、実質のゴーサインだ。
 機材に手を触れ、お願いね、と心の中で声をかけ、アナウンスブースに入った。
 ヘッドホンをつけると、音が消えた。
 そこに本城ディレクターの声が、ゆっくりと響く。
《彩羽、勝てるか》
 私は素直に頭を横に振る。

「わかりません。でも、せっかく来てくれたゲストが楽しんでくれる番組にします、全力で」

 頭の中にエビフライのハートを思い描き、マイクに向かった。

 リハーサル後、挨拶や打ち合わせもそこそこに、早々に収録はスタートした。
 アナウンスブースの机を挟み、すぐ目の前に座る黒松圭は、ボールペンを構えて進行表に向き合っている。とても礼儀正しくて、挨拶のお辞儀がきれいなひとだ。隣に座る松嶋孝蔵も紳士と呼びたくなる大人の余裕を漂わせ、目が合うと頷いてくれた。
 準備万端だ。
 収録番組とはいえ、多忙な黒松圭のスケジュールから、録り直しは一切対応できないと聞かされている。一瞬目を閉じて、もう一度頭の中で呪文を呟いた。
 かまない・ダレない・とちらない。
 調整室とアイコンタクトをとると、栗さんのカウントダウンがはじまる。
《五秒前、四、三、》
 番組テーマ曲とタイトルコールが流れ、オープニングトークのキューが出された。

「こんにちは、パーソナリティの高梨彩羽です」

 二人のゲストを紹介して、黒松圭に話しかける。

「最近の食事で私が一番印象に残っているのは、あるお店のエビフライでした。ビールと合わせると、たまらなくおいしくて。黒松さんは、最近食べたもので印象的なおいしいものはなんですか?」

「ケーキですね。姪っ子たちが、はじめての手作りケーキを持ってきてくれたんですよ。気持ちがうれしくて、思いきりかぶりついたら、しょっぱくてびっくりしました! ケーク・サレっていうそうで」

 穏やかな目をさらにやさしく細め、はにかみながら話す黒松圭は、テレビや映画で見るよりも素朴な印象だ。ケーク・サレの具の話題に、たまねぎが出てきたところで、松嶋孝蔵に向き直る。

「たまねぎといえば、最近『あなたとならパンとたまねぎ』っていうことわざを知りました。さきほどのエビフライのお店で教えてもらったんです。だから、パン粉をつけたフライと、たまねぎの入った自家製タルタルソースがよく合うのよって。さて松嶋さん、エビフライはタルタルソース、ウスターソース、どんなものをかけて召し上がりますか?」

 松嶋孝蔵の目が鋭く光った。温厚な微笑みに時折混じるすごみのようなものに、こちらの背筋もぴんと伸びるようだ。

「私は醤油ですね。とんかつもエビフライもなんでも醤油です。さきほどのことわざ、スペインのことわざですよね。それを伺うと、次はタルタルソースでも食べてみたいものです」

 さすがベテラン。こちらに話のボールを投げ返してくれる。食べ物を中心にしたトークは盛りあがり、前半は問題なく進んだ。調整室から見守っている栗さんはもちろん、本城ディレクターも、不機嫌な顔つきはいつもどおりだけれど、何度も頷いて見守ってくれている。
 曲が流れている間、スタジオはエビフライの話でもちきりだった。並木台の店で道に迷いやすく変わった自販機が目印だと話すと、黒松圭は進行表にエビフライと書きつけて、お腹を鳴らした。現場の雰囲気は和やかで、そのおかげか、後半の映画紹介でも、印象的なロケ弁の話から二人の俳優の撮影秘話も飛び出して、万事が順調に進んだ。
 いい空気を作れていると、肌で感じた。
 左手に握りしめたストップウォッチの残り時間は、あと少し。最後の曲紹介を残すのみになった。

「盛りあがっているところ名残惜しいですが、お時間が近づいてきました。映画の主題歌でお別れしましょう」

 ここで曲のイントロが流れるはずだった。
 一瞬の間は異変を告げていた。
 調整室で栗さんが慌てているのが見える。本城ディレクターは両手の拳を左右に広げ、引き伸ばせ、と合図をしてくる。

「最近よく耳にしますよね。みなさんも聴いたことがあるんじゃないでしょうか。知ってるよ、鼻歌を歌えるよ、という方もたくさんいらっしゃるかもしれません」

 トークでつなぎながら、ちらちらと調整室を見るものの、栗さんは顔色を失っている。本城ディレクターに目で助けを求めると、手で大きくバツ印を作った。
 機材トラブルだと悟った。
 おそらくもう音は出ない。でも、音楽が出ないとなると、オリエンテーションで告げられた番組成立の必須条件がなくなってしまうことになる。
 どうしよう。どうしたらいいだろう。このまま黙っているわけにもいかない。局によって基準は違うが、シュトラジでは六秒以上無音になれば、放送事故になってしまう。
 ――しっかりしろ、私。
 黒松圭が進行表に書いた、エビフライ、の文字が見えた。

 目を閉じ、ヘッドホンの無音の向こう側に、耳を澄ます。
 私は、映画の主題歌を、静かに歌いだした。

 ぷっと吹き出すのが聞こえた。
 目を開けると、黒松圭と松嶋孝蔵は顔を真っ赤にして肩を震わせ、笑いを懸命にこらえている。
 下手なのだ。きっと。
 彼らが知っている主題歌と、私がいま歌っているものには、違いがあるのだろう。あのときのように。猛烈に恥ずかしく、頬が燃えるように熱くなる。
 それでも必死に歌い続けると、そこに、低い声が重なった。
 松嶋孝蔵が、一緒に歌ってくれていた。サビの部分になると、黒松圭も加わり、アカペラで主題歌のワンコーラスを歌い切った。
 声が途切れると、黒松圭の声が間髪を容れずに響いた。

「はじめて聴いた曲かと思いましたよ! すごいサプライズ!」

 黒松圭は、ウインクしてくれていた。彼が咄嗟に突っ込みをいれてくれたおかげで、まるで最初からこういう演出だったかのように、笑い声に包まれて番組は終了した。
 楽しかったですとスタジオを去る二人に、助け舟のお礼と感謝を繰り返し、見送った。
 調整室では、栗さんが頭を抱え、何度も謝罪を口にした。本城ディレクターは事故だから仕方ない、栗さんのせいじゃない、と繰り返している。

「彩羽ちゃん、ごめん。ほんとにごめん。リハもうまくいったのに。ぼくのせいだ」

「やめてくださいよ。栗さんのせいじゃないです。仕方ないです。運です、運」

 本城ディレクターの大きな手が、私の頭をわしわしとなでまわした。

「お前、度胸あんのな! あんなに音痴なのに歌で乗り切ろうって機転はなかなか利かせられるもんじゃない」

「褒めてます? けなしてます?」

「あの二人のナマ歌なんて、なかなか聞けないだろ。番組的にはおいしい」

 お前の歌は放送事故スレスレだけど、と軽口を叩いていた本城ディレクターは、ふと真顔に戻って、がんばったな、と言ってくれた。
 胸がいっぱいになり、視界が潤む。
 姿の見えない大勢のリスナーに向けて恥をさらしたので、考えたくもないくらい恥ずかしい。だけどゲストの二人は笑ってくれた、とも思えた。

「……ま、番組成立条件をどうみるかは、梧桐不動産開発しだいだけどな」

 万が一でも気を落とすな、と本城ディレクターは珍しくやさしい言葉をかけてくれた。

「面白かったよ、俺は」

「はい! ゲストのお二人は、楽しんでくれましたもんね。私の目的は、十分果たせました」

 なおもうなだれる栗さんをなだめて、私たちは、お疲れさまでした、と頭を下げあった。
 翌週番組は公開された。FMスパークルは商業施設を舞台に、黒松圭とデートコースを決めるコンセプトで番組を展開していた。ノックウェイヴはライフスタイルと音楽を融合させ、黒松圭と音楽談義で盛りあがっていた。初日の再生回数はFMスパークルがダントツだった。

 二週間ほどが過ぎたある日の夕方。
 マチトクの収録で、自然保護園前広場で行われた骨董市を紹介していたときだった。
 調整室に、本城ディレクターがノートパソコンを抱え込むようにして、飛び込んできたのが見えた。
 栗さんの指示でアナウンスブースを出ると、本城ディレクターは無言で画面を指さす。開かれているのは、すでに見る気力もなくしていた、梧桐不動産開発の番組コンペ特設サイトだった。

「えっ!」

 金メダルマークとともに、第一位シュトラジ、と記されている。
 得票数は全体の四割。二位のFMスパークルに幾分差をつけての勝利だった。後半からじわじわと追いあげてきたらしい。

「コメントも見てみろ」

 そこには、黒松圭の歌声が聴けたとの喜びの声のほか、私の歌について、下手すぎ、歌わせちゃダメなひと、など辛口コメントがずらりと並ぶ。でも、その語尾には笑顔の顔文字や笑いを示すwがたくさん並び、好意的に受け容れてもらえたんだ、と胸が熱くなる。
 親しみが湧きません? と希乃香さんの声が聞こえるような気がした。
 もしかしたら、自分にとっては苦みにしか思えないことも、ほかの誰かにとっては味わいになったり、香りたつ個性と感じることもあるのかもしれない。
 ひととひとは違うから苦しむこともある。
 だけど、違うからこそ、気持ちが重なるときのよろこびは大きいのだと思える。
 お腹の底のあたりに、じんわりと、ぬくもりが広がった。

「おめでとう」

 本城ディレクターが、私と栗さんに、缶ビールを差し出す。

「えっ、就業中ですよ、いくらなんでも」

「お前を祝おうってのに無粋な奴だな。よく見ろ。あと三十秒で規定では終業時刻だ」

 時計の針はまもなく十八時を指す。
 針が重なるのと同時にプルを抜き、私たちは声を合わせた。

「乾杯!」