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商いよろしマカロニグラタン【うしろむき夕食店*二の皿】

ポプラ社さん、新人作家冬森灯さんとコラボした『うしろむき夕食店』プロジェクト。第一話はお楽しみいただけましたか?まだの方はこちらよりご覧ください。

それでは、第二話『商いよろしマカロニグラタン』をお楽しみください。

一気に読み切れない方のため、区切りのいいところで「栞」として🍺を入れることにしました。今自分が「何杯目のビール」まで進んでいるかをご確認いただきながらまた小説の世界に戻ってきてもらえればと思います。

▼うしろ向き夕食店プロジェクトについてはこちら

1🍺

 都心から私鉄の各駅停車で約二十分。
 並木台駅北口から続く並木道を北へ、徒歩約十分。
 T字路の手前、昭和風味の路地を左。

「昭和風味って、どんなだ」

 ゆるやかな登り坂の途中で、俺はぴたりと足を止めた。
 メールの字面だけを見ていた。ぱっと見はちゃんとした道案内に思えたが、まさかこう判断に悩む目印だとは。ちゃんと読んでおくべきだった。傾げた拍子に、ぱきっと首が鳴る。疲れがたまっているらしい。
 新しい環境と向き合うときは、気づかぬうちに緊張と疲労が蓄積するものだ。
 新年度や転属、引っ越しも。社会人生活も五年目を迎え、それなりに新しいことを経験してきたはずなのに、いつの間にか肩に力が入る。

 注意深く歩いたつもりでも、目的の路地は見つからなかった。目の前にT字路の突き当りが迫り、長いこと歩いてきたいちょう並木を振り返る。街灯が照らす金色の並木道に潜む、昭和風味のものを必死に探してみる。二十メートルほど前に、トタン屋根の商店らしきものがあった。どうやら気づかずに通り過ぎたらしい。
 戻ってみれば、商店の横に延びる細い路地には商店と住宅が入り交じり、板塀にブリキの看板が見えた。シャッターや雨戸が閉まっていたが、昭和風味と言われればなんとなく納得できる情緒があった。
 とくに目を引くのは、商店の店先に佇む、ロッカーのようなもの。側面に癖字で産直自動販売機と手書きされ、縦に六個、二列の、透明窓の個室がある。しかし、扉の多くは中途半端に開き、棒のようなものがはみ出していた。

「なんだこれ」

 近づくと、ぷんと、土の香りがした。
 太いゴボウのようだった。土がついたままで、三本ほどが緑色の養生テープで束ねられ、三百円と油性ペンで書かれている。安いのか高いのかわからないが、おおらかな商売の仕方には驚く。
 一つだけ閉まった扉の中は空だが、売れたのかはわからない。見たところ、センサーや防犯カメラなど盗難防止の機材などはなく、盗んでくださいとばかりに置いてある。これで商売が成り立つのか、他人事ながら心配した。
 夜風に漂うほのかな土の香りは、あのときの彼女を思わせた。あちこちに枯葉や土をつけて、頬も泥で薄汚れていた。助手席から彼女が去ったあとも、残り香みたいに、土と葉の入り混じった、山の香りがした。
 路地を曲がり、メールのとおりに、右、左、右、と進むが、行き止まった。聞いたような店はない。自販機まで戻って再度歩いても、やはり同じ行き止まりにぶつかる。
 うまくいかない。
 迷いは、とことん、迷いを呼び寄せるものなのだろうか。今日は道に迷うが、あのときも、車を停めるべきか迷った。夜の山道でヒッチハイクに遇うなど、想像もしなかったからだ。
 もしも本当に困っているなら助けぬわけにはいかないし、そうでなくてもアクルヒ製薬の社名入り営業車で見て見ぬふりは、後々面倒そうだ。数秒の間に頭をフル回転させ、親指を立てて立ちはだかる着物の女性の前で、車を停めたのだ。
 丁寧に礼を言って助手席に体をうずめた彼女と、編みあげブーツで挟むように固定された重たげなビニール袋から、土と葉の香りがした。
 着物で山登りも珍しいね、とたずねると、普段から着物で過ごしているのだという。それに、好んで山登りしたわけではなく、不可抗力だと言い張った。

「だって、炊き立てのむかごごはんて、すっごく、おいしいですよね」

 見た目のサバイバル感と発言のギャップがあまりにも大きくて、思わず笑ってしまった。つやつやで、もちもちで、ほくほくで、と続く言葉に腹の虫が鳴いて、食べに来ませんかとの誘いに即答した。たぶん、断ることもできたはずなのに。

 もし道に迷ったら、うしろむき夕食店はどこかと聞いてください、と言っていた。
 店の本当の名は別にあるが、その方が通りがいいのだという。うしろ、つまり古きよき時代を思い出すような、なつかしい雰囲気の店なんです、と彼女は話した。
 とはいえ、さびれた裏通りには、ひと一人通らない。
 縁がなかったと思って諦めようか。さっさと踵を返して、駅前にあった商業施設あたりで適当な店を探そうか。そう思うたび、炊き立ての……と話す様子がよみがえり、手掛かりがないか、あたりを見回す。
 街灯の下を、なにかがよぎった。
 野良猫だろうか?
 一瞬照らされた体毛は、金色に輝いて見えた。でも、猫のしっぽはあんなにふさふさしていたろうか。それに、あんなに弾むように歩く生き物だったろうか。
 なんだか気になって、生き物が消えた先の路地を曲がった。

「あ」

 宵闇に沈む路地の先に、淡い色彩が浮かんでいた。
 ステンドグラスの扉のある、二階建ての古い洋館。レトロな板壁。扉の両側に、波打ったガラスのはまった格子窓が二つずつ。聞いていたとおりの店だ。
 観音開きの二枚の扉にはめ込まれたステンドグラスには、陽だまりを思わせる、野原の風景が描かれていた。店内には楽しげにテーブルを囲む客たちの姿と、着物姿の二人の女性が見え、うっすらとうまそうなにおいが漂ってくる。
 着物の一人と目が合った、と思った直後、ステンドグラスの扉が開いた。
取っ手に結ばれた鈴が勢いよく揺れ、りん、と澄んだ音を響かせた。

「お帰りなさい!」

 笑顔で迎えてくれたのは、あの土の香りの彼女――希乃香さんだった。

2🍺🍺

「乾杯!」

 交わす盃やグラスは、重ね合う挨拶みたいだ。
 一杯ごとに、互いの距離をほどよく縮めてくれる。
 とろりと注がれた日本酒は、舌とのどに熱を残しながら通り過ぎ、体の奥をぽっとあたためてくれる。二口、三口と重ねれば、華やかな香りがほどけ、うまみの余韻を残して、儚く消えていく。
 希乃香さんはカウンターの内側で、のどを鳴らしてグラスを干した。もっとも、俺は日本酒だが、彼女は水だ。白いエプロンの下の着物は青と黒の六角形模様で、途切れたりつながったりしていた。新人研修でたたき込まれた化学の構造式に似ている。斬新な柄に思えたが、昔の着物なのだそうだ。
 聞いたとおり、なつかしさを感じる店だった。
 案内されたカウンター席は、テーブルも曲木の椅子も、丹念に磨き込まれていた。無数の小傷が年月を感じさせるものの、みたらし団子みたいな濃いめの赤茶色のニスで輝いている。他の客席テーブルや、ゆったりとしたソファの肘置も、壁際に飾られた昔の薬箪笥のような引き出しの多いチェストも同じ。心を込めて手入れされたものだけが持つ、内側から光るような独特の存在感が、店の調度に漂っていた。
 その空気感は、子どもの頃に入り浸った、父の仕事場を思い出させた。

「このたびは孫娘が本当にお世話になりまして」

 志満、と名乗った店の主は、物腰は柔らかいが芯のありそうなひとだ。希乃香さんの祖母だそうで、さすがというべきか、着物姿が堂にいっている。割烹着からのぞく茶色い着物は表面の光沢がうつくしく、落ち着いたピンクの衿が華やかさを添えていた。
 温かいおしぼりからは柑橘系のいい香りがしたし、メニューは和紙に手書きされていて、丁寧なもてなしに、気持ちがほぐれていく。

「お恥ずかしながら、いささか無鉄砲な孫でして。ええと……なんとお読みするのかしら」

 志満さんが名刺に顔を近づけたり遠ざけたりする。

「下の名前で構いません、みなさん宗生(むねお)と呼びます」

 ちょっとほっとしたように志満さんが微笑む。天竺桂と書いてたぶのきと読む苗字は珍しく、読めるひとには今まで会ったことがない。

「あのとき、宗生さんが通りかかってくださらなかったら、どうなっていたことやら。お電話いただいたときには驚きました」

「僕もびっくりしました」

 奥多摩の薄暗い山道、車のハイビームが薄汚れた女性を照らし、一瞬鼓動が止まったかと思った。希乃香さんには言えないが、真剣に、幽霊かと思ったのだ。それほど、なかなかインパクトのある姿だった。
 髪はほつれてところどころ頬に張りつき、顔も泥で薄汚れていた。おまけに、着物姿。古びた感じの赤い大きな花柄の着物はよれよれで、破れているところもあった。白く膨らんだビニール袋を引きずり、道路の真ん中で親指を立てる姿に、声にならない悲鳴が出た。

「わたしもびっくりしました! ちょっと道を外れただけで、スマホの電波は通じないし、車も通らないし。でも、おかげで、むかごはたっぷり採れましたけど」

 聞けば希乃香さんは、奥多摩でひとを捜しているうちに、むかごを見つけて、生活道路から離れてしまったらしい。ここにもあそこにもと採り進むうちに道を見失い、遭難しかけたのだそうだ。電波が入る場所を探して画面をつけたまま歩き回ったため、早々にスマホの電池も尽きたという。

「どこを歩いてるのかも、駅がどちらかもわからないうちに、すとんと日が暮れちゃいまして。遠くに車の光を見つけたときは、絶対に逃がしてなるものかと」

 むかごの蔓を命綱代わりに斜面を滑りおりて、道路に立ったという。それを聞いた志満さんは、ため息をついて、額に軽く手を当てていた。

「本当に、いいときに通りかかってくださって、ありがとうございました!」

 いいとき。愛想笑いを浮かべる奥で、胸がひきつれるように軋んだ。

「いいときだと思うんだよね、オクタマ」

「オクタマ、ですか」
 紅谷医師がなにを言っているのか、はじめはまるでわからなかった。そんな医学用語あったろうかと、必死に思いめぐらした。
 紅葉が、と言われてようやく、奥多摩だとわかった。それでも、なぜこの局面で奥多摩の話が飛び出してくるのか、理解に苦しんだ。

「写真、撮ってきてよ」

 紅谷医師は、PC画面から目を離さずに、そう言った。
 異動になります、と切り出した俺の顔をまじまじと見た紅谷医師の顔には、なんの感情も読み取れなかった。仔犬めいた童顔を気にしてポーカーフェイスを練習したと聞いたが、成果をあげたらしかった。
 製薬会社MRの異動は、珍しい話じゃない。あー、と間延びした声をあげて、切りそろえられた短髪を軽く一撫ですると、そこからもう俺の顔は見なかった。しばらく無言でPCの電子カルテを見つめ、奥多摩の話をしはじめた。
 いつもと同じ、診療時間後の外来診察室での面会は、いつもよりずっと短時間で終わった。
 なにかの冗談かと思いたかったが、違った。紅谷医師は、奥多摩の紅葉の写真を撮ってきてくれ、と繰り返した。きれいだから。見たいから、と。
 立場上、医師には逆らえない。俺自身は担当から外れても、会社としては薬を採用してくれる大事な取引相手だ。できる限りその要望には、応えなければならない。たとえそれが理不尽な要求であっても。
 これまでそうしたことがなかったのは、恵まれていただけなのだろう。
 海外の新しい論文が出たら知らせてくれ。気になる症例が見つかったら知らせてくれ。紅谷医師から頼まれるのはMRとしてやりがいを感じることばかりだったし、学会の準備を手伝ったり、こちらから講演会の講師をお願いすることもあった。うちの薬を採用した研究で、紅谷医師の業績も俺自身の営業成績もあがり、いい信頼関係を築いてきたはずだった。
 信頼が崩れるのは一瞬なのだと学んだ。
 仕事上のよきパートナーだと感じていたのは俺ばかりで、紅谷医師にとっては、出入り業者の一人に過ぎなかったわけだ。役立つ相手でなくなれば、こうも簡単に手のひらを返されるのかと、気持ちが冷えた。
 突然申し渡された異動も、その異動先も、腑に落ちないことばかりだったが、紅谷医師の態度の豹変が、一番こたえた。
 引継ぎ、引っ越し、異動、異動先での引継ぎと、怒涛のような日々にさらわれて、奥多摩を訪れたのは、三週間後の、先週末だった。

「お待たせしました、柚子胡椒唐揚げです。お好みで柚子胡椒をつけて召しあがれ」

 志満さんがこんもりと盛った唐揚げを出してくれた。うまそうな香りはもちろん、ぽっちり添えられた柚子胡椒の黄緑色も鮮やかで、食欲をそそる。
 たまらず口に放り込むと、じゅわっと肉汁があふれた。舌をかすかに刺激するのがきっと柚子胡椒だろう、思ったより辛みも香りも穏やかだ。次のひとくちは、箸の先で柚子胡椒をつけて楽しむ。さわやかな刺激と香りが、鶏の脂と一緒になって口の中を弾む。そこに希乃香さんが見繕ってくれたコクのある酒を含めば、快さに陶然とした。
 想像以上に、料理がうまい。遭難しかけてもむかごに目を輝かせるようなひとの店ならさぞうまいだろう、と思ったが、期待をはるかに上回る。
 お通しに出された自家製のぬか漬けや、里芋のポテトサラダもうまかった。ポテトサラダには味噌を隠し味に使うそうで、こんみりと深い味がした。炭火であぶった数種のきのこのグリルは、ぱらりと塩をしてスダチを絞ると、酒に最高に合い、香りに奥行きを与えてくれた。だしとショウガの香りが広がるいちょうの葉をかたどった寒天も、添えられた煎り銀杏の透明感ある緑もきれいで、もっちりとした歯応えも楽しい。
 そのうえ、希乃香さんが見立てる酒は、どの料理にも素晴らしく寄り添い、引き立ててくれた。ワインもよく合うのがあるとすすめられたが、なんとなく気後れして、断った。

「なんか、秋を食べてる感じがする」

「それは、メインディッシュを召しあがってから、言っていただきたいです」

 希乃香さんの不敵な笑顔の背後から、ふわっと、だしの香りがした。
 紺色の暖簾の奥から、志満さんが、ころんと丸い鍋を抱えてくる。一人用の土鍋だそうだ。蓋をあけると、むかごがたくさん、光る米の中にうずもれていた。

「今日はとってもいいものがあるんですよ」

 志満さんがカウンターから持ち上げたのは、ここへ来る途中で見た、自販機の中身だ。

「ゴボウですか」

「これはね、自然薯」

 志満さんは手早くすりおろしてだしでのばし、炒って香りの立ったごまを振りかけた。
 すすめられるままに、むかごごはんにかけて食べてみる。ほこほこしたむかごごはんに、とろろがからんで、すこぶるうまかった。

「めちゃくちゃうまいですね」

「合いますでしょう。言ってみれば、山の親子丼ですし」

「親子……?」

 むかごは、自然薯など山の芋にできる球状の芽のようなもので、種の他にそこからも山の芋が育つのだと、志満さんは話してくれた。小さくてもたっぷりと栄養を蓄えていて、このまま土に埋めれば、芽が伸び、芋ができるという。
 むかごも山の芋も、それ自体の味わいは淡白で、特徴的な味があるわけではない。その地味さが自分と父に重なるように思え、小さなため息が、むかごごはんの上を滑った。

「自然薯は、山薬といって、漢方薬にも使われます。体にもやさしいですけれど、緊張続きで心が疲れているときにも、やさしくバランスをとってくれますよ」

 仕事のことを詳しく話した覚えはないのだが、志満さんはにっこりと微笑んだ。
 俺はゆっくり、むかごごはんにとろろをかけて、堪能した。言われてみれば、滋味のある、やさしい味わいだ。時折、ちびちびなめるように盃を口に運ぶ。一人前を食べ終わる頃には、明日ももう少しがんばろうかと、ほのかに思えた。
 ゆっくり食事を終えると、終電間近になっていた。会計を頼んだものの、二人とも先日の礼だと頑として受け取らず、結局ごちそうになってしまった。
 扉を開けると、風の冷たさに酔いが少し醒めた。冴えた空には、名も知らぬ星が光る。
 背中に、希乃香さんの声が響いた。

「いってらっしゃい。明日もいいお日和になりますように」

3🍺🍺🍺

 外来診察が終わるぎりぎりの時間めがけて、大学病院外来を訪れた。
 受付スタッフに豊島医師への取次ぎを頼むが、返答はいつもと同じだ。

「お会いになれるか、わかりませんが」

 構いません、よろしくお願いします、と頭を下げ、待合室と受付を一望できる、壁際に立った。
 二階の外来フロアは、壁に沿うように診療科ごとの受付が設けられ、ゆるやかに区切られた中央のスペースが待合室になっている。俺の通う総合内科は、耳鼻科、小児科、歯科口腔外科、眼科などと同じエリアにある。ベンチに背を預ける患者たちはいつものように、雑誌やスマホを眺めたり、診察順を示す番号表示を見つめたりして、アナウンスが流れるたびに手元の受付番号を確かめている。
 いつもと少し違うのは、子どもが一人で座っていることくらいだ。

 前任者から引き継いで以来、担当する豊島医師には会えたためしがない。
 最初はもっとストレートに、会えません、と断られた。通ううちに、受付の表現は婉曲化したが、会えないことは変わらない。中堅どころとして活躍する豊島医師には、外来や病棟など臨床に加えて、研究もあるのだから、時間が限られるのは仕方ない。今のところその貴重な時間は、ほぼ同業他社のために割かれている。
 他社と共同研究を意欲的に行っているここに、うちの入り込む余地などほぼないのだ。なのに、営業目標はいつも「理想的」な数値ばかりで、少なくとも俺が入社してから達成されたことは一度もない。
 社内のMRの間ではひそかに、島流し、と呼ばれていたエリアだ。
 不屈の挑戦者精神、と言ったら聞こえもよいのだろうが、がんばっても達成できない目標に心が折れることも多くて、ここから社内の別部署に転属したひとはとても少ない。みんな、次の一歩を、社外に求めてしまうからだ。
 前任者もそうだった。
 医薬品情報を提供するMRに薬の価格決定権はないものの、医師が薬を採用する際に、自分たちの働きが決め手になることも少なくない。営業職に分類される以上、そこには数字がつきまとって、目標が達成できなければ評価も下がる。それに耐え切れなくなって、より活躍を望める、あるいは待遇のよい、別の場所を求める。
 前任者は、赴任後四か月で退職を決めた。医薬品販売業務受託機関から製薬会社に派遣されるコントラクトMRとして、郷里に戻るという。
 だってここ、数字、とれないもん。
 努力なんてしたって無駄だと、引継ぎの端々に不平不満が添えられた。親切のつもりなのか、引継ぎ資料の封筒には、転職エージェントの名刺まで一緒に入っていた。

 外来は今日も忙しそうだ。俺は鞄から論文を取り出し、読み始める。海外で発表されたばかりの論文で、豊島医師の研究分野に近かったものだ。いつもどおり会えないなら、せめてこれを受付に預けていくつもりで、準備してきた。
 今までも情報を預けたことはあるが、読まれたのか、そのままごみ箱に投じられたのかは知らない。時折、紅谷医師を思い出す。会えば必ず宗生くんと声をかけてくれたし、論文を預ければスタッフに礼を言づけてくれていた。
 今は、社名すら覚えてもらえているのか疑問だ。面会待ちのMRは常時数人が待機しているし、いつも呼ばれるのは決まったひとだけだ。
 比べても仕方がないことだ、ひとも、仕事も、それぞれに違う。
 それにいい関係なんて、仕事においては一時の幻想なのかもしれない。
 奥多摩の燃えるような紅葉を思い出すと、気持ちがしんと冷え込んだ。

 論文を三周した頃、洟をすすりあげる音に気づいた。
 一人でじっと座っていた男の子だ。
 ふっくらと丸みを帯びた顔つきや体格は、幼稚園、保育園くらいだろうか。足が床につかないらしく、宙にぶらぶらさせている。時折、袖口で洟を拭くものだから、右手のそこだけが濡れたようにてらてらと光っていた。
 おとなしく座っていたが、さっきよりも表情が険しくなったようだ。あたりに保護者などの姿は見えない。迷子だろうか。気になるものの、このご時世、下手に声でもかけたら不審者と間違われそうで、様子を見守った。
 深刻な顔になった、と思った矢先、両目から、ぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちた。
 彼はまたも、てらてらした袖口を目元にこすりつけようとしたので、思わず駆け寄って、ポケットティッシュを差し出した。
 子どもはびくっと肩を震わせた。
 しゃがんで目線を合わせると、彼はおそるおそるティッシュを受け取って、盛大な音を立てて、洟をかむ。指で示すと、目元にもティッシュの端を押しつけた。

「大丈夫?」

 子どもは、下唇をぎゅっと噛んで、俯いた。
 祖母と一緒に病院に来たこと、その祖母は、売店にいちご牛乳を探しに行ったことなどを、神妙な面持ちで話す。近くの自販機にはバナナ牛乳しかなかったと、非難めいたことも口にした。
 迷子でないことにほっとした。座っていたのは受付の真ん前で、きっと彼の祖母は受付スタッフの視線にもある程度期待して、ここに残していったのだと思われた。
 じゃあね、と立ちあがって元の場所に戻ろうとしたとき。男の子が口を開いた。

「父ちゃん、いま、手術してるんだ」

「……そうか。父ちゃん、がんばってんだな」

 それ以上、どう言葉をかけてよいのか、わからなかった。
 俺は再びしゃがみこんで、彼の話に耳を傾けた。

「おっきい手術なんだって。近くの病院じゃできないって言われて、こっちに来たの。マスイっていうのをして、手術するんだって。マスイって痛いんだって。でも、父ちゃん、強いから、泣かないって言ってた。だから、ぼくも泣いたらいけないんだ」

 いけないんだ、という割に、目からはまたぽろぽろ涙がこぼれ落ちる。ティッシュを渡し、えらいな、と声をかけたものの、泣く子の対処方法なんてまるでわからない。
 飴玉でもあればいいのだろうか。ポケットを探ってもミント菓子しか見つからない。これでは、かえって泣かれそうだ。鞄にも、論文と資料とスマホと財布ばかりで、子どものよろこびそうなものなど、なにもない。
 子どもの頃、まわりはどうしてくれたろう。遠い記憶をたぐってみる。

「昆虫は好き?」

 子どもが弾かれたように顔をあげ、大きく頷いた。
 俺は、深く息を吸い込んで、腹を決めた。
 情報は鮮度が命。大事な商売道具ではあるが、豊島医師には今日も会えるかどうかわからない。また次回持参すればいい。今は、小さな胸を痛めて父のために祈る彼を、少しでも、励ましたい。
 手元の論文を数枚引き抜き、折り目をつけて、破った。
 正方形にした紙を、折り紙の要領で、手の感覚を頼りに、形作っていく。できあがったものを小さな手のひらにのせると、彼は目を輝かせた。

「カブトムシ!」

 英語論文で作られたカブトムシを、子どもはきらきらした目で見つめた。小さなカブトムシは、子どもの手の上では、ずいぶんと大きく、存在感を増した。

「おじちゃん、ありがとう!」

「うん。お兄ちゃんにしといて。俺まだ二十代だから」

 子どもは、わかった、と何度も頷く。
 もう忘れてしまったかと思ったが、繰り返し作ってきた記憶は、手に刻まれていたらしい。子どもはカブトムシを飛ばすふりをしたり、ベンチを這わせたり、気に入ってくれたようだ。まだ涙の跡の残る頬には笑みが浮かび、ほっとした。

「夏にね、父ちゃんと、カブトムシ採りに行ったんだ」

「へえ、いいね、俺も昔、父親と行ったな。いっぱい採れた?」

「ううん、採れなかった。夜に木に昆虫ゼリーを塗っておいたのに、ぼく、お寝坊しちゃったの。起こしても全然起きなかったって。また来年って父ちゃんと約束した」

「叶うといいな、その約束」

 子ども相手とはいえ、無責任に気休めを言うのは気が引けた。
 子どもはこれまで黙っていた反動なのか、保育園の先生の口癖や、にんじん組に所属していること、同じ組の女子に結婚を申し込まれた話などをえんえんと話した。彼は将来戦隊ヒーローになる予定だが、結婚相手の女子も女性戦隊のリーダーになる予定なので、共働きだとかなんとか、わかったふうなことを言っていた。
 祖母らしきひとは、帰ってくると、面倒を見ていただいてと慌てて俺に頭を下げた。

「お父さまの手術だそうで。ご回復されるといいですね」

 俺の言葉に、彼女はくすくすと笑った。

「親知らずを抜いてるの。横に生えちゃったから、ここでないと抜けないんだって。息子ったら怖がりで、孫にも大げさに話したみたい。嫁は出勤前に、手術後食べられるものの長いリストを渡されて、げんなりしてた。麻酔が効きすぎて運転できないと困るって、“親知らず”なのに親の私まで駆り出されて。もう、家族中が大騒ぎ」

「おせんべいはしばらく食べられないの。魚肉ソーセージは大丈夫かもって」

 子どもが心配そうに言い添える。

「来年、カブトムシ、いっぱい採れるといいな」

 ふと顔をあげると、外来から出てきた豊島医師と目が合った。見るからに神経質そうな細面に銀縁眼鏡、顔色は青白く、今日もずいぶんとお疲れのようだ。会釈したが、彼は顔を背けてそのまま立ち去った。
 子どもに手を振り、俺は病院を後にした。

4🍺🍺🍺🍺

 俺も、あんなふうだったのだろうか。
 昆虫と聞いて輝いた子どもの目を思い出すと、口元がゆるむ。
 昆虫とりたい! と、父にすがりついたのがなつかしい。
 あのとき、父と友人の楽器職人は、顔を見合わせて笑いながら言った。

「コンチュウっていうのは、昆虫じゃないんだ」

 あれは小学校の低学年の頃だったろうか。
 浜松で木材加工業を営む父の町工場では、楽器の一部を作っていた。浜松は楽器のまち、音楽のまちともいわれ、日本唯一の楽器専門の公立博物館があり、高い技術を持つ小さな楽器工房が点在している。父は足しげく勉強会や研究会にも通っていて、その仲間がよく工場にも訪れた。
 こっちの木はオルガンに、あっちはスピーカーの表板になるんだぞ、と話す父は楽しそうだった。学校が終わると家から徒歩五分ほどの工場に出かけては、作業場の隅のテーブルに腰かけ、働くひとたちを眺めた。
 種類や見た目が同じでも、木は一つ一つ、違う。叩いて返ってくる音も、響き方も少しずつ異なっていた。
 ただの板だったものが、手をかけられ、それらが集まって、誰かに楽しみを届ける器、つまり楽器になる。木と木の間に音は響き、うねり、誰かの心に向かって放たれるのだ。
 父はいつも、自分たちは板を作ってるんじゃない、これからの音楽を作ってるんだ、と誇らしげに話した。
 あのときも、板切れを手にした楽器職人がひょっこり工場にやって来たのだった。
 鯨みたいに大きく口を開けて笑う彼は、丸太のような腕で俺の頭を撫でた。父と二人でかまぼこ板ほどの板切れを、ひっくり返したり、小突いて音を確かめたり、手に入れたばかりのおもちゃを見せ合うみたいに、うれしそうに話していた。

「コンチュウ、とろうと思って」

 楽器職人のその言葉に、俺は父に駆け寄って作業服を引き、僕も昆虫とりたい! とせがんだ。大人たちの笑い声を、不思議に思いながら、聞いていた。

「コンチュウっていうのは、昆虫じゃないんだ。魂の柱、と書くんだよ」

 ヴァイオリンやチェロなど弦楽器の一部だと、楽器職人は構造を紙に描いて教えてくれた。

「表板と裏板を、表から見えない部分でつないでるのが、魂柱。弦の振動を楽器全体に伝えて、音を響かせる」

 たぶん、ぽかんと口を開けてでもいたのだと思う。わからないかー、と楽器職人は豪快な笑い声をあげ、しゃがみこんで、俺と目を合わせながら、教えてくれた。

「楽器が、この工場だとしたら、表板は宗生の親父さん、裏板が職人さんたちだ。いい仕事しようっていうみんなの意気込みが魂柱で、その想いがつながり響き合って、いい作品ができあがる。わかるか?」

 それは子ども心にも、とても大切なもののように思えた。
 俺はすっかりうれしくなって、父に、オルガンの魂柱を見せてくれと頼んだのだった。
 父は、ちょっと困ったような顔をして、オルガンに魂柱はない、と言った。泣きそうな俺をなだめるのに、器用な手つきで、カブトムシやクワガタを折ってくれたのだった。
 魂柱がないせいではないだろうが、その後メーカーの事情でオルガン製作が打ち切られると、父はあれだけ力を入れていた楽器製造から手を引いた。


「宗生も同じでいい?」

 央樹(ひろき)さんが、食券販売機に札を押し入れながら、振り返った。

「あ、自分で」

「いいって、たまには。俺から誘ったし」

 濃厚つけ麺味玉のせネギ増しの食券二枚を店員に渡し、奥のテーブル席につく。よく来るという央樹さんは、麺の茹で方にも慣れた様子で注文をつけていた。
 営業所に車を停めたところで、遅めの昼食に出かける央樹さんに出くわしたのだった。まだなら一緒にどうかと誘われ、歩いて五分ほどのラーメン屋に来た。濃厚とうたうだけあって、魚介系豚骨スープの香りが、熱気とともに店内に渦巻いている。

「どう、慣れた?」

「全然会ってもらえない先生がいるんですよ。気難しくて大変って引継ぎでも聞いたんですけど。どうしたらいいでしょうね」

 同じエリアで開業医を担当する央樹さんは、三つ先輩だ。一年前からここにいるそうだが、競合他社が根強くて、売上目標はやはり厳しいらしい。

「俺はよく、曜日と時間を合わせて、定期訪問してるよ。覚えてもらいやすい」

 参考にしますと答えたものの、今の訪問スタイルとあまり変わらない。数日おきに午前の外来診察終了のタイミングで通っている。

「宗生、熱心だよな。それが伝わるといいけど。そうなれば俺もちょっと助かるし」

 大学病院や地域基幹病院などに薬が採用されると、信頼性が増し、開業医たちも使ってくれるようになる。だからこそ、ある分野の権威にあたる医師たちや、エリア内で影響力のある医師のもとには、各社のMRや営業担当がずらりと並んで、なんとか自社の薬を採用してもらえるようにと熾烈な競争を重ねる。

「どうやったら、売上目標に手が届くでしょうね」

 無理無理、と央樹さんは手を横に振る。ハナから諦めているらしい。それでも食い下がると、宗生は真面目だね、前向きっていうか前のめりだね、と天井を仰いだ。

「俺、売上よりも、まずはいい関係を築くことが大事だと思う。数字はあとからついてくればいいと思ってるんだよな。まずは、いい関係。ここじゃ至難の業だけど」

 紅谷医師を思い出し、ため息がこぼれた。
 奥多摩の写真を送らなければと思うが、気後れがして、まだ送っていない。

「まずはニーズを的確に把握して、必要な情報を迅速に届ける。そして、相手の懐に入る。製品の採用は、いい信頼関係が築けてから。仕事って結局、ひととひとだから」

 そういうことばっか言うから、甘いって睨まれんだけど、と央樹さんは小さくため息をつく。

「けど、自社製品しかすすめないってルールも、いまどきどうかと思わない? 昔は接待で決まったこともあったらしいけど。変わってくのにね、世の中って」

 しばらく前の規制強化で過度な接待が禁止され、接待の話はあまり聞かなくなった。今となっては都市伝説みたいなものだが、かつては訪問のたびの高級弁当はかわいい方で、院内旅行や忘年会の費用まで製薬会社が受け持ったという噂も聞いた。どこまで本当かわからないが、すごい時代だったんだろうと思う。
 だから、上と方針が合わないこともあるよ、とさらりと央樹さんは言った。

「転職……とか、考えたことは?」

 前任者から引き継がれた、転職エージェントの名刺は、なんとなく捨てられずにいる。
 ここ来るとみんな考えるよね、と央樹さんは苦笑する。

「俺は出てけって言われるまではいるかな。ここ家から通いやすいし、うまいラーメン屋もあるし。まだ一人くらいだけど、いい関係築けつつある先生もいる」

 つけ麺が運ばれてきた。
 混濁した茶色のつけ汁の表面に、焼き目のついたぶ厚いチャーシューと、煮卵の頭がのぞく。央樹さんが固めのアツ盛りと頼んだ麺は湯気をあげていた。麺は通常茹でてから冷水でしめるらしいが、熱々のまま盛ってもらうと、つけ汁が最後まで冷めずにおいしく食べられるそうだ。とろみのあるつけ汁が手打ち太麺によくからみ、麺をたぐる手が止まらなくなった。
 普段の食事の話から、近頃は並木台の店にたびたび通っていると話すと、央樹さんは顔をほころばせた。並木台の隣の、月見が岡に住んでいるのだという。

「並木台南口商店街、雰囲気いいだろ? 俺の彼女もあそこで花屋やってるんだ」

「商店街じゃなく、住宅地にある店です。最初はだいぶ迷いました。古い洋館で、うしろむき夕食店ていう店で」

「聞いたことないな。自然保護園の方?」

「たぶん反対側です。いちょう並木側でした」

 あっちに店なんてあったかなと首を傾げて、央樹さんは勢いよく麺を吸い込む。

「次に並木台行くときは、商店街も行ってみるといいよ。老舗の洋食屋がおすすめ、オクラ座って店。俺、高校の頃から通ってる」

 そういえば、と央樹さんが、箸を止めた。

「昔、変なことがあって」

 その洋食屋で、見知らぬひとから、食事をごちそうになったのだそうだ。

「変ていうより、いい話じゃないですか?」

「おごってくれたのが変なおっさんだったんだよ。俺らまだ半袖着てたのに、茶色い長袖の冬物ジャンパー着て、ハンチング帽にサングラスにマスク。超あやしい格好で。不審者かなって、ちょっと警戒してたんだよ」

 食事を終えて、央樹さんたちより先に店を出たそのひとは、なぜだか知らないが、店内の学生たちの食事代を全部、支払ってくれていたという。

「一応礼を言おうと思って、店にいた奴と追いかけたんだけど、見失って」

 そのとき一緒に追いかけたのが、今の恋人なのだそうだ。その出来事をきっかけに、親しく話すようになったのだと、央樹さんは、照れくさそうに後頭部を掻いた。近々結婚を申し込むつもりらしい。

「今もジャンパーにハンチング帽のおっさん見かけると、あのひとかなって思う」

「そういう格好のひと割といません? うちの父親もですよ」

 ある年代におけるおしゃれの公式のひとつなのだろうか。父も、どこへ出かけるにも、油揚げみたいな色の冬物のジャンパーに、ハンチング帽を被っている。オルガンを作らなくなってから、記憶の中の父はいつも、あのジャンパーと濃茶のハンチング帽だ。
 有名フランス料理店に招待したときですら、その姿で現れて、驚いた。紅谷医師とのタッグのおかげで営業成績が伸び、報奨金が出て、たまにはうまいものをごちそうしようと、ホテルをとって呼び出した。
 なんにでも感心する母は、どの料理にも浮かれていたものの、父はどの料理もたいしてよろこばず、付け合わせのミニグラタンだけをうまいと言った。そればかりか、ワゴンから自ら選んだウォッシュチーズにも、においがきついと文句をつけたりして、ひどく恥ずかしい思いもした。ホテルまで送る途中、父は一人で鄙びた蕎麦屋に消えていった。
 子どもの頃より小さく感じる父のその背から、俺はそっと目を逸らしたのだった。

「ちゃんと大事にしてる? 親父さんのこと」

 央樹さんはきっと何気なくたずねたのだろう。でも、俺は、心の内を見透かされたような気がした。
 大事にしとけよ、と央樹さんはしみじみ言い、割スープと替え玉を追加した。

5🍺🍺🍺🍺🍺

 父の、忘れられない背中がある。
 工場の前の路地で、作業服姿の父は深く頭を下げ、そのまましばらく動かなかった。
 向き合ったスーツ姿のひとも、どこか苦しそうな面持ちで、何度も頭を下げながら、去っていった。父は彼の姿が角を曲がっても、見送り続けていた。
 見てはいけなかった、と思った。
 学校の図工に使う木切れをもらおうと工場に向かい、角を曲がったところでその場面に出くわした。慌てて踵を返して、自宅へ走った。胸がずっと騒いでいた。
 不安は的中した。取引先の楽器メーカーが新しい工場を建設し、オルガンの製造を完全に社内化する、という話だったらしい。父はこれまでの仕事が評価されて、新工場に誘われたそうだ。なのに父は、職人さんたちを新工場へ斡旋すると町工場を引き払い、楽器製造からすっぱり手を引いて、一人でオルガンのリペア中心の小さな工房を立ちあげた。仕事はたいしてなかった。
 新工場で働く職人さんたちは何度か父を誘いに来た。それでも父は頑として聞かず、不安定な仕事を黙々と続けた。母の働きで食いつないだ時期もあった。これからの音楽を作っていると話してた頃に比べて、口数も減った父に、あのまま新工場に勤めればよかったのに、と何度も思った。
 東京の大学を志望したのは、気詰まりな実家から離れたかったからだ。生活費はバイトを掛け持ちして捻出し、切り詰めて暮らした。少しでも目算を誤ると、バイト代が出るまでの数日間を、牛乳と小麦粉とバターで過ごした。スーパーのレジ打ちバイトのおかげで、見切り品の乳製品は手に入りやすかった。牛乳で溶いた小麦粉をバターで焼き、醤油や砂糖、マヨネーズ、ソースをかけて食べた。ねちねちと粘っこい生地はバターのおかげで腹にある程度たまったが、うまいと思ったことはあまりない。
 しっかり給料がもらえて、実力で昇給や報奨金が見込める仕事を探し、今の職に就いた。
 五年の月日が、またたく間に過ぎた。うまくいっている間は天職だとさえ思った。
 なのに、うまくいかない状況の連鎖に、どんどん気持ちはあせり、落ち込み、意気込みも消えかかってる。
 奥多摩の写真をようやく紅谷医師に送ったが、返信はなかった。
 思いの外がっかりして、なにを期待していたのだろうと自嘲した。

 エリア会議が長引いていつもの時間に間に合わず、午後の診察終了をめがけて大学病院外来を訪れた。豊島医師への取次ぎを頼むと、いつもの時間に来なかったから、今日は来ないのかと思っていた、と受付スタッフが話しかけてきた。央樹さんの言うように、印象づいていたらしい。
 しばらくして、お会いになるそうです、と告げられ、一瞬耳を疑った。
 タイミングよく、他社MRの姿がなかったからなのか、単なる気まぐれなのかはわからないが、引継ぎ挨拶以来はじめて、診察室に通された。

「あまり、時間はとれませんが」

 豊島医師は眼鏡を指先で押しあげながら、俺に向き合った。今日も顔は青白く、白衣を着ていなければ、待合室の方が似合いそうだった。

「この間、待合室にはいたのに、途中でいなくなりましたね」

 いつもアポイントに応じないのに、俺を気にかけていたことに驚く。
 まさかカブトムシを作ったとも言えず、忘れ物に気づきましてと言い訳すると、豊島医師は先日受付に預けた英語論文を、引き出しから取り出した。

「これのことですか? あなたよりも前に、別のところも持ってきましたよ」

「そうでしたか」

 やはり後れをとったらしい。情報は、鮮度が命だ。薬を採用してもらうために、どこも必死に、豊島医師との関係構築を望んでいる。
 しかし、ならばなぜ俺は、今日ここに呼ばれたのだろう。
 不思議に思っていると、豊島医師は論文をめくり、指で示した。
 重要と思われる個所につけた、いくつかの付箋だった。渡すのが遅くなった分、せめて豊島医師が見たときに、効率的に情報収集できればと、貼りつけていた。

「こういうのは助かりました。またお願いしたいですね」

「ありがとうございます!」

 薬を使うとは約束できませんが、と豊島医師にはきっちり釘を刺されたが、わずかでも、信頼を得られたかと思うと、うれしくなった。
 付箋に込めた思いを受け取ってもらえたのだと思った。このささやかな関わりの積み重ねで、いつか信頼関係が築けるのかもしれない。互いの領分で手をとりあえるような、よい関係が。
 俺は半ば浮かれて、央樹さんの言葉を思い出した。
 相手のニーズを把握して、懐に入る。それは、まさに今だと思った。

「他にも気になるものがあればお持ちします。このほかの、先生のご関心はなんでしょう?」

 しゅっと目を細め、豊島医師は腕と足を組んだ。

「……それを、聞きますか」

 声のトーンはぐっと下がっている。俺は言葉を選んで、できるだけ丁寧に、答えた。

「先生のニーズに合う、情報やご提案をお持ちしたいと思いまして」

 かかとを小刻みに上下させて、豊島医師は黙りこむ。地雷を踏んだかと気づいたときには、豊島医師の機嫌の悪さはピークに達していて、俺と目を合わせようともしなかった。

「そういうのは、そのときどきで変わっていくものです。言葉ありきで決めるのは感心しませんね。先入観を生みます。それにとらわれて本質を見失えば、致命的な事故につながることもあります。ささいな変化に感覚を研ぎ澄ませて、常に問い続け、本質とその先を見つめようと目を凝らす、私たちの仕事はそういう仕事です。あなたのその付箋に、同じ気骨を感じたと思いましたが、買い被りだったかもしれませんね」

 申し訳ありません、と何度口にしただろう。
 気難しい、と前任者から引き継がれたことを、今更ながら痛感した。面会できれば関係を深めていけると思っていたが、大きな間違いだったようだ。
 世の中にはいろいろな考えのひとがいる。考え方も価値観も異なるひとびとの中で、同じ方向を向こうとするのは、とても難しいことのように思える。

「簡単すぎませんか。言われたことだけをやればいいというのは」

 吐き捨てるように、豊島医師が言う。

「申し訳ありませんが、そこに想像力を働かせる余地のない、つまり自分の仕事に誇りもプライドも持たないひとと手を組むのは、性分に合いません。いい仕事ができるとは思えませんので。そういう社風なのですか? あなたの前のひともそうでした」

 すっかり機嫌を損ねた豊島医師は、次があるので、と診察室から出て行ってしまった。
 しばらく立ちあがることができなかった。
 うまくいかない。
 頭の中を、行き場を失った風が大暴れしているようだった。

 車に戻っても、気持ちを切り替えるのは難しかった。
 このまま営業所に戻る気分にもなれず、エンジンをかけた。ナビの地図を見るともなく動かし、流れるラジオに耳を傾ける。ハスキーで落ち着いた女性の声が、なんだかありがたかった。こんなときにテンションの高い声は、少し苦しい。ボリュームを少しあげると、彼女はリスナーからのリクエストに応じていた。
 俳優・松嶋孝蔵のファンらしいリスナーが、彼の一番好きな曲、「君といつまでも」をリクエストした。パーソナリティは彼が以前番組ゲストに来て、揚げ物の話をしたエピソードを紹介し、並木台の商業施設のランチ情報もさりげなく伝えた。
 言われたことだけじゃなく、その先を見つめて、付け加える。豊島医師が言った、いい仕事を、このひともしているのだと感じた。
 どんな仕事でも同じだ。目の前の仕事に、ほんの少しでも心が入り込むと、仕事自体が輝きだす。そういう仕事には、他の誰かを惹きつける魅力が宿るものだ。それに感動した誰かの手で、別のいい仕事が生まれ、よろこびが連鎖していく。
 でも、そのかけらすら、自分にはないと感じた。
 壮大なオーケストラの響きに、耳慣れたメロディが流れ出す。
 あてどもなく動かしていた指先が、並木台、の文字をとらえた。
 あの店の、むかごごはんを思い出した。むかごととろろの、あの炊き立てのぬくもりを思って、冷たい指先を少しさする。格別うまいものというわけではないのに、なんだか無性に、あの小さく、ほくほくしたものに触れたかった。
 俺はナビを現在地に戻すと、アクセルを踏んだ。

6🍺🍺🍺🍺🍺🍺

「お帰りなさい!」

 希乃香さんの明るい声と、紫と紅の大きな蝶が描かれた派手な着物姿に、ようやく辿り着いたと肩の力が抜けた。車を営業所に置くひと手間がじれったかった。
 通されたカウンター席につくなり、早口に、志満さんにたずねた。

「むかごありますか」

 いい香りのするおしぼりを手渡してくれながら、志満さんは、山の芋ならあるのですけれど、と言い淀む。そうして、濃紺の着物の胸に手をあてると、俺の隣に座る中年男に声をかけた。

「禅ちゃん、今日、むかご持ってないかしら」

 いや、ないだろうと心の中で突っ込む。ペンみたいに誰もが気軽に持っているようなものじゃない。案の定、禅ちゃんと呼ばれた男は、毛羽立ったネルシャツの腕を組み、ないなあ、と呟いた。四十がらみだろうか。目鼻立ちがくっきり大きく、もみあげが顎に届き、テンガロンハットでも被ればよく似合いそうだ。ボトルワインを手にするそのひとを、ぬか漬けを盛り付けつつ、志満さんが紹介してくれた。

「こちら、腕利きの八百屋さんなんですよ。八百禅の禅次郎さん」

 聞けば、最初にここを訪れたときに見つけた自動販売機も禅次郎さんのものだという。

「あの自販機、大丈夫なんですか? 前に見たときは鍵もかかってなくて、商品が飛び出てましたよ。お金を入れずに持っていかれたりしませんか」

 普段はきちんと鍵はかかっているらしい。だけど、ロッカーの扉が閉まらないときなどは、ああして開け放ったまま、売っているという。

「あるよ、そういうことも。だけど、ああいう売り方でも、きちんとお金を支払ってくれるようなひとと、俺は付き合いたいって決めてる。なんかいいでしょ? そういう、信じ合ってる関係って。ありがたいことにそういうお客さんの方がずっと多いしね。それにさ、そのまま持っていくひとにだってやむにやまれぬ事情があるかもしれないから。ま、中には悪いやつもいるのかもしれないけど」

「お金って、ありがとう券ですよね」

 升酒を運んできた希乃香さんが、すっと会話に加わった。
 合わせて出されたお通しはれんこんステーキで、焦がしバター醤油の香りに耐え切れず、口いっぱいに頬張る。飲み口のいい淡麗な酒が、しゃっきりした食感に、旧知の友みたいに馴染んだ。

「作ってくれてありがとう。働いてくれてありがとう。つい見落としがちですけど、金額の大小にかかわらず、お金のやりとりってありがとうを手渡すことだと思うんです。お支払いするときも、ありがとうを手渡してるって思うと、こちらもうれしくなりますし。だから禅ちゃんの自販機に鍵がなくても、みんなありがとうを置いていくのでは?」

「そんなふうに考えたことなかったです」

「ほんと。さすが転職の女王。含蓄がある」

 それ本心では全然褒めてませんね、と希乃香さんが禅次郎さんを軽く睨む。
 聞けば希乃香さんは、学習塾、デパ地下の弁当屋、弱小雑誌社、着物リサイクルショップとさまざまな職を経験してきたという。禅次郎さんはたくましさに感心した。

「むかごみたいだよ。畑違いって言葉があるけど、畑なんて違ったって発育条件さえ合えば、マンションのベランダでも、自然保護園の植え込みでも、やつらはすくすく育つんだよ」

「希乃香は行った先々を潰してますけどね」

 涼しい顔で志満さんが突っ込み、潰してるんじゃなくたまたま潰れたのだと希乃香さんが必死に反論した。

「ここを潰さないためにも、小島孝一さんを捜し当てないと」

 希乃香さんは窺うような視線を向けたが、志満さんは気づいていないのか、暖簾の向こうへ姿を消した。
 奥多摩へはそのひとを捜しに訪れたそうだ。希乃香さんの祖父だそうだが、奥多摩出身でかつて化学を学んでいた学生、ということ以外は、なにもわからないらしい。
 しばらくして戻ってきた志満さんは、小皿を俺の目の前に置いた。
 一口大のかき揚げのようだった。サイコロ状の白っぽい具材が、薄く色づいた衣の下にのぞく。そこに志満さんは、白いソースと三色の塩を添えた。

「山の芋です。小さく切って揚げてみました。食感だけでも、むかごに近くなればと思って。ソースはおだしでのばしたとろろです」

 むかごに近づけようという心くばりが、ありがたい。いい仕事とは、こういうことを言うのだろう。三色の塩は、カレー塩、わさび塩、梅塩だそうだ。

「むかごと山の芋なら親と子ですけれど、こちらはどちらも大人と大人ですから。子どもが育って一人前になって、親と向き合うような感じかしら」

 親と向き合う、という言葉が、耳に残った。
 つけすぎたわさび塩が、鼻の奥をツンと刺激して、目に涙がうっすらにじんだ。
 顔を隠すように、メニューに顔をうずめる。書かれた料理はどれもうまそうで、手書きの文字にも込められたものがあるように思えて、心がまた、静かに冷えていく。
 ――俺には、なんにもない。だからきっと、うまくいかない。
 メニューの端に小さく添えられた、料理おみくじあります、の一言に目が吸い寄せられた。

 運ばれてきたのは、三方に積みあげられた小山のような、おみくじだった。付箋ほどの大きさの紙片を一枚抜き取ると、周囲がすこし雪崩れた。
 書かれていたのは、料理の名前だけでなく、標語めいた言葉だった。

「『商いよろし、マカロニグラタン』?」

 なんの皮肉だろう。会社からは業績を評価されずに島流しにあい、信頼していた仕事相手からは手のひらを返され、新しい仕事相手には拒まれる。

「なんにも、よろしくなんか、ないんだけどね」

 自分でもびっくりするくらいこわばった声を、希乃香さんがやわらかく拾い上げた。

「今がよくないのなら、これからですよ。信じるって、大切なことです。宗生さんのお仕事、きっとここからよくなります。わたしは信じてます」

 まっすぐな言葉は強くて、ありがたいが、真正面から受け止めるのは、少し苦しい。そう信じられるだけのなにかが、俺にはないように感じる。社交辞令と受け流せばよいのに、信じてみたい気持ちもどこかに残って、心が揺れた。
 結局どう答えたものか迷って、返答のかわりに、ひやおろしを注文した。希乃香さんは、なにごともなかったかのように、マカロニグラタンにもよく合う酒だと目尻を下げ、ぬる燗をすすめてくれた。
 ほどなく、暖簾の奥から焼けたチーズのいいにおいが漂ってきた。

「熱いので、お気をつけて」

 耐熱皿に盛られたグラタンは、こんがりと焼き色がつき、まだふつふつとあぶくをはじけさせていた。スプーンを差しいれると、白いソースがもったりと寄り添ってくる。
 唇に触れ、あち、と思わず声が出た。ふうふう息を吹きかけて、口に入れる。ソースがとろけるように広がった。濃厚なチーズが舌にからみつく熱さ。ざくざくしたパン粉が頬の内側をかすめる感触。ぬる燗をひとくち含めば、すべてが渾然一体となって、体の中に溶けていく。
 うまそうだなあ、と禅次郎さんがのぞき込む。

「うまいです、めちゃくちゃ」

 それはよかった、と志満さんが穏やかに微笑んだ。

「シンプルなお料理ですけどもね、だからこそ、ひとつひとつにきちんと向き合わないといけないお品なの」

 ほめていただけてうれしいわ、という志満さんの言葉に、あの日の父を思い出していた。

 フランス料理店で父は、マカロニグラタンをひたすらほめそやした。
 付け合わせに添えられた小さなココットは、金目鯛のコンフィや仔羊の背肉のロティなどの主役に比べればもちろん、オマール・ブルーや黒トリュフのパイ包みなど、他の付け合わせに比べても、ずいぶんと地味だった。
 家庭料理とは違って、マカロニの形もよくある筒状じゃなくこじゃれていたし、ソースもどことなく上品に思えた。使っているのが高級な材料だからだろう、としか俺は思わなかったが、父は目尻を下げて、ココットの縁にこびりついた焦げまで、器用にすくいとって食べていた。


「ソースが大切なんですよ」

 志満さんの言葉に、白いソースを口へ運ぶ。うまいもの、としか俺にはわからない。

「バターと小麦粉を、一対一で加熱しながら練るんです。多くても少なくてもいけません。そこに熱した牛乳を徐々に加えて、濾すんですよ」

 挙げられた三つの材料は、かつて俺が、うまいとも思わずに、ひたすら腹を膨らませるために食べていたのと、同じだった。
 同じ材料でも、かける手で、こうも違うのかと、愕然とした。
 できあがったソースは、ベシャメルソースと呼ばれ、フランス料理の基本のソースのひとつで、他のソースのベースにもなるのだという。

「華やかな材料勝負のお料理と違って、こうしたシンプルなものほど、ごまかしがききませんから。向き合うこちらの心構えも、タイミングも大切。料理人の魂を試されているような気がします」

「魂、ですか」

 魂柱の話を、思い出す。それがつながり合い、響き合うと。
 ちょっと大げさだったかしら、と志満さんは手を口元にあてて笑った。

「気概とか、矜持でしょうか。そういう思いって、食べる方にも伝わるような気が、アタシはするんですよ」

 あのとき、父も、そう思っていたのだろうか。
 言われてみれば、地味な付け合わせだったが、華やかな料理の片隅にあっても、あのグラタンには存在感があった。志満さんの言う、料理人の気概や矜持みたいなものが、こもっていたからなのだろうか。
 父は、それを敏感に、感じ取っていたのではないだろうか。
 そして俺は、それを見ようとしてこなかったのかもしれない。向き合うことも、話すことも、どこか避けてきた。父に勝手な印象を押し付けて、父の思いを知ろうとしてこなかった。
 あのとき父は、なぜ困難に思える道を選んだのだろう。
あの深々と頭を下げていた日から、今の俺以上に、悩んだろうに。
 つくづく俺には、想像力が足らない。

7🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

「俺には、なんにも、ないかもしれないです。そういう気骨みたいなもの」

 ため息とともに吐き出すと、志満さんは、俺の目の高さに、マカロニをつまみあげた。

「仮にそうだとしても、なんにもないっていうのは、すごいことですよ。マカロニの真ん中の空洞をごらんなさいな、わざわざ手間暇かけて、なんにもない部分を作ってるんですよ」

 どうしてだと思います? といたずらっぽい笑みを浮かべて、たずねる。

「熱伝導の効率をよくするためじゃないですか、茹でる時間を短縮するとか」

「それもあるでしょうけど、この空洞に、おいしい空気が入るからだと、アタシは思いますよ」

「空気ですか?」

 マカロニを半分に噛みちぎってみると、そこには空洞があった。パスタの食感は、空洞があることで、もちもちとほどよい弾力を保つ。おいしい空気が含まれると言われればたしかに、そんな気がした。
 もっとも、と志満さんは付け加える。

「なんにもないって思っているのは、ご本人ばかりかもしれませんけれどもね。今まで宗生さんが歩いてきた日々には、おいしい空気にあたることもあったのではないかしら。わかりにくかったり、言葉にしていなかっただけで」

「……そうかもしれません」

 ちびちびとなめるように日本酒を口に含み、ふと、それが父の癖だと気づいた。
 言葉や態度にしていなくても、父から受け継いだ気概みたいなものが、俺にもあるのだとしたら。
 その先に、小さな光のようなものを感じた。
 空気はゆらぎ、うつろう。ずっと同じ状態でそこにあり続けるわけではない。だけど、おいしい空気にあたるような、信頼を交わし合った瞬間は、たしかにあった。今日も。そして、かつて紅谷医師と関わってきたときも。
 ゆっくりとマカロニグラタンを口に運ぶ。まろやかなソースは酒の香りにとけこんで、さらりと消えていく。マカロニの中のおいしい空気を、ひとくちずつ噛みしめる。
 少し冷めたグラタンは、やさしい味わいがした。


「よかったらこっちも少しどう?」

 禅次郎さんが、白ワインのボトルを持ち上げてみせた。
 ぶどうの香りや風味がはっきりとしたワインは、マカロニグラタンによく調和する。控えめすぎず、でしゃばりすぎず、適度な距離感で料理の味わいを引き出してくれる。甘みと酸味の波が何度でもさわやかに口の中を洗い流してくれ、次のひとくちを改めておいしく感じさせてくれた。
 食べているのは同じ料理なのに、合わせる酒で、味の印象がぐっと変わるのに驚いた。

「合いますね、うまいです、すごく」

 禅次郎さんは、顔をくしゃくしゃにして笑う。ワインボトルはすでに、空になろうとしていた。酔っているのか、頬が赤く上気して、たいそう機嫌がいい。

「志満さん、さっき言ってたよね。シンプルなものほど作り手の思いがこもるって。俺、お酒って全部、そうだと思うんだよ。ワインはぶどう、ビールは麦芽とホップと酵母と水、日本酒は米と米麹と水でしょ。材料はそんなに大きく変わらないのに、これだけたくさんお酒の種類があるっていうのは、すごいことだよ。それだけ、工夫と想像力を重ねて、向き合ってきたひとたちがいるってことでしょ。うれしくならない? そうやって、ものすごく、手と心をかけてがんばってる誰かがいるって。この世の中も悪いところじゃないって思えるじゃない。自分もがんばろうってさ」

 禅次郎さんは、上機嫌で乾杯をしたかと思うと、カウンターに突っ伏して、気持ちよさそうな寝息をたてはじめた。あらあら、と言いながら志満さんはグラスやワインボトルをそっとよけ、希乃香さんがブランケットを持ってきて、肩にかける。

「禅ちゃん、きっとうれしかったんですね、宗生さんとお話しできて」

「俺、なにもしてないと思うけど」

「自販機のこと、持ち逃げされないか気にしてくれてましたよ。心配してくれるひとがいるって、しあわせなことですから」

「それを言ったら、希乃香さんの、ありがとう券って話は衝撃」

「そうですか? お金は大切ですけど、そのためだけに働くわけじゃないでしょう?」

 ふっと、父の顔が思い浮かんだ。
 スマホが震え、メール画面を開くと、紅谷医師からの短い返信が届いていた。
 遅くなりました。写真ありがとう。なにかあったら声かけて。
 希乃香さんが、思い出したように呟く。

「そういえばマカロニって、台湾では、心が通じる粉と書いて、通心粉っていうそうですよ」

 うまくいきますよ、お仕事、と希乃香さんが微笑みかける。
 今度はその言葉を、しっかりと、受け止めたいと思った。
 いってらっしゃい、の声に背中を押されて店を出るなり、央樹さんの連絡先を開いた。

8🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 大学病院の駐車場はいつもより空いていた。
 限られた診療科のみが開く土曜日の外来は、待合室のひとびともまばらで、いつもより広く見えた。総合内科受付に顔を出すと、受付スタッフの方から声をかけてくれた。

「お約束ですね」

「先生のご準備が整いましたらお声がけください」

 そうしていつもの壁際に移動し、進行表を取り出した。
 ほとんどそらで言えるのだが、段取りを眺めていると、気忙しさが多少なりとも和らぐ。今日までの毎日は、目まぐるしく飛び去った。
 豊島医師の言う「想像力」をフルに働かせ、央樹さんの協力を得て、シンポジウムの開催にこぎつけた。一か月足らずの短期間に、会場を押さえ、登壇者に依頼し、アンケートを実施して議題を絞り込み、参加者を募った。
 開業医、大学病院・地域基幹病院の両方から、地域の医療連携について議論できる場を設けようと一歩踏み出すと、追い風が吹くように、物事が動きはじめた。地域の重鎮開業医がパネリストを引き受けてくれたり、老舗コンベンション施設の一室を、奇跡的に確保できたり。極めつけは、豊島医師だった。企画書を受付に預けた翌日、面会してもらえ、パネリスト登壇を約束してくれた。
 診療時間は間もなく終わる。
 豊島医師の診察が終わり次第、車で会場までお連れする。段取りはもう何度も振り返り、渋滞に備えた車の回避ルートもいくつか頭に叩き込んだ。
あとは、実行のみだ。

「あ! カブトムシのおじちゃん!」

 はしゃいだ声に顔をあげると、この間の子どもが、父親らしきひとの手を引いて、駆け寄ってきた。父親は丁寧にカブトムシの礼を言い、病院の予約のたびに子どもがついてきたがると話した。

「あなたにまた会ったら、クワガタを作ってもらいたいと言って」

 子どものまなざしが、やっぱりまぶしい。期待に応えたいが、持っているのは今日の進行表しかない。
 ――もう、何度も読んだし。頭にも入っているし。
 自分に言い聞かせ、資料を破り、クワガタを作り始めると、受付スタッフが近寄ってきた。一緒に見てもいいですか、と言う彼女は、カブトムシのときも見ていて、興味を持ったのだという。

「今度私たちにも教えてもらえませんか? できれば他のスタッフにも声をかけたいんです。教わりたいひと、いると思います。総合受付とか、小児科、それにデイケアのスタッフとかも」

 いろいろなひとが来るから、と。子どもと並んで座り、俺の手元をのぞきこむ。
 半分ほど作ったところで、受付スタッフの院内PHSが振動した。

「豊島先生からです」

 差し出されたPHSを耳に当てるなり、豊島医師の荒い息遣いが聞こえた。

「……わかりました。お気をつけて」

 なるべく穏やかに答えて、電話を切った。
 にわかに忙しくなった外来へ、PHSを手にスタッフが小走りに戻っていく。
 頭の中で、あせりを含んだ豊島医師の声が繰り返し、思い出された。
 《申し訳ない。行けなくなりました》
 豊島医師は急患を告げ、スタッフの手が足らないこと、今、対応できるのが自分しかいないことを、ひといきに話した。息が荒いのは、移動中だからのようだった。
 医師が患者を優先するのは当然のことだ。
 そこに異論はない。しかし――。空いてしまった穴を、どうやって埋めたものか。途方にくれた。
 子どもの父親は、作りかけのクワガタを子どもの手から取りあげ、進行表に目を通した。

「今日これからですよね、この催し。もしかして、なにかトラブルですか?」

「登壇者が一人、来られなくなって」

「私、なにか、お役に立てませんか」

「もしかして医療関係者の方ですか?」

 すがるような思いで父親を見ると、彼は肩をすくめて首を振った。

「ジャズミュージシャンです」

 気持ちは、ありがたい。しかし、それでは、豊島医師の穴は埋められない。
 俺がなにを言いたいのか、察したのだろう。

「会場のこの施設、ロビーに古いオルガンが飾ってあるはずなんですよ。少し前に修復してましたから。つまり、たとえば別の誰かがいらっしゃるまで、少しの間を持たせることは、私にもできるんじゃないかと思うんです」

 父親は、カブトムシの礼だと言い、息子とよく似たきらきらした瞳で、俺を見つめた。
 別の誰か。思い浮かぶのは、ただ一人しかいなかった。
 たった二コールで、紅谷医師は電話に出た。

《久しぶり》

「紅谷先生、いま病院ですか」

《いや、駒込。うまいカツサンドがあるって聞いて》

 オフだ。目に見えないなにかに、感謝を捧げたくなった。駒込からの移動なら多く見積もっても四十分ほどだろうか。少し間を持たせられれば、そう遅れずに会をはじめられる。

「『なにかあったら声かけて』と言ってくださったこと、まだお願いできますか?」


「紅谷先生!」

 大股でロビーに入ってくる紅谷医師に、手を挙げた。相変わらずの、仔犬のような笑みに、なつかしさがこみあげてくる。
 紅谷医師は歩きながらショートコートを脱ぎ、パン屋の袋を俺に押し付けた。

「それ君の分。うまいよこれ。悪いけどそのジャケット貸して」

 てきぱきと赤いセーターの上に、俺のジャケットを羽織る。
 オルガンが奏でる小気味のいいジャズがかすかに聞こえる。ロビーから会場へ移動したオルガンを、あの子どもの父親が演奏してくれている。

「いい音だね。オルガンかな」

「ええ。旧式のオルガンです。音もどこかなつかしいですよね」

 古いオルガンにしか出せない音というのがあるそうだ。
 新しい楽器はあまたあるが、電子で再現した音ではなく、アナログ特有のゆらぐ音色に惹かれて、愛好するひとも多いという。この施設の古いオルガンは使われなくなって久しかったが、数年前に修復され、もとの音を取り戻したのだそうだ。手掛けたのは、浜松の、タブノキ工房。父だった。
 紅谷医師はうれしそうに目を細める。

「英語では臓器のことをorganというね。楽器のオルガンも、臓器も、複数のものが互いに関わり合うイメージは同じだ。それは僕らも同じ。互いに向き合い、連係して、それぞれの力を補い合う」

 という話を、挨拶にしようと思うが我ながらいい、と紅谷医師は悦に入る。一歩ごとにオルガンの音が近づいてくる。

「ところで奥多摩は楽しめた?」

「楽しむ余裕なんてなかったです。先生がよろこぶような写真を撮るのに必死でした」

「もったいない。せっかく君のために頼んだのに」

「先生が、紅葉を見たいから、だったのでは」

 俺は耳を疑った。紅谷医師は、さもおかしそうに声をたてて笑う。

「そうでも言わないと、君、すすんで息抜きなんてしないでしょう」

 あれは、業者扱いして、手のひらを返したわけでは、なかったのか。

「僕も経験あるけど、新しい環境に身を置くのは、体も心も緊張すること。そういうときこそ、ちょっとでも自然の中に身を置いてみるのがいいんだ。あのときたまたま目に入った、誰かの受け売りだけど」

 むしろ、俺を気遣ってくれていたことに、不意に目頭が熱くなる。
 扉を開くと、オルガンのゆらぐような音が、響きわたった。

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 シンポジウムは、演奏で幕を開けたためか、リラックスした雰囲気に包まれ、議論も活発に行われた。
 急遽登壇してくれた紅谷医師と開業医とのパネルディスカッションは、地域こそ違えど共通する課題も多くて、会に参加した医師や医療関係者たちにも好評を博した。
 ささやかな打ち上げのつもりで、央樹さんをうしろむき夕食店に誘った。央樹さんは雰囲気をすっかり気に入ってくれたようだ。

「所長から売上に直接つながるわけじゃないと反対されたときはどうしようかと思いましたけど、央樹さんが援護してくださったおかげで、実現できました。ありがとうございました」

「あれは見ものだった。宗生が所長に反論するとは思わなかった」

 営業力は人間力だ、と反論した。ものを売るだけが仕事じゃない。
 ひとの魅力が互いを結び合わせ、ものともの、考えと考えを結びつける。互いに向き合い、踏み出した先の未来が、少しでもよいものであるように。それを考える場所を提供することは、わが社だけでなく、世の中にとってよいことのはずだ、と。
 結果として、それは営業活動にもつながった。シンポジウムに訪れた医師たちから横のつながりができて、新規開拓できたところもあった。

「芸は身を助くっていうけど、宗生の折り紙も役立ったよな。折り紙が仕事に役立つなんて、考えたこともなかったけど、親父さんに感謝だな」

「今度帰るときは、酒でも持参して、乾杯します」

 ピンチヒッターのオルガン演奏も、工作教室も、折り紙のおかげだった。
 工作教室を通じて院内スタッフに顔見知りが増え、訪れる診療科も増えた。豊島医師をはじめ、医師に会えるときには、自社製品の売込みより、患者さんに必要なケアならば他社製品もおすすめした。それがかえって信頼されたらしい。話を聞いてもらえる機会も増え、製品採用につながった。おかげで長らく達成できない、と言われていた売上目標にも、奇跡的に手が届いた。
 それになにより、また紅谷医師と、関われるようになった。
 ひととひとの間には、距離がある。
 くっつきすぎるのでもなく、離れすぎるのでもなく、ほどよい距離があるからこそ、きっと互いに響き合うことができる。
 できることならその空間は、対話と小さな笑みで満たしていきたい。
 限られた材料から工夫次第で多様なものが生まれるように、その先に誰かのよろこびを思い描いて、手をつなぎ合えたらいい。
 希乃香さんが瓶ビールを運んできてくれる。
 俺たちは、冷えたグラスにビールを注ぎ、掲げ合った。

「乾杯!」