キャリアチェンジは、社会の中の部署移動。キリンの元従業員が実践する、「外」からの恩返し
退職者から見たキリンとは、どのような会社なのだろう。
そして、キリンでの経験はどのように活かされているのだろうか。
セカンドキャリアとして新たな一歩を踏み出した元従業員に、キリンでの学びと新たな挑戦についてうかがう連載企画「仕事のギフト学」。
第4回に登場してくださったのは、キリンを退職後、京都水族館の館長兼支配人に就任し、現在は京都でさまざまな事業を手がける松本克彦さん。
「人事異動の発令は会社からだけでなく、自分で出すこともできる」との考えから早期退職を決め、人との縁や街のつながりを大切にしながら、精力的に活動されています。
今回は、松本さんにゆかりのある京都の街を巡り、縁の深い方々からもお話をうかがいながら、松本さんの価値観や働くうえで大切にしている想いをお話しいただきました。
写真家・土田凌さんが撮り下ろした京都の街並みや、伊根町舟屋の美しい風景とともに、松本さんのセカンドキャリアをご紹介します。
キリンの営業から京都水族館館長。「自分だから話せる言葉で伝える」という共通項
2019年にキリンを退職し、2024年2月まで京都水族館の館長を務めた松本克彦さん。京都水族館を案内していただきながら、当時のお話をうかがいました。
─松本さんはキリンビールを退職後、京都水族館の館長兼支配人に就任されたそうですね。
松本:55歳のときにキリンを早期退職して、京都に来ました。いずれは京都で働きたいと思っていて、転職サイトで京都の仕事を探していたら、京都常駐の水族館支配人の求人を見つけたんです。
─ご出身が京都だったんですか?
松本:いえ、出身は神奈川です。京都はキリンに入社してからの初任地だったんです。そこで妻とも出会いました。京都は私にとって特別な場所なんです。
─ビールメーカーと水族館は、大きく異なる業界だと思いますが、苦労された点はありましたか?
松本:もともと生き物は好きだったのですが、水族館業界のことは何も知らなくて。まずはお客さまの目線を持つために、入社前に自費で北から南まで、全国50か所の水族館に行きました。世界には水族館が500か所ほどあるのですが、そのうちの130か所以上は日本にあります。日本は水族館大国なんですよ。
─水族館の館長兼支配人というのは、具体的にどのような仕事をされるのでしょうか?
松本:支配人の仕事は経営管理ですね。館長はスポークスマンのような役割でした。キリンでは営業の仕事をしていたこともあり、お客さまと接するのが好きだったので、水族館でも時間があれば館内を歩いて、生き物や植物、昆虫の説明もしていました。何か一つでも「そうなんだ!」と思ってもらえるようなものを持って帰ってもらいたかったんです。
─動物や植物についても、かなり勉強されたんですね。
松本:勉強というより、興味ですね。京都水族館ではオオサンショウウオを飼育しているのですが、やはり野生の生態を見たいので、何度も川へ行きました。実際に現場を見て初めてわかることって多いと思うんです。水の冷たさとか、きれいだけどゴミが落ちている現状とか。機会を見つけて川に行く、山に行く、海に行く、人に会いに行く、そうしたオリジナルな体験を積み重ねることで、受け売りではない、自分だからこそ話せることが増えていきました。
四足の草鞋を履く生活。人とのつながりに導かれて伊根町に
水族館での5年契約を終え、現在は複数の事業に携わっている松本さん。飲食店の立ち上げ、福祉会社の顧問、キャリアコンサルタントとしての活動、さらにはオーバーツーリズムや観光公害といった観光業界を取り巻く社会課題に取り組むなど、多岐にわたる活動を行っています。
京都水族館をあとにし、松本さんが京都烏丸六角にオープンした『WAGYU KAJIYA 神慈や』にお邪魔しました。
─京都水族館を退職されてから、現在はさまざまな事業に携わられているんですね。しかも、どれも異なるジャンルの業界。意識的に知らない世界に飛び込むようにされているんですか?
松本:そういうわけではなく、すべて人のつながりで始まっているんです。飲みの場で知己を得た方々の仕事内容や課題認識、アクションを知って興味を持ち、まずは消費者としてその方々の商品やサービスを経験する。そうするなかで自ずと関係性が深まり、仕事につながっていくんですね。
この『WAGYU KAJIYA 神慈や』も、私がキリンビールの宮城支社長をしていたときに出会った方とのつながりから始まりました。その方のご実家が種子島で黒毛和牛を育てていて、京都でそのお肉を提供するお店を開きたいと相談を受けたんです。
「それなら物件を探そう」ということで、京町家を専門に扱う不動産屋の知り合いに相談しました。そして、京都で知り合った伝統工芸の作家たちにも参加してもらい、お店を立ち上げたんですね。ドリンクメニューは私が監修しています。そうやって、人とのつながりを大切にしながら仕事ができるのも、京都の魅力だと思っています。
京都烏丸六角『WAGYU KAJIYA 神慈や』をあとにし、京都市から車で2時間。松本さんとともに京都府北部の伊根町を訪れ、街を案内していただきました。
─初めて伊根町に来ました。穏やかな雰囲気で、ゆったりした気分になれる町ですね。こちらでは系列店の『FUNAYA KAJIYA 神慈や』をオープンされたそうですが、きっかけは何だったのでしょうか?
松本:烏丸六角の厨房の打ち合わせをしているときに、設計士さんが「自分が設計した物件に公募がかかっているのですが、興味ありますか?」と教えてくれたんです。町がオーナーから譲り受けてリノベーションした古民家での飲食店運営を募る公募が行われていると。
伊根町は京都北部にある小さな漁村なんですが、実は以前からよく知っている場所でした。というのも、京都水族館は伊根町の漁業会社さんの定置網の船に乗せてもらっていて、馴染みの漁師さんから網にかかった珍しい魚を譲り受けたり、クラゲをすくったりしていたご縁のある町だったんです。
─キリンに続いて、今度は水族館時代のつながりが。まるで何かに導かれているような展開ですね。
松本:そうなんです。伊根町は1階が船のガレージ、2階が居住スペースになった舟屋という建物が建ち並ぶ風光明媚な町で、アクセスは悪いのに観光客は年間約35万人、インバウンドの観光客も多い。これはチャンスだと思って公募に手を挙げ、コンペを勝ち抜いて町から指名を受けることができました。
─立て続けに二店舗もオープンしたんですね。
松本:もうバタバタでしたね(笑)。役場に届けを出したり、知り合いのなかで飲食をやりたい人を探したり、ドリンクメニューの監修をしたり。ビールはもちろん、キリンのものを選んでいます。今は、こういう立場で恩返ししていきたいと思っているんです。
─伊根町でお店を開くにあたり、地元の方々との関係性はどのように構築していったのでしょうか?
松本:一次生産者や小売店なら商品を購入する、宿なら泊まる、飲食店なら食べる、遊覧船なら乗って、とにかくお話をうかがう。そうしたことを続けるなかで自然と関係ができていきました。営業時代と同じですね。
「楽しい」のエネルギーがないと会社はよくならない。キリン時代に学んだ、組織の動かし方
─松本さんがキリンに入社しようと思ったのは、なぜだったのでしょう?
松本:一つは、母がキリンビール横浜工場の製壜課で働いていたんです。今では考えられませんが、80年代は異物混入のチェックをすべて目視で行っていました。母はそのチェックのコンテストで優秀な成績を収めて、社内報にも載ったんです。それを持って帰ってきた母を見て、中学生の頃からキリンには親しみを感じていました。
もう一つのきっかけは、大学生のときにロサンゼルスにホームステイした経験です。当時のアメリカでは、日本製の車や電化製品は街にあふれていたのに、日本のビールはほとんど見かけませんでした。ビール業界はまだ世界に進出していないと感じ、そこに大きなチャンスがあると思ったんですね。
─キリンに入社してからはどんな業務を担当されていたんですか?
松本:最初は京都で営業の仕事をしていて、3年目くらいで国際事業要員の募集に手を挙げて研修を受けました。原宿にあった本社に通いながら半年ほど英語や文化の違いなどを学び、その後ロサンゼルスのキリンUSAに派遣されました。日中は和食店を自分でまわるほか、現地の営業の方に同行して、量販店やバー、レストラン訪問。夜間はUCLAの社会人コースに通うという日々でした。クラスメイトには看護師やスーパーの店長がいましたが、みんな現職に甘んじることなく独立志向が旺盛で、キャリアアップのために学んでいましたね。
日本では、キリンが新商品を出せば、ほぼ100%の企業さんが扱ってくれましたが、当時のアメリカでは皆無に近い状況でした。取り扱いのないお店に商品を売り込みに行くわけですから、ゼロからのスタートで、何をすべきか、どう説明したらいいか考え、企業の規模の大小を問わず片っ端から訪問しました。商品説明では、『一番搾り』を「Please imagine tea bag. First squeezed is good, but second one is less quality…」と紅茶パックに例えて説明したこともありましたね。大変でしたけど、「この経験は日本ではできない」と感じて、すごく楽しかったです。1年半のアメリカ生活は、毎日が濃厚な時間でした。
日本に戻ったあとは、営業部で大樽機器の開発や、飲食店の方に生ビールのおいしい注ぎ方をお伝えする「ドラフトマスターズスクール」の講師、大阪では外食企業の営業を担当しました。その後、企画部に異動して「V10推進プロジェクト」に参加することになりました。社内の組織風土を改革し、10年先のビジョンを描いてキリンが大事にする価値観を糧に、組織強化や企業価値向上を目指すプロジェクトです。
─そのプロジェクトでは、具体的にどのような取り組みをされたのでしょう?
松本:当時のキリンは、生産・物流・営業など、各部署がそれぞれの仕事に専念していましたが、部署間のつながりは強くありませんでした。そこで、手挙げ方式で部署を超えたメンバーが集まり、そこに社長も参加して、みんなで話し合うフォーラムを数年間にわたり、全国各地で100回以上開催したんです。ほかにも、ふだんは直接話す機会はないけれど、物心両面で助けてもらっている他部署のメンバーに感謝の気持ちを伝える「ありがとうの手紙」という企画など、さまざまな取り組みを同時並行で進めていきました。
松本:例えば、ビール樽って雑に扱われると凹んでしまうのですが、歪みを工場で直していることを知れば、お得意先さまにも「丁寧に扱ってください」とお伝えできますよね。部署を超えて話す場ができたことで、そういう意識の変化がたくさん生まれました。
─たしかに、工場や物流部門の現場の苦労や課題解決のための創意工夫を知ると、営業担当者が得意先に語る言葉にも想いが宿りますよね。
松本:V10推進プロジェクトは、部署や資格・雇用形態で参加者を限定することはせず、誰でも参加できるようにしました。立場を超えて話すことで、間接部門含めすべての仕事がつながっていることが実感できる。そうして部署間の距離が近づくと、各部門間のコミュニケーションの質と量が上がり、仕事の進み方も変わってくるんです。結果的に想定以上の人が集まり、議論も盛り上がりました。
─そういう結果になったのは、やはり会社をもっとよくしたいという意識の人が多かったからなのでしょうか?
松本:それもあったと思いますが、きっと参加者自身が楽しかったんですよ。小さなことでも人から認められると、自己肯定感が高まるじゃないですか。自分の部署以外にいるキリンの仲間を知り、相手にも自分の仕事を知ってもらう。そうやってつながりが増えて、お互いの理解が深まっていくのって、楽しいと思うんですよね。
─「会社をよくしたい」と「その取り組み自体が楽しい」が両立するのは、すごくいい状態ですね。
松本:そうですね。「楽しい」がないと、「会社をよくしたい」の取り組みも続いていかないんだと思います。
つながりが仕事のやりがいや楽しさを生み出すというのは、社内だけに限りません。私は東日本大震災のときに宮城支社長を務めていたのですが、あの日は仙台駅の近くで地震に遭いました。仙台工場はビールタンクが倒れ、瓦礫にのまれて設備もめちゃくちゃな状態だったんです。そんな状況から仙台工場が復旧したとき、近隣に住む女性が「この場所で、操業再開をしてくれてありがとうございます。ここがゴーストタウンにならなくてよかった」と涙を流しながら私の手を握ってくれて。
そうそう、こんなこともありました。当時、東北放送のラジオ番組に月1回出演していたのですが、女性アナウンサーが『とれたてホップ一番搾り』の初出荷のニュースを読み上げている途中で、感極まって涙ぐみ、原稿を読めなくなってしまったんです。そんな風にたくさんの人のお気持ちを直接お聞きしていくなかで、地域における工場の存在意義をあらためて感じたんです。工場移転もやむなしかと思われた、絶望的な状況からの復旧に取り組んだキリン社の決断を、地域のみなさんが諸手を挙げて支持してくれたことを実感できました。今も忘れられない記憶です。
キャリアチェンジは、社会のなかの部署異動
─キリンを退社された理由として「京都で働きたかった」というお話がありましたが、会社を辞めずに転勤するという考え方もあったのでしょうか?
松本:「四十五十は鼻たれ小僧、六十七十働き盛り、九十でお迎えが来たらまだ早いと追い返せ」という言葉がありますが、65歳でおしまいの会社にしがみつくのではなく、心身ともに健康なうちに、大好きな土地でやりたいことを制限なく意のままにやりたいという気持ちが強かったですね。それに、一宿一飯どころか32年間もお世話になったわけですから、OBとして応援する側にまわって恩返しがしたいと。
水族館に着任して3年目に、旧知の法人担当を介してキリンビバレッジ社の訪問を受けたことがきっかけで、自販機を設置することになりました。無論、業者間で公平を期して本社で条件面や提案を精査したうえでのことです。現役世代は、このようにOBを訪ねたらいいと思うんですよ。OBはあちこちにいるのに、どうして行かないんだろうと思いましたが、よく考えてみれば、仕方がない面もあって。現場にいる若い人たちは、世代が離れていることで、OBの転籍先の情報を知らないんですよね。
─なるほど。キリンを退職したら関係性も失われるわけではなく、OBが転職するというのは、別の会社に味方が増える状態とも言えますもんね。
松本:そうそう。退職後、いち消費者としてキリンを応援するという方法もありますが、別の会社に味方ができたら、キリンがやれることはもっと増えるはずですから。OBがセカンドキャリアとしてさまざまな業界に広がっていけば、キリンビールの現役社員にとって、こんなに心強い人脈はないですよね。だから、現役社員は遠慮や躊躇なくOBを頼ったらいいし、私はOBとしてそれにできる限り答えてあげられたらと思っています。
あとは、キリンで培った知恵や経験を活かして地域や社会課題に貢献して、自分の人生を豊かにしていくためには、もっと外に興味を持ち、社会とつながっていくことも大切だと思っていて。
水族館の任期が切れる前に、大阪の業務用酒販店の社長を交えた飲み会があったんです。私が「次はこんな店をやるんです」と嬉々として今後の構想を語っていると、その社長が「松本さんは未来の話をするからいいね」と言ってくれました。私は「次はこんなことがしたい」と未来の構想を練る方が楽しいんですよね。
ある方が「ビールは上を向いて飲む明るいお酒」とおっしゃっていたのですが、OBに限らず現役の人も「将来的にこんなことをしたくて、そのための経験や人脈を得るためにキリンにいる」とか、みんなで杯を交わしながら未来の話ができたら楽しいですよね。きっとその方が仕事への向き合い方や学ぶ姿勢も俄然積極的になり、生産性も上がるんじゃないかな。
松本:商品の原料を栽培してくれる方や、商品を運んでくれる協力業者の方など、社会の力をたくさん借りて、キリンはお客さまにビールをお届けできているわけですよね。そうして社内と社外がつながることで、お客さまに価値を提供できていると考えると、キリンの社員であることはこの社会における一つの役割に過ぎません。つまり、「社会のなかの部署異動」と捉えれば、会社を辞めることもワンステップであり、なんら特別なことじゃないんですよ。人事異動の発令は会社から出されるだけでなく、自分で出すこともできるわけだから。
─自分の人事異動は、自分で決められる。たしかにそうですよね。
松本:そのスタンスでいれば、きっといろんなつながりを求めて人に会いに行きたくなるはずです。終身雇用の時代はとっくに終焉しています。今の時代、生涯一つの会社で仕事を続けることは是なのか、自分はそれで満足なのか、成長できるのか…そういう気持ちと向き合うのは苦しさもありますが、自分のなかでの議論を避けず、過剰に恐れず怯まず一歩を踏み出したらいいんじゃないかな。私が知っている先輩や同期、後輩はそれぞれの道でみな生き生きしていますよ。
─松本さんはご縁をつくり、はぐくむのが得意なんだなと感じるのですが、何か人付き合いのコツはあるのでしょうか?
松本:そうですね。やっていることは三つあります。
一つ目は、誘われたら「ハイ、よろこんで!」と、出ていきますね。飲み会を断ったことはありません(笑)。一期一会、そこでどんな出逢いや気づきがあるかわかりませんからね。
二つ目は、飲み会の場で「この人、魅力あるなあ」と思ったら、その場で了解を得てSNSでつながります。地域で意気軒高に躍動している方は活動情報の発信手段として、Facebook・Instagram・Threadsも使いますから、そこで展示会やイベントやポップアップ出店の情報を得たら、都合がつく限り顔を出したり、買い物をするようにしています。
三つ目に、私は人間性に惚れたら、職業はもとより、相手が二十歳であろうと八十歳であろうとファンになってしまうんです。生来のお節介気質で、ひとたび縁ができたら応援したいし、いい人同士の縁を取り持ちたいと思うんです。そこにギブアンドテイクの思惑はありませんが、世の中は利他の思いで動いていると最終的にギブギブギブンとなるんです。ギブンは有形無形いろいろですが、無形が多いかな(笑)。
環境が変わっても、人とのつながりは価値であり続ける
─あらためて振り返ってみて、キリンはどんな会社でしたか?
松本:時代によって変わると思いますけど、真面目な会社だと思っています。モノづくりに一生懸命で、誠実な会社。
それと、地域と一緒にやっていく気持ちがすごく強いと思います。昔は年に一度、工場を開放して地域にお住まいの皆さんをお迎えする「工場フェスティバル」というイベントを、どの工場も開催していたんですよ。地域の人が楽しみにしていて、もう大盛況でね。東日本大震災を乗り越えて仙台工場が復活を果たしたときも感じましたけど、地域を、お客さまを大切にしている会社だと思いますね。
今はいろんな規制によって工場の開放が難しいとも思いますが、リスクを考えてそういう機会を排除していくと、地域との距離が生まれて、ドライな会社になってしまうんじゃないかと心配しています。
─さまざまなリスクヘッジによって、会社のよさが失われてしまうことを危惧されていると。
松本:キリンに限らず、チャレンジがしにくい、窮屈な世の中になっていると思うんですけど、もっと攻めてほしい気持ちはあります。見るべき相手を間違えないでほしいと思うんです。あくまでも何があろうと、お客さまを見る。それがキリンらしさであり、誠実であるということだと思うので。
─熱意と好奇心、そしてご縁を大切にしながらさまざまなキャリアを歩まれてきた松本さんですが、今後取り組んでいきたいことがあれば教えてください。
松本:キリン時代には海外赴任含め、いろいろな仕事を経験しましたが、今はお店を通してキリン商品を最高の状態でお客さまに提供する「ラストマイル」を担えていることがうれしく、誇りに感じています。酒はもちろんですが、人が笑顔になる瞬間を間近に見られる現場が好きですし、自然も好きなので、今後はそうした要素が掛け合わされた観光事業にも関わってみたいですね。
1年後には、おそらく現事業と掛け持ちで、新たな仕事をしていると思います。
─最後に、キリンで働く社員の方々にメッセージをいただけますか?
松本:キリンという会社は、間接部門やグループ会社も含めたバリューチェーンがつながることで、お客さまに価値ある商品を届けることができます。社内外すべての関係者の想いを背負って、商品の価値を伝えることが大切です。だからこそ、社内の縦横斜めのつながりはもちろん、会社の枠を超えたつながりをつくったらいいよ、楽しいよと伝えたいですね。そういうつながりは、会社が与えてくれるものではなく、自分から現場に出向いて獲得していくものです。
情報量は移動距離に比例しますから、例えば、各地で催されるクラフトビールフェスに足を運んでブリュワーと話をする、新聞記事で関心を寄せた社会課題の解決に取り組むNPOの講演を聞いたり、ボランティアに参加してみたり。旅行もいいでしょう。休みを利用してどんどん出かけ、たくさんの人に会って縁を紡ぎ、世界を広げてほしいと思います。
八木重吉の詩に「路を見れば心躍る」という詩がありますが、皆さんにはぜひ心躍る、そんな路を見つけてほしいと思います。
また、中島みゆきの「糸」にある歌詞にもこうあります。
「なぜ めぐり逢うのかを私たちは なにも知らない。いつ めぐり逢うのかを私たちは いつも知らない」。
「キャリアは偶然の要素で8割が左右される。偶然に対してポジティブなスタンスでいる方がキャリアアップにつながる」という話を聞いたことがあるのですが、誰しも寿命も含めて先のことはわかりません。でも、一寸先は闇ではなく光。受け身で偶然の到来を座して待つのでなく、その後のキャリアに影響する人とめぐり逢う確率を上げる。今身をおく環境で仕事に没頭しながらも、新しい挑戦をしていってほしいですね。
編集部のあとがき
「せっかくなので、私がふだんからお世話になっている方々もご紹介しますね!」
そんな松本さんからのお声がけで、1泊2日で京都市内と伊根町を巡り、たくさんの方にもお会いできた今回の企画。
お会いする方々と近況を共有しながら、楽しそうに談笑される姿を通じて垣間見られたのは、まさにフラットで自然体な「ご縁」でつながり、はぐくまれた関係性。
好奇心を大切に、自らの人生を進む行動力こそが、セレンディピティなのかもしれない。そんな風に思わずにはいられない取材となりました。(矢野)