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女子サッカーの歴史が作った一体感。なでしこを撮り続けた早草紀子さんの #サッカーがつなぐもの

日本サッカー界の盛り上がりには、選手はもちろん、影で支える多くの人が関わっています。かけがえのない一瞬を“永遠”に変えるカメラマンもまた、その重要な一員です。

中でも早草紀子さんは、女子サッカーの黎明期から、その写真と文章でシーンの発展に身を捧げてきました。

知られざるサッカー写真の世界、そして女子サッカーの歴史をつくった選手と裏方の稀有な一体感とは?

日本サッカーの発展を担ってきたJFAと、1978年から日本代表を応援し続けるキリンが共同で、サッカーの持つ力を紹介するnote連載「 #サッカーがつなぐもの 」。 第5回はサッカーカメラマン早草紀子さんにお話を伺いました。

サッカーカメラマンの早草紀子

【プロフィール】早草紀子
兵庫・神戸市生まれ。東京工芸短大写真技術科卒業。在学中のJリーグ元年からサッカーを撮りはじめ、1994年からフリーランスとしてサッカー専門誌などに寄稿。1996年からは日本女子サッカーリーグのオフィシャルカメラマンも担当。女子サッカー報道の先駆者として、黎明期のシーンを手弁当で支えた。2005年より大宮アルディージャのオフィシャルカメラマン。2021年から、WEリーグのオフィシャルサイトで選手インタビューの連載も担当。現在は日本女子サッカーのプロモーション企画にも奮闘中。著作に『あすなろなでしこ』『なでしこの教え』『紡 なでしこジャパンが織りなす21の物語』など。


カメラマンとしての初陣は歴史的な一戦だった

サッカーカメラマンの早草紀子

子どもの頃からサッカーやバレーボールをやっていて、私もまたスポーツをすることが好きな一人でした。高校時代に怪我をしてしまい、プレーヤーとしては引退しましたが、エネルギーがありあまっていて…。体を動かせてプレーヤーと同じ目線に立てる仕事がしたいと、スポーツカメラマンを志すことになりました。

なぜカメラマンを選んだかというと、当時、スポーツ業界に女性カメラマンがほとんどいなかったから。サッカー雑誌でスタッフクレジットを見ると、ライターであれば女性のお名前もありましたが、女性カメラマンの名前はありませんでした。それなら、私がやってみたいと。「やる人がいないのであれば、自分がやろう」というのは、この後も私の行動原理の軸となります。

その後、写真の大学に入学し、さっそく同期から「サッカーを撮影する人を探している人がいるんだけど、スポーツ写真をやりたいならやってみたら?」と誘ってもらいました。

そして、そのままカメラの知識もなく現場に立つことになったんです。それが、1993年5月に開催されたガンバ大阪対浦和レッドダイヤモンズ。いきなりJリーグ開幕戦がカメラマンとしての“初陣”となりました。日本初のプロサッカーリーグ・Jリーグの、栄えある開幕戦。今思えばなんとも贅沢な状況ですよね。

いきなり大きな舞台からのスタートでしたが、その後もサッカーを撮り続けていくうちに、サッカー専門誌などでお仕事をもらうようになり、Jリーグを中心に現場経験を積んでいきました。そして1996年からは、日本女子サッカーリーグのオフィシャルカメラも担当することに。

ちなみに当時の日本女子サッカーはまだ完全に“夜明け前”。カメラマンもライターもあらゆるセクションで、人が足りていませんでした。そんななか、「女子サッカーの機関誌を続けたいけど、担う人がいない。写真と一緒に、試合のレポートも書いてもらえないか」という依頼をもらったんです。

正直、写真で手一杯でさらに執筆をするなんてとても無理だと思いました。だけど、本当に誰もやる人がいないようだったので、最終的には「執筆の方は選手のインタビュー中心でよければ」と引き受けました。自分が撮った写真とあわせてテキストも添える私の作品スタイルは、こうして始まりました。いま振り返れば、女子サッカーを撮ることになったのも、執筆を始めたのも、まさに「やる人が誰もいないのであれば、自分がやろう」の精神が働いていたのです。

こうして私は現在まで、サッカーの写真を撮り、原稿を書いてきました。初めてカメラを持ってピッチに降りたあの日から、もうすぐ30年が経とうとしています。

選手の“波長の変化”が完璧に捉えられる瞬間

手元

サッカーの写真を撮るうえで、大切にしていることがあります。それは、試合中の違和感に目を向けること。

たとえば、ある選手がふと通常とは違うポジショニングをとったり、選手同士がちょっと珍しい形でコミュニケーションをしたり、あるいはある選手が顔をしかめてふと何か発したり。そういう変動が起きる“予兆”のような違和感を見つけ、写真に収める。

そして試合後、選手本人に確認してみる。「あの時、ポジショニングを少し変えたよね?」と。すると「うん。相手が左後ろのカバーリングが苦手そうだったので、そこに走り込みやすい位置に修正した」なんて答えが返ってくる。そんな“答え合わせ”が、とても楽しいんです。

それが結果的に得点や試合を左右するプレーに繋がれば何よりだし、たとえ繋がらなくても、その選手が何か変化を起こそうとアクションしたことは確かです。そして、それを知っているのは、おそらく私だけ。試合の戦術的なポイントを伝えるのであれば、他に得意な方がいらっしゃいますので、私は私がピッチのすぐ横にいたから見えたものを伝えたい。

大宮アルディージャVENTUSの有吉佐織
大宮アルディージャVENTUSの有吉佐織選手(写真左)と乗松瑠華選手(写真右)の1シーン。最終節で、優勝したINAC神戸レオネッサに5失点してしまい、終了後ベンチ裏に戻ってきた乗松選手は「何もできなかった」と、自分の不甲斐なさに号泣。サポーターへの挨拶に行く途中でそれに気づいた有吉選手が落ち込む乗松選手に声をかけている瞬間を捉えたもの。あとで有吉選手と“答え合わせ”をしたところ「全力でプレーしたんだから胸張ってサポーターに挨拶しに行こう」と声をかけたそう。※協力:大宮アルディージャ

時折、選手の波長の変化みたいなのを完璧につかめることがあるんです。それは大げさにいえば、選手と同化した瞬間かもしれません。私にとってはゴールシーンを撮るより、そちらを撮るほうが大切で、それがカチッとハマった瞬間は、もうアドレナリンがドバドバ出てきます。毎回何が起こるかわからない瞬間を撮るのが面白い。それがあるから、この仕事をやめられないのかもしれません。

プレーするフォームそのものが画になりやすい男子に比べ、女子は内面がにじみ出たプレーが大きな魅力だと私は思っています。ちょっとした心情や表情の変化をつかむには、選手の情報や本人から聞いた話も、重要なヒントになります。だから女子選手とは、どんなことを考えているかをつかむためにより密にコニュニケーションをはかりますし、事後の“答え合わせ”もしっかり行います。

私の写真は、私にいろんなことを話してくれる選手の話と、ニコイチの存在なんです。選手の知られざる思いを、写真を通じて伝えることが、私の役割だと捉えています。

決勝のアメリカ戦。私だけ日本のゴール側に残った

2011年ドイツワールドカップ決勝戦
2011年ドイツワールドカップ決勝戦・アメリカ戦での1シーン。

なでしこといえば、2011年ワールドカップで見事優勝を果たしましたが、今でもよく覚えているシーンがあります。それは決勝戦・アメリカ戦でのことでした。

アメリカの1点リードで迎えた延長後半。多くのカメラマンが、日本の同点ゴールを撮影しようとコートの反対側に走っていきました。対して私は、日本のゴール側に留まることにしました。

きっと延長後半で日本がゴールし、そのシーンが撮れていなかったら、編集さんには怒られるだろう。でも、この試合はディフェンス陣が本当に頑張っていたことを知っている。アメリカの猛攻を必死に止めているこのディフェンス陣を撮らなかったら、私個人として一生悔やむことになる。日本のゴールシーンは他の人が撮るのならば、自分だけは反対側で撮ろう。そんな判断でした。ここでもやっぱり、「誰もやらないなら、自分がやろう」ですね。

結果、澤選手のゴールで日本が同点に追いついた後、今度はアメリカのモーガン選手が抜け出して日本が絶体絶命になったところにセンターバックの岩清水選手が猛然とタックルをし、レッドカードになった場面をおさめることになりました。

レッドカードが出ているだけに、手放しで褒められるプレーではないかもしれません。でも、あれがなければ、相当な確率で失点していたでしょうから、まさに窮地を救うプレーで、自分としてもあの瞬間を撮れたことは白飯3杯いけるほどの満足感でした。

早草紀子の著書
早草さんの著書『紡 なでしこジャパンが織りなす21の物語』。2011年ドイツワールドカップ出場メンバー20名へのプレー写真と合わせて、選手それぞれがなでしこの過去と現在、未来について語られている。

なでしこの歴史をつくった不思議な一体感

早草紀子

やっぱり私にとっては、なでしこの黎明期を支え、少しずつ力をつけて前に進み、遂に2011年のワールドカップで優勝を勝ち取った選手たちには、特別な思いがあります。当時は国際大会に出ても途中で敗退して帰るのがあたりまえ。大量失点でボロボロに負けることもありました。そんな時代から同世代として一緒に走ってきた思いがあります。彼女たちが不甲斐なさで大泣きする場面や、泣きながら喜ぶところを近くで見てきました。

90年代の女子サッカーリーグは、運営がギリギリで、翌年存続できるかわからないくらいの状態。試合をするのも立派なスタジアムではなく、一般の人が普通に借りられる時間貸しのコートということもありました。

写真を撮る私も、試合を裁くレフェリーも、関わる人たちは基本的に多くの見返りを求めずにやっていました。それこそ選手たちも、各々の仕事を抱えながら、無償でプレーしていました。それでも、「なんとか手助けしたい」という心意気だけはみんな持っていて。
誰もが「役に立つなら、どうか私の手を使ってください!」という感じでした。異常なまでの一体感がそこには宿っていたんです。

こんなこともありました。当時女子サッカーの試合でよく笛を吹いていた女性レフェリー2人が、陸上コーチを付け、ランニングのトレーニングをしていたんです。自分たちより運動能力の高い選手たち、ましてや海外の選手たちのプレーについていくには、もっと走りを向上させる必要があると。

そうして陸上選手に混ざって陸上トラックでトレーニングする2人を見て、私はいてもたってもいられず、フォームチェックのお手伝いができればと、走っているシーンを連写で撮ってコーチに渡したりもしました。その後も2人は女子サッカーでレフェリーを続け、2011年ワールドカップでもピッチに立つことになります。

結局、そういった同世代たちとの強い仲間意識があったからこそ、私はなでしこを撮り続けられたのだと思います。

女子サッカーも、その時代から見れば長足の進歩を遂げました。2021年には日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」も新設されました。

選手たちの世代交代が進んでいて、同世代を見ていた時とはまた違うアプローチになるかもしれませんが、今後彼女たちとどう心を通わせていくかを楽しみながら一緒に考えていきたいです。

サッカーを撮り続けた先にある将来の夢

サッカーカメラマンの早草紀子

そんな私には、夢が一つあります。それは、女子サッカーの第一線を退いた後に“夜明け前”から一緒に走ってきた同世代の仲間と、70代でサッカーを楽しむこと。

70歳以上の選手が出場する大会を取材したことがあるのですが、そこで見たおばあさまたちが、とても素敵だったんです。プレーしている時はあまり高齢者に見えなかったのですが、ピッチ外で話を聞くと、本当にオーバー70の方々で驚かされました。日焼けしながらサッカーを心から楽しんでいるのが伝わってきて、まさに生涯スポーツ。サッカーにはこういう懐の深さもあるんだなと気づかされました。

だから私も70歳になったら、今度はピッチの中を感じてみたいなと。フルコートで元選手とやるのはさすがに厳しいですが、フットサルであればその頃には能力の差もだいぶ縮まって、いけるんじゃないかと目論んでいます。

それと、これまでずっとカメラ越しにサッカーを見ていたので、カメラを置いたら、純粋にサッカー観戦を楽しみたいですね。観客席でビールを飲んだりしながら。

文:田嶋章博
写真:上野裕二
編集:RIDE inc.


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