ビールの世界でおもしろい存在であり続けるために。新しくなった「SPRING VALLEY BREWERY TOKYO」が目指すもの
2015年の創業以来、クラフトビールの魅力を発信し続けてきた、東京・代官山の「SPRING VALLEY BREWERY TOKYO(以下、SVB東京)」が、2024年5月30日にリニューアルオープンしました。
1階と2階のフロアごとに異なるコンセプトを設け、多様なビール体験を提供する「場」として生まれ変わったSVB東京。新しくなったSVB東京がこれから提供していきたい価値とは。そして、いかにビアカルチャー全体を盛り上げようとしているのか。リニューアルの経緯とビール業界の未来に込めた想いを、スプリングバレーブルワリー株式会社代表取締役社長の井本亜香に聞きました。
ビールの多様な楽しみ方を、それぞれのフロアで提供する
─1階はカジュアルで明るい雰囲気を感じます。一方で2階は高級感がありますね。リニューアルを経て、明確に雰囲気を分けている印象を受けました。
井本:1階と2階で雰囲気や役割をしっかり分けたのは、私が2023年3月に就任したときの「気づき」からなんです。
SVB東京は2015年の開業以来、お客さまの形態が少しずつ変化してきました。コロナ禍を経て、大人数のグループではなく、多くても4人ほどでご来店されることが増えていたんです。そうして店の全体を見まわすと、1階と2階で同じようなフロアがあってもおもしろくないと感じて。時代に合わせて店舗全体をアップデートしていかなければと思うようになりました。
─「アップデート」について、詳しく教えてください。
井本:もっとライトに、クラフトビールを知らない人たちの「なんだか飲んでみたくなる」くらいの気持ちを叶える「入り口」を増やすべきではないか。一方で、クラフトビールが好きなお客さまも増えてきているので、ビールの奥深さをさらに楽しんでいただくための提案も必要ではないか。そんな考えが浮かんできたんです。
これらの考えを体現するために、1階と2階でコンセプトを分けました。1階ではとにかく直感的に楽しんでいただく。2階では、食事とのペアリングコースを通して新しい体験を提供していこう、と。“ビールの多様な楽しみ方をそれぞれのフロアで提供したい”というのが今回のリニューアルの目的です。
リニューアルで増設された、「クラフトビールの世界」への入り口
─2階で提供する「新しい体験」はどういった特色があるのでしょうか。
井本:大きな特長としては、SVB東京のペアリングコースは「ビールに料理を合わせている」ということです。
「お酒に料理を合わせる」という発想は、ワインやウイスキー、日本酒ではよく耳にしますよね。そのペアリング体験は、今までもビールで実現してきました。
それぞれのビールが持つ香りや味わい、苦味や喉ごしは、料理との掛け合わせ次第でまた違った一面を見せます。そこで、例えばフレンチのコースにワインを合わせるように、コースという流れを持たせてビールに合う料理を提案すると、クラフトビールの奥行きや幅広さをさらに体験していただけるのではないかと考えたんです。
─「料理にビールを合わせる」ではないわけですね。あくまで主役はビール。
井本:そうです。2階スタッフにはクラフトビア・アソシエーション(日本地ビール協会)認定の「ビアコーディネイター」の資格を取ってもらい、ペアリングの説明ができるようにしています。料理を運ぶ際には「なぜ、このビールなのか」「なぜ、この料理に合うのか」をお客さまに説明しながらお出ししているんです。スタッフの言葉を通じて、造り手が考えた味わいや、クラフトビールの奥深さをお伝えしたいと思っています。
─1階で目指す「より直感的に」ビールを楽しむための工夫は何でしょうか。
井本:今まで以上に、多くの方にクラフトビールを楽しんでいただける場にしたいと思っていました。なので、クラフトビールに詳しくない方にもクラフトビールの「個性」を分かりやすくお伝えし、気軽にいろんなビールを試していただけるような設計を目指しました。
井本:1階のメニューには、ビールの香りや味わいの違いを示したチャートや、SVB東京のブリュワーによる味わいやこだわりの紹介コメント、さらにビールと料理のおすすめペアリングを掲載しています。いろんなビールを少しずつ飲んでみたいという方には、6種の飲み比べセット「ビアフライト」もおすすめです。
井本:また、店舗で提供している『SPRING VALLEY 豊潤 496』は、口当たり滑らかな繊細な泡を体験していただける、独自開発の「新・スゴ泡タップ」を使用しています。時季によって変わる店舗限定ビールもブリュワーのこだわりが詰まっているので、店舗ならではのさまざまな味わいを試してみていただきたいですね。
─1階は大きなサイネージやDJブース、グッズ販売もあり、イベントスペースのような雰囲気もありますね。
井本:そうなんです。今回のSVB東京のリニューアルでは、ビール以外の部分にもこだわっています。空間設計や映像、ユニフォームなど、いろんな職人たちに協力してもらいました。クラフトビールの体験につながるきっかけはいろいろあると思うんです。その入り口になるのが、店内で目や耳にする映像や音楽かもしれないし、料理やスタッフのサービスかもしれないし、環境に配慮した素材を取り入れた店舗ロゴ入りコラボTシャツかもしれない。もちろん、ビールそのものかもしれませんしね。
─リニューアル後の、お客さまの反応はいかがですか?
井本:1階は新規のお客さまが増え、いい流れだと感じています。2階も実際にお客さまから「ビールを中心としたコースの提案は新鮮さを感じる」というお声をいただきました。これまでのSVBファンの方々はもちろん、クラフトビール業界の方にもご来店いただいているようで、とてもありがたいですね。
SVB東京を始めた2015年頃に比べれば、みなさんのクラフトビールに対する知識や認知度も上がってきています。だからこそ、より多くの方に「新しい時代のビール」として知っていただきたいという思いで、日々チャレンジしています。
大手メーカーだからこそ、造り手の想いが伝わるビールを
─井本さんのようなキリングループの社員も、SVB東京に勤めているのですか?
井本:そうですね。店舗運営や醸造に社員がいます。特に醸造に関わるスタッフは、本人のキャリアや志望を考慮しながら、工場から技術系の社員が集まっています。キリンには「さまざまなビールを造れる人材を育てたい」という意思があります。その意味で、SVB東京は人材育成の機能も担っているんです。
SVB東京のような飲食店と、本体のキリングループでは、情報発信一つとってもやり方が異なります。こちらでは「手づくり感」をより大切にしながら、SVB東京のリアルな魅力を多くの人にどうやって伝えていくかが重要。店舗開発というお客さまの声を直接聞ける環境で、本社勤務では経験できないような専門スキルを養っていくことも狙いの一つです。
─たしかに、クラフトビールの魅力の一つは、造り手の顔が見えるところにありますよね。
井本:量販店の店頭に並ぶような「マス向け商品」を造る人たちの姿は、お客さまからすれば見えにくい存在だと思うんです。でも、各地の工場にはクラフトビールのブルワリーと同じように日々悩みながら、レシピを考えたり造ったりしている仲間がいます。
そういった人たちの存在を知ってもらうためにも、SVBのように見える醸造所で、ブリュワーとしての言葉や想い、そして姿を見てもらいたいと考えています。造り手たちが頑張っていることがもっと伝われば、ビールの世界はもっと豊かに映るはずです。
「ビールを楽しむ場」「ビールを愛するお客さま」を見つめ続ける
─ここからは、井本さんご自身のお話もお聞きしていきたいと思います。まずは簡単にご経歴を教えてください。
井本:香川県の短大を卒業後、1991年にキリンビールへ入社しました。海外ビールの担当や「Bar HEARTLAND」の副店長、マーケティング部での商品開発や九州エリアの営業リーダー、九州支社長など、本当に幅広く経験を積ませていただきましたね。
─その幅広い経歴だからこそ、現在のお仕事にも活かされている面が大きいのではないでしょうか。
井本:実は、飲食業との縁は昔から深かったんです。祖父が実家のある香川県の観光地で飲食店を営んでいたので、子どもの頃からよく手伝っていたんですね。その環境で育ったおかげで、お酒に関する知識や経験が自然と身についていったのかもしれません。
キリンビールへの入社後はさまざまな部署を経験しました。特に印象的だったのは、26歳のときに樽詰めの生ビールをよりおいしく提供するための「ドラフトマスターズ」という社内の講師資格を取得して、啓発活動に携わったことです。四国支社時代の経験なのですが、この活動を通じて、生ビールに対する品質へのこだわりを学びました。
その後本社勤務となり、六本木ヒルズにあった「Bar HEARTLAND」の立ち上げに携わり、副店長を務めました。飲食店というお酒と料理を楽しむ場で、お客さまやスタッフの動きを実際に見ることができたのもいい経験でしたね。35歳で、今でいうクラフトビール市場に先駆けたビールの商品開発にチャレンジした経験も、今の自分につながっているなと感じます。
だからかな、私にとってクラフトビールの世界って“さまざまな経験の延長線上にたどり着いたような感覚”で。
─井本さんにはクラフトビールが全くの「新しいもの」ではなかったんですね。ビールの商品開発は直接的に活かせる経験も多そうです。
井本:プライベートで行ったアメリカ旅行で、普通のレストランでも当たり前のようにクラフトビールのタップが並んでいる光景を目にしました。そのときに一つのレストランで、いろいろなビールが飲める環境があることを知りました。一方で当時の日本では、さまざまな種類のビールを一般的に提供できる環境がまだ整っていなかったんです。
当時、世界のクラフトビールを参考にしながら主流のピルスナービールとは異なる「無濾過ビール」という担当をしていた私にとっては、「このおもしろい世界観がいつか日本でも広がっていくといいな」と感じていましたし、「どうやってその世界観を伝えていくのか」をいつも考えながら仕事をしていたように思います。
─クラフトビール業界に身を置くことで感じたことはありますか?
井本:この2〜3年だけでも、クラフトビールの醸造所はどんどん増えています。「地域へ貢献したい」とい想いを強く持っている方が多いように感じますし、特に若手の方がそういった動機でビール造りを始めるのは素晴らしいことだと思います。
SVB東京も日本のクラフトビール業界の一員として、業界のさらなる活性化に貢献したいと思っていて。例えば、ほかのブルワリーとの共同開発や技術支援、ブルワリー同士が情報交換できる場づくりを通じて、日本のクラフトビール全体の品質を底上げしていきたいんです。実際、一緒に協働しているブルワリーたちのレベルはどんどん上がっていると感じていますし、新しい味へのチャレンジも続けています。
▼タップ・マルシェ担当者が全国のブルワリーを訪ね、ブルワーにビール造りへの想いをうかがう連載がこちら
─大手メーカーのキリンとローカルのブルワリーでは、規模感だけでなく思想や理念も異なりますよね。その「違い」から新しい文化が生まれていくのかもしれません。
井本:私たちもそこに期待しています。毎年、技術者同士で意見を交換するような「分析会」を開いているのですが、とても熱い議論になるんですよ。話に付いていくのが必死で、職人魂を感じずにはいられませんし、私自身も奮い立たされます。
実際にコンペティションなどでも、日本のブルワリーが上位に食い込むことが増えてきました。世界から見ても、日本の繊細な味わいやおいしさが評価されつつあるんです。海外のクラフトビール愛好家たちから「日本のクラフトビールはおいしいぞ!」と言ってもらえるようになれたら、クラフトビールは日本の価値を高める一つの要因になれると思っています。
いつか「クラフトビール」と呼ばなくなる日まで
井本:ビールを楽しむ場というのも、この30年ほどでだいぶ変わりました。私が入社した頃、樽詰めの生ビールが飲めるのはディスペンサーという什器がある店舗だけで、ビールメーカーによる品質管理の啓発活動が必須になるくらいでしたから。それほど、樽詰めの生ビールは「当たり前」の存在ではなかったんです。
─今や飲食店で生ビールがスタンダードになったのも、実は近年のことであると。
井本:はい。それが今では、当社のホームタップのように、自宅で自分で注いで生ビールを楽しむという選択肢が出るくらいに広がっています。私はクラフトビールの世界もそんな風に広がっていってほしいんです。究極的には「クラフトビール」と呼ばなくてもいい未来になればいいなと思っています。
─それはどういう未来なのでしょう?
井本:「クラフトビールを飲む体験が、お客さまの日常になる」という状態ですね。クラフトビールという言葉を使わなくても、それが“ビール”としてお客さまに認識され、選ばれる。皆さんがふだん目にする生ビールだけでなく、さまざまなスタイルの中から「私の一番好きな“ビール”はこれなんだ」と選んでもらえる未来です。
ともすると、現在の缶ブランド『SPRING VALLEY』の市場での立ち位置は、やや中途半端に見えているのかもしれません。ローカルクラフトとも違うし、ナショナルブランドの王道とも違う。でも、この中間的な立ち位置からビールの楽しく豊かな新しい世界を確立し切ることができれば、ビールの考え方そのものを新しくできるはずなんです。ビールの概念そのものが広がって、その中核をキリンが担えれば理想的ですね。
─理想の実現には、どれくらいの時間がかかると思いますか?
井本:正直、まだわかりません。でも、そのためのきっかけづくりのブランドになりたいですし、ビールの世界でもおもしろい存在であり続けたいです。ゆっくり、でも確実に、近づけている実感はあります。何よりも、まず私たち自身がクラフトビールの世界を心から楽しみたいと思っています。