待ちびと来たるハンバーグ【うしろむき夕食店*五の皿】
ポプラ社さん、新人作家冬森灯さんとコラボした『うしろむき夕食店』プロジェクト。毎月第三金曜日に新しい物語をお届けしてきましたが、本日が最終回となります。
それでは、第五話『うしろむき夕食店』をお楽しみください。
▼これまでのお話はこちら
▼うしろむき夕食店プロジェクトについてはこちら
1🍺
——さきほどから車両内に響く同じアナウンスが、くぐもって、遠のいていく。まぶたが重く感じて、そのまま意識を手放すと、わたしはあの日の風景の中にいた。
私鉄、並木台駅で下車。
北口、いちょう並木の坂を、十分ほどのぼる。
T字路の手前、駅から数えて八番目の曲がり角を左。
「八つも、なかったけど……」
几帳面な字で書かれた葉書を手に、わたしは並木の最後の一本の下で、立ち止まった。キャリーケースの車輪を足で止め、くるりとうしろを振り向けば、なだらかな下り坂が、駅まで延びている。またあそこまでと思うと、ため息と一緒に、気力まで漏れ出ていく気がした。
歩道と車道の間を区切るように立ついちょうの枝には、やわらかな新芽が顔をのぞかせていた。夕陽に照り映える姿があんまりきれいで、見惚れるうちに、曲がり角を見落としてしまったようだ。T字路が六つ目の曲がり角だった。
駅に取りつけられた防災無線から、夕方を告げるメロディが流れてくる。もう約束の五時になったらしい。
やっぱり、やり直すしか、なさそうだ。
風呂敷包みを抱え直し、足早に駅前広場へ戻ると、今度こそ注意を払いながら、再び坂をのぼりはじめた。
祖母・志満が営む店を、一人で訪れるのははじめてだった。
父や母の運転する車に乗せられて見た景色と、電車と自分の足で歩いて見る街の風景は、違って見えた。通っている道も、たぶん違うのだろう。
記憶になじんでいたはずの並木台の街並みが、どんどん新しくなっていく。
街もひとも変わる。子どもの頃にちょっと怖かった志満さんが、今はもう怖くないみたいに。
隙のないお着物姿と所作だけでも圧倒されるのに、相手が子どもだろうと偉いひとだろうと態度を変えることがない。成長してからは、それが志満さんを慕う理由になったけど、子どものときは否応なく背筋が伸びて、緊張した。それでいて子どもっぽいところもあって、おばあちゃまと呼んでも返事をしないし、誕生日ケーキのろうそくはいつも二十本しか飾られない。
店の営業日に足を運ぶのも、はじめてだ。母はいつも、志満さんの客あしらいは真似できないと言っていた。その姿からなにかを学び取れれば、わたしは変われるんじゃないかと、ひそかに思う。
こんなにも不運に見舞われる人生から。
もう一度のぼった坂の、八つ目の角はやはり、T字路だった。
振り返ると駅のあかりはひどく遠く見えて、もう引き返す気にはなれなかった。雲を染めた夕陽が沈み、空が藍色に染まると、オレンジ色の街灯がともる。
わたしは諦めて、葉書を着物の袂にしまい、自力で店を探す決心をした。
ふと見ると、目の前の曲がり角に、ロッカーのようなものがある。側面にずいぶんと癖のある字で、産直自動販売機と書かれていた。
博物館や美術館の手荷物預かり用ロッカーに似た、十二室ほどの透明窓の向こうに、さまざまな野菜が見えた。ひときわ目を引くのは、ビニール袋いっぱいに詰め込まれた、小ぶりな黄緑色のもの。芽キャベツだろうか。
そういえば、志満さんが以前、芽キャベツでつくってくれた一品はおいしかった。にんにくとバターの香りがして、ほんの少し醤油をたらすと、ごはんが進んだ。父はたっぷり黒こしょうを挽いて口に放り込み、ビールにのどを鳴らしていた。
志満さんのお料理はどれも、気取らないのに、すこぶるおいしいのだ。夕食を食べにいらっしゃい、という葉書の文字を見ただけで、お腹が空いた。祖母の店は夕食を出す店だという。手土産代わりにちょうどいいと、三百円と引き換えに、ぱんぱんにふくらんだビニール袋を荷物に加える。
たしか葉書には、右、左、右と道順が書かれていた。最初の曲がり角だって合っているかわからない。だけど近くまで来ているのだから、そのうち見覚えのある路地が見つかるだろうと高をくくり、路地をやみくもに歩き回るうちに、本格的に迷ってしまった。
袋小路に行き当たったり、何度も同じ四辻に出たり。不安になって電話しても、店も携帯も留守電ばかり。点滅していた街灯が、そんなときに限ってふっと消えるものだから、心細さのあまり視線が足元に落ちた。
ジジと音を立てて一瞬ともった街灯が、走り抜けるなにかを照らした。
金色に波打つ毛が見えた気がした。
小型犬だろうか? それとも猫? 小さな生き物が、跳ねるような上機嫌な足取りで、目と鼻の先をかすめていった。あれはなんだろう、と好奇心にかられ、反射的に足が動く。生き物が消えた路地を曲がると、なつかしい、ステンドグラスの絵画があたりに光をにじませていた。
輝くような姿に、しばし立ち止まって見惚れた。
内側に光をたたえた姿をはじめて見た。ガラスでできた古びた絵が、なにか特別な場所へいざなう扉のように思えた。一歩ごとにおいしそうな香りが強くなり、小さな鼻歌が聞こえる。扉の両側に据えられた格子窓の向こうに、割烹着姿の志満さんが見えた。手をかけた取っ手はひんやりと冷たくて、それがどこかなつかしい。
結ばれた鈴が、りん、と清らかな音を響かせた。
「お帰りなさい」
やわらかな金色の光に包まれて、志満さんがにっこりと、迎え入れてくれた。
2🍺🍺
乾杯、の声が響いてきた。
グラスを交わす音は、ひととひとを結びつける音楽みたいだ。二階の部屋にまで響いてくる楽しげな声の方へ、軋む階段を下り、エプロンの紐を結ぶ。
店へ続くドアを開けると、やわらかくまるい照明に照らされて、木の家具や床がつやめく。じっくり煮込んだ豚角煮のようなしっとりとした色艶は、日々の丹精のたまものだ。傷もへこみも、いとしんで大切に磨きあげている。
客席は今日もほぼ埋まっていた。ご近所の家族連れや学生さんたち、宗生さんと央樹さんの姿もある。カウンターでは彩羽さんと禅ちゃんが、志満さんと一緒に笑い合っていた。
「噂をすればなんとやらだね」
「またわたしの話してたの?」
「いえね、禅ちゃんがふきのとうを持ってきてくれたから。希乃香が去年の春にうちに来たとき、芽キャベツと間違って持ってきた話をね」
「それは、ふき味噌しか知らなかったから! 元の形を見たことなかったから!」
「ふきのとうと教えたら、もう、この世の終わりみたいな顔で『苦いやつか……』って」
こらえきれないといったようすで、志満さんは口元に左手を当てる。手首の包帯はとれたものの、まだ痛むのか、時折さすっているのを見かける。
「苦いもの、不得意なんです、がっかりしましたよ。時期的にも、なんでわたしはこんなに運が悪いんだろうって」
カウンターの内側に入ると、彩羽さんがビールを片手に、首を傾げた。
「それって、七社潰した、っていう頃のお話ですか?」
わたしが潰したわけじゃないです、ときっちり訂正して、継ぐはずだった家業が頓挫したところから、かいつまんで説明した。
熱海の実家は不動産業を営んでいた。漠然と家の仕事を継ぐと思って育ったのに、大学三年のときに父は事業をたたむことを決め、わたしは急遽就職活動に参戦した。一向に就職先は決まらなくて、見兼ねたアルバイト先の個人塾が、そのまま拾ってくれた。塾長は熱心だったものの、近所にオープンした大手にごっそり生徒を取られ、最後の生徒を送り出した翌年の三月、就職一年目にして無職になった。
同じ失敗は繰り返さないと覚悟を決めて企業間取引の企業を探しまくり、業務用食品販売の営業職に飛び込んだ。営業成績は悪くなかったものの、主要取引先の倒産のあおりで連鎖倒産。商売には資本力が不可欠と、デパ地下の弁当店に勤めれば、多角経営がもとで民事再生法が適用されて人員整理の憂き目にあい、規模が小さめの会社を探して広告制作会社に勤めたものの不渡りが出て倒産。元取引先の雑誌社が救いあげてくれたけど社長が夜逃げして立ち行かなくなり、人間性重視で決めた写真館は店主の急病で閉館。元気で若い店主が経営するアンティーク着物店に勤めたところ、着物愛のあまり不良在庫を抱えすぎて、潰れた。
最後のお給料は払ってもらえず、簞笥からあふれるほどのアンティーク着物を現物支給されたおかげで、着るものにはたぶん一生困らないのだけど。
「デパ地下に勤めたときの同僚とルームシェアしてたんですけど、その子に彼氏ができて、出て行ってほしいと言われたのも、同じタイミングで。仕事も家もなくなるのかと困っていたら、志満さんが、ごはんを食べに来ないかと誘ってくれて」
「いっとき夕飯をごちそうするつもりが、そのまま居つかれてしまったんですよ」
志満さんが袂を手で押さえて、禅ちゃんに菜の花のオイル蒸しを出す。鮮やかな緑からかすかにのぞく、黄色い蕾がかわいらしい。ちょっとお願いね、と志満さんは厨房へ入った。
禅ちゃんが、もみあげを指でなぞりながら、感心したように何度も頷く。
「さすが希乃香ちゃんだよね。そこまで不運の見本市みたいな人生、望んでも歩けるもんじゃないよ」
「望んでません、幸運に恵まれたいですよ。今日だって、遠出したら電車が送電線トラブルで停まって、立ち往生でしたし。帰りも遅くなったし、おじいちゃまの手掛かりもつかめなくて、いまも失職の危機ですよ」
祖父が見つからなければ、志満さんは店を閉めるという。
今日も手掛かりを探りに、水戸へ足を延ばした。骨董市で手に入れた和?笥が祖父のものだったのではと、販売元の古道具店をたずねたのだった。底に書きつけられたK.O.という墨文字は、祖父・小島孝一のイニシャルと同じで、引き出しからは、半分に破られた志満さんの昔の写真が出てきた。
ひとのよさそうな作務衣姿の店主は、個人情報だからと最初は取り合ってくれなかったものの、生き別れた祖父を捜していると話すと、これは独り言とわざわざ前置きして、和簞笥にまつわる話を聞かせてくれた。
奥多摩の旧家から引き取ったものらしい。表札には小島と書いてあったそうだ。店主の経験によれば、旧家であるほど、近隣に知られないよう、遠方の道具屋を呼ぶものだという。ただ、依頼してきた人物は小島という名ではなかったらしい。ここから先はさすがに独り言も呟けない、と言いつつも、その後小島家のあった場所は更地になっていたと話してくれた。
引き出しはやはり祖父のものだろう。でも、持ち物も家も処分する状況を考えると、元気な祖父にはもう逢えない可能性も高い。
彩羽さんが長いため息をついた。証人をお願いしてからいつも気にかけてくれている。
「なかなかの不運ですよね。希乃香さん、ごちおじさんを捜してみたら?」
「どなたです?」
「最近このあたりによく出没する謎のおじさんですよ。知らないうちにごはんをごちそうしてくれてるそうで〝謎ごち〟って呼ばれてます。ごちそうされると、しあわせになるって噂もちらほら」
「そういうひと、割とふつうにいない? 俺、地方回ってるときに何度か出くわしたよ。去年、ふきのとう採りに行ったときも」
禅ちゃんは、スマホを取り出し、自分のウェブ記事「もみあげ日誌」の画面を開いた。休みの日になると禅ちゃんはあちこちの野菜の産地に出かけ、畑のようすや、食べたもの、出会ったものなどを自撮りとともにウェブに公開している。軽トラックでは常にレゲエを聴くそうで、曲目が一緒に添えてあることもある。
見せてくれた画面の半分は、ピンぼけした禅ちゃんの横顔ともみあげ。背景はほぼ料理で、画面上端に、かぶを逆さにしたような絵の描かれた、茶色いジャンパーの背中が写っていた。
「ここの店、パスタの上にでっかいカツが載って、デミグラスソースがどばーっとかけてあるの。もちろん大盛。そんなだから、体格のいい高校生とか大学生とか食べ盛りがたくさんいたんだけど、このおっちゃんが、みんなの分も勝手に支払ってくれてたらしいよ」
「それ、謎ごちと同じですね」
彩羽さんが感心すると、禅ちゃんは調子にのって、三年前、五年前、と記事を遡っていく。滋賀のやきそば食堂や、鹿児島のさつま揚げ店、青森のしじみラーメン店など、ぽつぽつと謎ごちの痕跡があった。すべてではないものの、いくつかに茶色いジャンパーのおじさんが、帽子とサングラスとマスクをつけて、写っていた。帽子の下は黒髪、四十代にも、六十代にも見える、不思議なおじさんだ。わたしにはそれが、同一人物に見えた。
「これ……同じひとでしょうか?」
「まさか! 似た服のひとじゃないですか。ファストファッションとかだと服装がかぶるでしょ。青森と滋賀と鹿児島だもの。同じひとではないでしょう」
「でも、実際に禅ちゃんは全部に行ってますよ?」
「そりゃそうだけど、俺が行ったのはメジャーな観光地とかじゃないよ? そんな物好き、そういないと思うけどね」
ワインをゆらす手をぴたりと止め、禅ちゃんは大きな目鼻をくしゃっとして笑った。
「もしかして熱狂的な野菜愛好家か? だとしたら、ぜひとも熱く語り合いたいねえ。土のブレンド比率とか、おすすめの伝統野菜とか、情報交換もいいなあ。いいタケノコ見つけてさ、来月掘りに行くんだよ」
「私、目撃情報とか番組で募集できないか、上司にかけあってみます」
「いいですね、それ。しあわせになれるなら、わたしもごちそうされたいです!」
「ごめんなさい、希乃香さん。うっかりしてました。ごちそうされてるのは、中高生とか大学生だけみたい……」
「ええっ、年齢制限あるんですか?」
「希乃香ちゃん安定の不運っぷりだね!」
禅ちゃんの笑い声が豪快に響いた。
夕食店には、笑い声が似合う。
あの日ここへ来たとき、浮かない顔でやってきたひとが、帰り際には笑顔を見せるのに驚いた。志満さんの接客に秘密があるんだろうと思った。その秘密がわかれば、わたしは居場所を奪われる側ではなく、残る側になれる気がして、働かせてほしいと頼み込んだ。あの日からもうすぐ一年が過ぎる。
3🍺🍺🍺
厨房から志満さんが顔をのぞかせた。お料理ができたらしい。
ご注文の品は、山の芋のフライとぶりのしょうが煮。フライは、さくさくの衣とほくほくしたお芋の食感がたまらないやつだ。褐色に色づいたぶりは、つやつやと照りもよく、味のしみたしょうがと一緒に口に運んだら、さぞおいしいだろう。
帰りが遅かったせいでまかないを食べ損ねた空きっ腹に、この香りはなかなかの苦行に思えた。
央樹さんのもとへ料理を運ぶと、宗生さんが小声でたずねてきた。
「さっき、あっちで話してたのって、ごちおじさんの話?」
「ええ。宗生さんも、ご存じなんですか?」
「というか、央樹さんが。だいぶ酔ってるんだと思うんだけど」
「なに言ってるんだよ、俺は大真面目だよ。あのひとは人類を救うかもしれないんだから。第一、俺はごちおじさんなんて、軽い呼び名は合わないと思うんだよ。もっとこう、なんていうか重みがあって、ロマンと謎の香りが立つような」
そう、と指を鳴らして、央樹さんは目を輝かせた。三杯目の焼酎も空いている。
「怪人だ。オクラ座の怪人」
「耳なじみはいいですけど、本家よりもだいぶ迫力が目減りしますね。冠がローカルすぎませんか。いや、好きですけどね、オクラ座のオムライス」
オクラ座の真価はビーフシチューにある、いやカツレツだ、と二人は互いに譲らない。
央樹さんは、社内プロジェクトを立ちあげようと、宗生さんを説得しているらしい。ごちおじさんは二十年近くも姿が変わらないため、年を取らない、あるいは老化のスピードが遅いひとだと考えているらしい。世の中には、生物学的な年齢が実年齢よりも若いひとが稀に存在するという。老化のメカニズムが解明されつつある今、そうした分野の研究は医学・薬学でも注目され、目覚ましい成果を挙げている領域でもあるそうだ。
「俺は時間旅行中の未来人っていう方が、ロマンがあって好きなんだけど。なかなか賛同を得られないんだよ」
また貴璃さんに呆れられますよ、と宗生さんは苦笑し、禅ちゃんに話を聞くと言って席を立った。各テーブルから空いたお皿を回収してカウンターの内側に戻ると、志満さんがそっと厨房を指さす。
暖簾をくぐると、調理台に小さなおにぎり三つと、ぬるめのお茶が用意してあった。
おにぎりはまだほんのりあたたかくて、海苔の香りがする。食べると、昔ながらのきゅうっとすっぱい梅干しの味が広がった。白ごまをまぶしたのはかつおぶし。野沢菜で巻かれたおにぎりは味噌が香り、噛みしめるお米の甘いこと。添えてある、かぶのぬか漬けもうれしい。
これが志満さんの接客の秘密なのだ。志満さんに言わせれば秘密でもなんでもない。ただ、相手を思うこと。
メニューを毎日手書きするのも、おしぼりに香りをつけたり、鰹節をその都度削ったりするのも、最初は驚いた。少しでもくつろいでもらえるようにという志満さんの気遣いは、母が言うように真似できないと実感するばかり。
最初は自分の居場所を失いたくない一心で、店を継がせてほしいと申し出た。
でも今は、笑顔の満ちるこの雰囲気を、守れたらと思う。ここを大切に思ってくれるひとがいる限り。
店内に戻ると、彩羽さんや禅ちゃんにも聞いてもらいたいと前置きして、志満さんは穏やかに切り出した。
「そろそろ区切りにしてはどうかと思うの。来月のアタシの誕生日までにおじいちゃまが見つからなければ、月末で店を閉じようかと」
志満さんは、話しながら左手の手首をさすっていた。痛みはまだ消えないらしく、かばうしぐさも見る。それが、店主としての志満さんの決断なのだろう。
受け容れるしかないのだけど、きゅっと気持ちがちぢこまった。
「誕生日の十一日まで、二週間ちょっとだね」
それが短いのか長いのか、わからない。手掛かりが多ければ、時間が足らないのかもしれないけど、残されているのは移転した洋食店だけ。祖父が今もそこに通っている可能性が、どれほどあるのだろう。
お客さんたちが一人ずつ店を去り、閉店まで飲んでいた央樹さんと宗生さんを送り出すと、頭上にひときわ光を放つ星が輝いていた。
並んで歩く背中に、声をかける。
「いってらっしゃい。明日もいいお日和になりますように」
4🍺🍺🍺🍺
「お嬢ちゃん、遅いよ!」
飛んできた野太く荒い声に、反射的に謝った。しかし、妙だ。今日この時間にわたしが訪れることは、ここの誰も知らないはずなのに、待ち受けていたかのようにてきぱきと指示が飛ぶ。
「さっさと入ってドア閉めて! 洗面台は突きあたり! ぼさっとしないで手洗いうがいして!」
わたしは事情がよく呑み込めないままに、洋食店に足を踏み入れた。
洋食ロスマリンは、かもめ橋の川沿い、柳の立ち並ぶあたりにあった。
並木台駅から約三十分、そう遠い場所でもないのに、店休日の昼だからか、港街特有の開放的な雰囲気のせいか、旅にでも来たような気分になった。
志満さんと祖父が出逢った洋食店。
金春町にあった頃と変わらない、青い三角屋根が目印と聞いた。その姿を柳の下に見つけると、胸がいっぱいになった。
そうしてドアを開けた途端、先の大声に包まれた。
声の主は、ひときわ高いコック帽をかぶった、料理長とおぼしき髭の男性。ドアを入って左手側のガラスで仕切られた厨房で、二人の料理人とともに、すばやく包丁を操っていた。右手側に広がる空間には客席が並び、母くらいの年齢の女性二人が、テーブルに箱らしきものをせっせと並べている。
アポイントを取ろうとしたものの、記載された電話番号はなぜかつながらず、直接足を運ぶしかなかった。営業中にあれこれ質問するわけにもいかないだろうと、昼夜の営業のはざまの、仕込みや休憩とおぼしきこの時間を狙って来たのだけど。
遅いと叱られたのはなぜだろう。昼の営業は終わったという意味なのだろうか。
誰かと勘違いされているのだろうか。
「あのわたし、お客さんじゃないんです」
料理長は目を三角にして、そんなのわかってるよ! と吠えるように言い、アッちゃん、ケイちゃんと女性たちに呼びかけて、エプロンと三角巾を準備させた。
飛び交う会話から察するに、お弁当の指定時間が迫っているらしかった。夜の仕込みと同時進行の厨房は戦場のようで、ぴりぴりした空気が流れる。客席テーブルに並んだお弁当箱は、ざっと五十食分ほど。マカロニサラダやハンバーグが詰められてはいるが、まだ半分以上がすかすかだ。人手が足りていないらしい。
誰と勘違いされているのかわからないけど、この状況が落ち着かないと話どころではなさそうだと、おとなしく手伝うことにした。
視線を感じて顔をあげると、客席の隅に穏やかな笑みを浮かべる、おじいさんの姿があった。口も手も出さず、じっと見守っている。とりわけ厨房に目がいくところを見ると、先代の店主かもしれない。
態度は荒々しいが、料理長の仕事は実に丁寧だった。大きさも角度も揃ったエビフライ。小ぶりなハンバーグには濃い色のデミグラスソースがかかり、緑色の鮮やかなスパゲッティからは、なんとも食欲をそそる香りが漂う。
次々に出来るお料理をアッちゃんケイちゃんと協力しながら詰めるうちに、時間は慌ただしく過ぎた。お弁当を積んだバンが出発すると、体から一気に力が抜けた。
ようやく見回した店内の、レジ横の壁には、モノクロ写真がずらりと飾られていた。
金春町時代のものなのだろう、著名な映画監督や歌舞伎俳優、タカラジェンヌ、作家に登山家、ピアニスト。銀幕スターの姿も多く、志満さんの好きな松嶋孝蔵の若い頃の写真もある。壁一面を埋め尽くす華やかな顔ぶれの中には、芸者時代の志満さんの姿もあった。若き日の志満さんは、今と変わらず凜としていた。
「じゃあお嬢ちゃん、バイトの大学生じゃあないの?」
封筒に入ったバイト代を辞退すると、料理長は声を裏返して驚いた。
帯の間から志満さんの写真を出し、事情を話した。
「お客さんに、小島孝一というひとがいないか、教えていただきたいんです」
「いやあ、わかんないねえ。少なくとも常連さんにはいないよ。父さん知ってる?」
料理長が客席に呼びかけると、先代はにこにこ顔を崩さずに、かぶりを振る。半分に破れた志満さんの写真を持っていくと先代は目を細め、登満鶴(とみつる)姐さん、としわがれ声で呟いた。
「登満鶴姐さんは気風がよくて。男女問わず憧れる連中が多かったんですよ。あたしも今じゃこんな枯れ木みたいですがね、あの当時はまだ見習いでころころしてて。幼なじみの吊り目の写真屋と一緒に、金春の子狸子狐と、お客さま方にかわいがってもらったもんです。狐のやつ、写真一枚持ってロスマリンに行けば、エビフライ一本余分につけてくれるだろうなんて勝手を言い出すもんだから、大変でしたがね。ありがたいことにいろんな方が来てくだすって。登満鶴姐さんにもずいぶん贔屓にしてもらいましたよ」
その写真館が、今も同じ場所にあるという。
「おっきなビルになって外側はずいぶん当世風になりましたがね、写真のことにかけちゃ、古狐の知恵はたいしたもんです。相談したらいい」
料理長はわたしを厨房に呼び、ロスマリンといえばこれとも言われたという、緑色のスパゲッティのつくり方を教えてくれた。
「そんな大切なもの、教えていただいて、いいんでしょうか」
「構いやしないよ。同じ材料で同じようにつくったって、料理人それぞれのちょっとした癖が出て、全く同じ味にはならないよ。それにうれしいじゃないの、うちの料理がきっかけで誰かの縁が結ばれて、何十年も経ってるのにこうしてたずねてくれるなんてさ。お嬢ちゃん、うちの味から生まれたようなもんじゃない。看板料理のひとつくらい、持たせてやりたいじゃないの」
さっきまでの剣幕ととっつきにくさが嘘のように、料理長は鼻歌まじりにざるをリズミカルに動かし、茹であがったスパゲッティにソースを絡めた。
「そのメロディ、聞いたことあります。祖母がときどき鼻歌を」
「『星影のワルツ』。きれいな歌だよねえ。明るいメロディの割に、歌詞はずいぶん切ないけどさ。大好きだけど恋人を思って別れたひとが、遠くで相手のしあわせを祈るって歌だよ。同じ頃に流行った『君といつまでも』はまっすぐに愛を歌うのにね」
「そういう歌なんですか……」
もしかしたら志満さんは、その歌詞をずっと、心の中で歌っているのだろうか。行方をくらましたという祖父が、そういう心情であったらと願っているのかと思うと、胸が切なくなった。
5🍺🍺🍺🍺🍺
家の食卓に載る、洋食ロスマリンのお弁当に、志満さんは目を細めた。
「先代が持たせてくれたの。どうしても、登満鶴姐さんに食べてほしいって」
手伝う羽目になった経緯を話すと、どこへいっても不運に見舞われる子だね、と笑われた。店に現れなかったバイトの大学生は、電話がつながらず、風邪で休む連絡ができなかったそうだ。配達から戻ったアッちゃんが電話して状況がわかったらしい。
「でもおかげで、緑色のスパゲッティのつくり方を教わったよ」
志満さんは、なつかしい、と軽く目を閉じた。
店の二階、住居部分にあるキッチンは小さくて、最低限の設備しか置いていない。もともとは志満さんの独り暮らしだったから、簡素なIHクッキングヒーターと小さな流し、冷蔵庫も腰までのものと小さい。ダイニングテーブルも二人掛けで、余分なものを持たない志満さんの暮らしはずいぶんすっきりしている。反対に、母は物を溜め込む性分なので、わたしが家を失くしたときは、実家にはわたしが帰れるスペースも、物を置くスペースもなかった。志満さんがいなかったら、どうなっていたことかと思う。
わたしは冷蔵庫からビールを取り出して、二つのグラスに注いだ。
「乾杯!」
グラスがつくりだす金色の波は、よろこびの渦のようだ。
光を反射して輝く気泡の向こうに、笑顔が見える。
「ああ、しあわせ」
志満さんは、いつもの一杯と同じように、満足そうに呟いた。
営業時間が終わり、片づけが一段落すると、志満さんはお酒かお茶を飲み、しあわせ、と呟く。
「志満さんの写真もあったよ。日本髪をきりっと結った、かっこいい芸者さん姿」
「置屋の向かいに写真館があって、練習によくつきあわされたの。ロスマリンに写真を持っていけば、エビフライ一本おまけしてもらえるからって。ずいぶん撮ってもらったねえ」
「それってまさか、石黒写真館ていうところ?」
志満さんは金春の子狐の営む写真館や街のようすを話してくれた。心なしかお弁当の蓋を取る手つきもやさしく、ハンバーグと緑色のスパゲッティに口元をゆるめた。
「なつかしいこと」
ハンバーグは、祖父との思い出の料理のはずだ。
割り箸を小気味よく鳴らし、志満さんは真っ先にハンバーグに箸をつけた。ひとくちを味わい尽くすようにゆっくり噛みしめながら、目を閉じる。
なじみ客には緑スパと呼ばれる緑色のスパゲッティのソースは、にんにくと青じそでつくられている。スパゲッティと言えば赤いナポリタンだった当時、緑色のスパゲッティは話題を呼んだそうだ。
すっかり食べ終えた志満さんは、がんばっているんだねえ、としみじみひと息をついた。
「アタシの記憶どおりなら、ハンバーグは昔よりも、ソースがさらっとしてる気がするよ。食べやすくなってる。だけどちゃんとロスマリンのお味がする。なんだかいろいろと思い出すね」
ごちそうさまでした、と両手を合わせた志満さんは、片づけながらあの鼻歌を歌っていた。
部屋に戻ると、窓から細い月が見えた。
この板の間はもともと、志満さんの衣裳部屋だったらしい。わたしが来た日には、ここに桐簞笥と三味線、大きな行李が置かれていた。シェアしていた部屋の家具はほぼ処分して、キャリーケースと風呂敷と山のような銘仙ばかりが、今もわたしの家財道具一式だ。
銘仙は、軽くてあたたかく、絹織物としては安価で、化学染料や技術の発展とも重なって、爆発的な流行を生んだそうだ。面白いのは、それまでの着物の文様に加えて、モダンデザインや世のブームをいち早く取り入れ、世界初の人工衛星スプートニク一号や、パリ万博のエッフェル塔など、当時の世情を柄として織り込んだものもあること。
世の変化をたくましく身にまとったしなやかさとしたたかさに、時代と向き合ったひとたちの、静かな力を感じずにはいられない。
だから、銘仙を着ていると、元気をもらえるのだろうと思う。
ここへ来て一年。
志満さんやお客さんたちから教わったことはたくさんあるけど、自分はなにも返せていない気がする。志満さんから学んだ、相手を思う、ということさえ、わたしにはそのひとを信じることくらいしかできていない。
もうすぐ志満さんの誕生日。志満さんの胸中を思うほどに、二人を逢わせてあげたい気持ちが強くなる。
だけど、期限は目前。手掛かりはほとんどない。
こんな不運ばかりのわたしが、誰かをしあわせになんてできるのだろうか。
ふと思い出し、SNSで彩羽さんの番組情報アカウントを見てみると、ごちおじさんの情報が数多く寄せられていた。目撃情報は、並木台や月見が岡など近隣のものが多い。謎ごちがしあわせを呼ぶという噂も本当なのか、宝くじで千円当たったとか、恋人ができたとか報告しているひともいた。かつてごちそうしてもらったという、二十年近く前の情報を書き込むひともいる。しきりに時間旅行者ではと投稿しているのは央樹さんかもしれない。ラーメン店やカレー店、定食屋など、昼夜を問わず出没しているらしい。おじさんと話したひとは誰もいないらしく、目的は誰にもわからないようだ。
彩羽さんが、ぜひとも取材したい、と書き込んでいた。
志満さんの誕生日まではあと一週間ほど。
神さまでも仏さまでもごちおじさんでもいいから、わたしに幸運をください。志満さんのために、祖父を見つけさせてください、と強く願った。
6🍺🍺🍺🍺🍺🍺
元・花街の金春町は、今や、しゃれたオフィスと高級ブティックの立ち並ぶ場所になっていた。この場所にはかつて柳の並木があって、その下を料亭街に向かう芸者さんを乗せた人力車が、ひっきりなしに通ったそうだ。志満さんが修行をはじめた頃に流れていたという川は埋め立てられ、街の名前も区画整理で地図からは消えたけど、一本の柳の木と、古きよき日本家屋が、時代に取り残されたように、今も佇んでいた。
志満さんが暮らした芸者置屋だった場所。今は人手に渡り、会員制の料理屋になっていて、中は見られそうにもない。
その向かいに建つ、ガラス張り五階建てのビルが、今日の目的地だった。
三階に位置する石黒写真館にエレベーターが到着すると、ツイードのジャケットを着た車椅子の老紳士と、よく似た顔立ちの女性が、出迎えてくれた。
「お待ちしていました。あなたが、登満鶴姐さんの、お孫さんですか」
老紳士は、まぶしいものでも見るように、わたしを見て、微笑んだ。
金春町のひとびとが狐になぞらえたのもうなずける、印象的な細面に細い目の持ち主で、娘さんも涼しい目元を受け継いでいた。
近代的なビルの外見とは裏腹に、写真館は、昔ながらの風情に満ちていた。
ゴブラン織りの絨毯や、赤いビロードのカーテンに彩られた室内には、おしろいのような香りがほのかに漂っている。その壁一面には、手前から奥までずらりと写真が飾られていた。家族写真や風景写真とさまざまで、手前はカラー、奥へ行くに従い、モノクロに移り変わる。年代ごとに並んでいるそうだ。
時間を遡るように写真を辿る先に、スクリーンを吊ったスタジオが姿を現す。中央の椅子には、毛の長い茶色い猫が座り、ばっさばっさとしっぽを振っていた。
「そぼろ、そこはダメ、下りなさい」
娘さんに返事をするように一声鳴くものの、大きな猫はそこを動こうとしない。見かねた娘さんが、黄色いフェルトのボールを持ってきて放ると、猫は見事な弧を描いてジャンプし、ボールを前脚で転がしながら、遊びはじめた。
部屋の奥まで進むと、老紳士があるモノクロ写真を指さした。
「これが、昔の、この通りですよ」
芸者置屋は今と同じ姿だけど、周囲が違う。同じような建物と柳の木が並び、着物姿のひとが行き交う。白黒の写真なのに、陰影が繊細なためか、色鮮やかに感じられた。
「登満鶴姐さんがいた頃に比べると、街もずいぶん変わりましたよ。姿は変わらなくても中身が変わったところも、うちみたいに姿は変わっても中身があまり変わらないところも。変わるのは、世の常ですがね」
同じ視点から見つめられた街の風景には、その変遷ぶりが捉えられていた。
わたしは、老紳士に写真を差し出した。
「もしかしたら、これは、こちらで撮っていただいたものではないでしょうか」
志満さんの姿が映る、破れた写真を、老紳士はなつかしそうに見つめた。
「これはね、私が、撮ったものです」
老紳士とともに窓際に移動すると、向かいの建物の瓦屋根と、柳の木が見えた。
「今は一本きりになったあの柳、もとは並木でした。柳には雄株と雌株があるんですが、一本だけ雌株が交ざっていたのか、春先になると綿毛を飛ばす木があったんです。その下に、あるときから、学生さんの姿を見かけるようになったんですよ」
登満鶴姐さんがその木の下を通ると、ちょっと距離をあけて、学生さんも歩き出す。だんだん歩幅が近づいてやがて二人は並んで歩くんです、とその風景を目の前に見ているかのように、老紳士は窓外を見つめた。
「傍目には仲のいい二人でしたよ。失われたこちら側には、その学生さんが写っていました。しあわせな空気が写り込みそうだと、この写真を撮らせてもらったんです。それぞれの立場で、難しいこともあったのでしょうけども。登満鶴姐さんは、そのひとのことを、なんと?」
「いろいろあって、姿をくらましてしまったと聞きました。祖母はもう一度くらい会ってみるのも面白そうと言っていて、できれば逢わせてあげたいんですが、生きているのかさえもわからなくて。祖母も、祖父がいなくなってからすぐ捜せば見つけられたかもしれないのに。こう時間が経ってしまっては」
老人は、手の内の写真をじっと眺めて、おかしいですね、と呟いた。
「姿をくらましたのは、登満鶴姐さんの方だと思いますよ」
「ええっ」
「芸者さんが辞めると言えば、野暮は聞かないのがしきたりですから、詳しくはわかりませんが。登満鶴姐さんがいなくなってからも、学生さんがあの柳の下で待つ姿を何度も見ましたよ。うちにもたずねて来ましたが、こちらもなにもわからないから、写真を撮って差しあげるしかできませんでしたけどね」
その後も一年くらいの間は、たびたび姿を見たという。祖父は、心変わりして志満さんに愛想を尽かしたのではなく、志満さんをずっと想ってくれていたのだ。
「我ながら、なかなかいい写真です。このちょっとはにかんだような表情なんて、よく撮れている」
ほら、と見せられた娘さんが、声をあげた。
「この写真、見覚えがありますよ。この間古いネガを整理したときにたしか」
「おお、それはいい。もしあれば、プリントして差しあげなさい」
感謝で胸がはちきれそうになる。写真があれば、今回は間に合わなくても、いつか祖父を見つけられるかもしれない。最悪、もう逢うことは叶わないのだとしても、かつての二人の写真は、志満さんをほんの少しでも、しあわせな気分にしてくれるのではないだろうか。透磨さんのお店で求めた写真立てに入れて贈ろうと思いつくと、よろこぶ姿が目に浮かぶようで、心がはやる。
たぶん、今わたしが届けられる、最高の誕生日プレゼントになる。
ありましたよ、と奥から響く声に、鼓動が強くなった。
白い手袋をつけた娘さんは、葉書大の薄い桐箱を手にしていた。スタジオ内のテーブルに箱を置き、中から板のようなものをそっと取り出す。ちらりと見えた陰影に、胸が跳ねた。
「今の写真はほとんどデジタルですが、ご存じのようにその前はフィルム。さらに前はガラス板に焼き付けていたんですよ。一枚一枚、薬品を塗ってね。粒子が細やかで解像度が高いんです。その上、割れさえしなければ千年以上も持つと言われていて」
せっかく説明してくれているのに、頭がぼうっとして、うまく頭に入らない。写真とはいえ、はじめての祖父との対面に緊張して、大きく息を吸い込んだ。
ガラス板の状態を確かめた娘さんが、頷いて、こちらに体を向けた。
わたしはたまらず一歩踏み出した。
そのつま先に、なにか軽いものがぶつかった。
ゆるく放物線を描く黄色いものが、フェルトのボールだと認識したとき。そこにすばやく茶色い影が重なり、悲鳴があがった。
一瞬のことだった。
飛び出した猫に足をもつれさせ、娘さんがバランスを崩し、手からするりとガラス板が滑り落ちた。
かしゃん、と軽い音を立てて、写真のネガは、砕け散った。
あまりのことにみな無言になり、光を反射する細かな破片を見つめていた。
まっすぐ家に帰る気になれず、しばらく街をさまよった。
夜更けに帰り着くと、あかりは消えていて、志満さんがもう休んでいることに、ほっとした自分がいた。
気持ちの整理がつけられなかった。この世にたったひとつのものが、壊れてしまったなんて。志満さんと祖父の並んだ姿は、永遠に失われてしまった。二人はもう、写真でしか逢えないかもしれないのに。悔やんでも悔やみきれなくて、胸が潰れそうだった。
どうしてこうもわたしは、不運ばかりなのだろう。
どうして祖父を見つけ出すことはおろか、写真一枚のささやかなしあわせを志満さんに届けることすら、できないのだろう。
こらえきれなくなり、布団の中にもぐりこむと、声を殺して泣いた。
7🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺
どう話したものか迷ううちに日は流れ、志満さんの誕生日を迎えた。
テーブルに並ぶ緑スパとオニオンスープに、志満さんは頬をゆるめる。
夜は店があるので、お昼にお祝いを準備した。志満さんのリクエストで、軽く食べられるものといちごのショートケーキ。もちろんろうそくは二十本。
オニオンスープの仕上げに、カリカリに焼いたバゲットを浮かべる。
パンとたまねぎ。志満さんの好物のはずだ。
志満さんのためにわたしができるのは、こんなちっぽけなことだけだった。
小瓶のシャンパンを注ぎ、わたしたちはグラスを合わせた。
「志満さん、お誕生日おめでとう」
いつものように志満さんは、ああしあわせ、と目を閉じた。
細胞という細胞に、そのしあわせが、浸透していくのを待つみたいに。
時間にすればわずかな、十秒ほどもないそのひとときが、なにかとても大きなものにつながる、敬虔な祈りのように感じた。
志満さんはスープをひとくち飲み、大きく頷いた。
「おいしい。希乃香、料理の腕前がぐんとあがったね。店に出しても遜色ない」
笑みを返したけど、そのお店はもうすぐ、閉じることになる。一度くらい、わたしも誰かのために心を尽くせたらよかったのだけど。ため息を押し殺してプレゼントの写真立てを渡すと、志満さんは浮彫を指先でなぞり、よろこんでくれた。
「きれいだね。四隅に彫り込まれた花が、どれも表情ゆたかだこと」
「イギリスのものなんだって。透磨さんのお店で見つけたの。そこに飾る写真も、見つかりそうだったんだけど……」
あの破れた写真のネガが見つかったけれど、割れてしまったこと。そして、今日までに、祖父は、見つけられなかったこと。
わたしの話に、志満さんは、静かに耳を傾けていた。
「わたし、志満さんに、なにもしてあげられなかった。しあわせに、してあげられなかった」
志満さんは、スプーンを置くと、軽く息をついた。
「アタシは十分、しあわせなつもりだよ。しあわせ、っていうのは、誰かから与えてもらうものではないの。それは、自分でつくり出すもの」
志満さんはボトルを手にして、シャンパンを注いだ。
「毎日のしめくくりの一杯が、アタシのしあわせのあかしですよ。生きるのは変化の連続、楽なことばかりではないでしょう。だからこそ、その一日がどんな一日であっても、生き抜いた自分に、言葉をかけてあげたいじゃないの。今日も、ゆたかに生きました、って。そうやってゆたかに生き抜いた日々が積み重なれば、いつかうしろを振り向いたときに、自分にしか歩けなかったゆたかな人生が、必ず、見えるものですよ」
そうしてシャンパンを口にすると、ああしあわせ、と目を閉じる。
「不運ばかり、失敗ばかりでも?」
「人生に失敗なんて、あるものですか。そのときどきでうまくいかないことがあったとしても、それは失敗じゃなく、めぐりあわせですよ。仮にうまくいかないのなら、その場所は、うまくいくための経由地なの。時間が経てば、それも必要な経験だったと思えます。アタシはね、ひとの未来はすべてしあわせにつながってると思いますよ」
志満さんは、緑スパをフォークに巻き付けると、このスパゲッティはもともと違う形になるはずだった、と話してくれた。
「本場のバジリコスパゲッティをつくりたかったそうですよ。だけど当時はまだ国内ではバジルは栽培されていなかったの。バジルもシソも同じシソ科だから、シソにしたと聞きましたよ。だけどそれがアタシたち食べる側にとっては、魅力的だった。自分では不運だ、不幸だと思っても、見方が変われば、見えるものも変わりますよ」
口に含むと、にんにくの香りの奥に、爽やかなシソが、すうっと広がる。バジルのスパゲッティもおいしいけど、これはこれで、別のおいしさがある。
ふと、思い至った。勘違いされて働く不運がなければ、このソースを教えてもらうこともなかったし、写真館で祖父の話を聞くこともなかった。今までも、そうだったのかもしれない。塾で磨いたカウンセリングスキルが役立って、営業職に就くことができた。デパ地下の弁当店では一緒に住むほどの仲良しの同僚ができた。広告制作会社に勤めたからこそ取引先だった雑誌社に拾いあげてもらい、写真館で覚えた着付けが役立って、アンティーク着物店で仕事ができた。
わたしが、不運だ、不幸だとほろ苦く思っていたことは、見方を変えれば、わたしに新たな経験を与え、自分を広げて、ゆたかにしてくれることでもあった。
そして、どの経験が欠けても、たぶんわたしはここにいない。
たくさんのめぐりあわせが重なって、今この瞬間につながった。
「希乃香。アタシはしあわせ。おじいちゃまが見つからないのは、そういうめぐりあわせ。そこにしか見えない景色がきっとあるの。気に病むことはないよ。こうしてなつかしいお味にも出逢えたし、金春の子狸子狐も、古狸と古狐になってそれぞれ元気にやってると、うれしい知らせも聞くことができたしね」
「写真館のひとが言ってた。消えたのは、おじいちゃまじゃなくて、志満さんの方だったって。志満さんがいなくなってからも何度も、柳の木の下で待っていたそうだよ。おじいちゃまは、志満さんのことを、ずっと想っていたんだと思うよ」
志満さんは軽くうつむいて、ふっと口元をゆるませた。
うれしそうでもあり、さみしそうでもあるその微笑みが、胸を締め付ける。洋食店で聞いた歌のことを思い出した。志満さんは、祖父のしあわせをずっと祈っていたのだろう。
「それが聞けただけで、アタシは、十分。お店も、今までたくさんの出逢いに恵まれて、十分。今月末で、おしまいにしましょう。夕食店シマは、アタシの店。希乃香には、希乃香の場所がたぶんあるのだから」
8🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺
並木台駅周辺は、いつもと違い、ものものしい雰囲気が漂っていた。
商店街へ抜けるまで何台ものパトカーとすれ違い、あちこちに警官の姿を見かけた。
なにか事件でもあったのだろうかと、店に着くなりたずねてみたけど、貴璃さんも知らないようだった。
「末日にアレンジメント二つ、お届けしますね。なにかお色のご希望あります? その羽織みたいな、濃いピンクもかわいいですけど」
貴璃さんは、花唐草の織り出された牡丹色の羽織を、ほめてくれた。
夕食店の閉店が決まり、月末の最終日はお世話になったお客さんをお招きして、閉店パーティを催すことにした。通常営業はその前日で終え、パーティ当日はわたしが腕を振るい、一日限りの店主を務める。湿っぽいのは嫌だという志満さんの希望で、ぱっと華やかに、幕を引くことにした。
伝票を受け取ったとき、貴璃さんとわたしのスマホが、同時にけたたましく鳴った。
「区役所からですね」
「イノシシ?」
思わぬ報せにわたしたちは顔を見合わせて、もう一度その文面に目を通した。
区役所からの緊急メールには、イノシシの目撃情報と、外出の際には注意するように、もし見かけても近寄らないように、と注意喚起が記されていた。
あの警官たちは、このための警備に当たっていたらしい。
「注意って言われても、どうしたらいいのか」
「前に八百禅さんと父が話してたけど、大きな音とか、びっくりすると、逃げていくみたいですね。でも、素人が変に刺激しない方がいいですよ、突進しなくても、五、六十キロくらいの石も動かすくらい、力が強いって聞きましたし」
再び、貴璃さんのスマホが鳴った。
「希乃香さん、ごちおじさんも近くにいるみたいですよ」
貴璃さんは、央樹さんからの「オクラ座の怪人現る!」というメッセージ画面をわたしに向けた。彩羽さんの番組情報アカウントに並木台の商業施設で行列、と情報が寄せられたという。央樹さんは山形に出張中だそうで、行けないのをかなり悔しがっていた。
「意外ですね、商業施設って新しくできたばかりなのに。央樹このところ、出現予想マップをつくっていたんですよ。ごちおじさんが現れた場所を調べていくと、少なくとも並木台界隈で現れたお店は、比較的前からある、地域になじんだお店なんです。でも、もうほとんどに現れてるんですよね。その条件に当てはまって、まだごちおじさんが訪れていない場所は、うしろむき夕食店くらいなんですよ」
迷って辿り着けないのかも、と貴璃さんが笑う。
「閉店はすごく残念ですけど、パーティ、楽しみにしてますね」
イノシシに気をつけてと送り出されて外に出ると、防災無線が注意を呼び掛けていた。
報道によれば、イノシシは、自然保護園から逃げ出したらしい。
広場につながる鉄格子フェンスの一部が壊れ、外に出たそうだ。二頭のうち一頭は無事捕獲され、もう一頭が街に出たという。
区役所の車が、防災無線と同じ文言を繰り返しながら、目の前を通りすぎていく。
イノシシは二頭とも雌で、牙は短いものの、あごの力が強いため油断は禁物らしい。
たしかに、鉄格子フェンス越しにジャンボ焼き鳥をめぐって争ったイノシシの力は、かなりのものだった。平常時であの力なら、全身で突進などしてきたら、ひとたまりもない。できることなら、出逢わずにやりすごしたい相手だ。
立ち並ぶ警官たちの手には、刺股や大きめの虫取り網のようなものが握られていた。実際に出くわしたときに、どれほど役に立つのかと考えつつ、横をすり抜ける。
志満さんには開店頃に戻ると言ってある。
ごちおじさんを一目見てから帰ろうかと、好奇心がむくむく頭をもたげ、わたしは商業施設に足を向けた。
いつもは前庭に並ぶ屋外用のテーブルや椅子も、今日ばかりはイノシシのせいか、すっかり片づけられていた。ちょうど正面入り口から出てきた制服姿の高校生たちが、うわずった声で、都市伝説じゃなかった、本当だった、などと話している。
「やっぱり出たんですね、ごちおじさん」
急に聞こえた声に隣を見ると、いつの間にか、彩羽さんが立っていた。投稿を見て、職場から飛んできたそうだ。彩羽さんはあたりを見回して、イノシシはいませんね、と呟く。
「カクさんが逃走中だそうですよ。もう一頭のシンさんは性格がおとなしいせいか、入場ゲートから中に戻ろうとしたところを、保護されたそうです。カクさんは好奇心旺盛だから、街の中に飛び出しちゃったんですって」
彩羽さんは鞄からマイクと小型の録音機材を出して準備すると、イヤホンを片耳にはめ、行きましょう、とわたしを誘った。
高校生たちは、彩羽さんが声をかけると、いつも聴いてますと色めきたった。中には、歌が下手なひとですよね、などと言ってくる子もいてハラハラしたものの、彩羽さんは慣れたようすで答えていた。
ごちおじさんは、フードコート内の稲荷寿司店に現れたという。彼らが試しに行列に並んでみたところ、本当にごちそうされたのだそうだ。高校生たちはしあわせになれると浮かれて、明日のテストのヤマが当たるようにとか、小遣いがあがるようにとか話しながら、にぎやかに去っていった。
稲荷寿司店をたずねると、ごちおじさんの噂は知らず、ただの太っ腹なおじさんだと思ったそうだ。稲荷寿司店は昔このあたりに店舗があり、再開発で商業施設にテナントとして入ったという。
彩羽さんが、腕を組んで、わたしを見る。
「盲点でしたよ。老舗だけど営業形態を変えたお店は、ノーチェックでした。並木台界隈で次に出現するとしたら、うしろむき夕食店じゃないかと思ってました」
カフェを通ると、カウンターに透磨さんの姿があった。
立ち寄って話を聞くと、透磨さんも出勤時に、行列を見かけたという。フードコートから正面入り口まで列が続いていたらしい。
振り向いた先、通路側の棚の一角に、透磨さんのお店にあったようなすてきなアンティーク雑貨がいくつかと、リボンのかかった白い箱がたくさん置かれていた。
「店長が、店の棚を使わせてくれて。期間限定でここで販売させてもらっているんです」
他にもスタッフの発案で、和スイーツとコーヒーの組み合わせを紹介するフェアなども行っているそうで、わたしたちもお団子をすすめられた。
「希乃香さん!」
声に振り向くと、宗生さんが片手をあげていた。
宗生さんはお団子を三本も注文して、わたしたちと一緒にカウンター席に落ち着くと、鞄から雑誌を取り出した。
央樹さんの愛読雑誌だという、超常現象などを扱う誌面の片隅に、ごちおじさんの記事があった。現代の都市伝説か生ける伝説か、と煽る記事には、番組をあげての捜索状況を語るシュトラジのひとのコメントまで掲載されていた。彩羽さんの上司らしい。目は隠れているけど、癖毛と服装から間違いないと、彩羽さんが額に手をやる。
宗生さんも、央樹さんからの知らせで、ごちおじさんを捜しに来たらしい。
「次に出るなら、うしろむき夕食店だと思っていたんですけどね」
宗生さんはそう言って、お団子二本をあっという間に平らげた。
三人とも、口々に閉店を残念がってくれる。
「ごめんなさい、ご贔屓にしていただいたのに。彩羽さんには、証人もお願いしたのに」
「私、全部見てましたよ。希乃香さんが、がんばってきたこと」
鼻の奥がツンとした。
「お店のことは残念ですけど、希乃香さん、変わりましたよね。私たちのためにお店を守ろうとしたり、おじいさまのことも、志満さんのために捜してたり。その思い、別な形ででも、叶ったらいいですよね。希乃香さん、私の願いがととのうようにって一緒に信じてくれたでしょう。あれ、すごく元気がもらえました。だから今度は、私が希乃香さんを信じる番。希乃香さんなら、大丈夫」
宗生さんや透磨さんも、彩羽さんの言葉に重ねて、励ましてくれる。熱くなる目頭を押さえたとき、宗生さんが急に声をひそめた。
「すぐに振り向かないでくださいよ。今、あの箱の置いてある棚のうしろから立ちあがったのって、もしかしたら」
そっと顔を動かしてみると、逆さになったかぶの描かれた茶色いジャンパーと、ハンチング帽の後ろ姿が見える。
「ジャンボ焼き鳥屋台と同じひとですね」
透磨さんが頷く。宗生さんが最後のお団子を、手に持った。
わたしたちは、おじさんの後ろを、そっと尾行しはじめた。
ごちおじさんは、正面入り口を出ると、いちょう並木の方へ歩き出した。
空が藍色に染まり、オレンジ色の街灯がともる。
おじさんの歩幅は大きく、ゆるやかなのぼり坂を、少しも速度を落とさず、ずんずん進む。いや、むしろ速度は、あがったようだ。
宗生さんは食べ終えたお団子の串を鞄にしまうと、軽く舌打ちした。
「気づかれたっぽいですね」
心臓が暴れるように跳ねるのに、わたしたちより明らかに年上のはずのおじさんの足取りは、少しも乱れない。央樹さんの言うように、年を取らないひとなのだろうか。今やおじさんもわたしたちも、ほとんど競歩のようにせわしく足を動かしている。
耐えかねた彩羽さんが、背中に声をかけた。
「あの! シュトラジの高梨と申します! 少しお話を伺えないでしょうか!」
おじさんの背がびくりと跳ねて、いよいよ小走りになった。
宗生さんは、大きく息を吸い込むと、ぐんと抜きん出て、おじさんめがけて走り出した。
おじさんと宗生さんの背中が重なって見えた瞬間、二人はその場に倒れ込んだ。急に立ち止まったおじさんに、宗生さんがぶつかったらしい。
「だい……!」
じょうぶですか、の言葉を、口に手を当てて呑み込み、立ち止まった。
ごちおじさんと、宗生さんの視線の先に、大きく黒い影が動いていた。
9🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺
店へ曲がる角のあたり、産直自動販売機の前で、大きな影は頭を動かしながらなにかを食べているようだった。風に乗り、かすかに、山のような、土のような香りがする。
街灯の照らすシルエットは、イノシシに見える。
カクさんだ。
彩羽さんは、即座に警察に通報し、カクさんの詳しい位置をてきぱきと告げた。
カクさんは、足元のものを食べ終えると、自販機から突き出たものを引きずり出して食べはじめる。形からすると、タケノコらしい。時折頭を左右に振るのは、皮を剥いでいるようで、なかなか美食家なんだなと、こんなときなのに感心してしまう。
わたしたちからは三十メートルほど先、宗生さんとごちおじさんからは十五メートルくらいだろうか。至近距離に入るだろう。このまま突進でもされたら、大変なことになる。
はやく警察が来てくれないかと祈る中、ごちおじさんが立ちあがった。
「下手に動かない方がいいですよ!」
宗生さんが押し殺した声で、おじさんの茶色いジャンパーの裾を引っ張る。
カクさんの動きが、ぴたりと止まる。おじさんも、中腰のまま動きを止めた。
宗生さんはカクさんのようすを確認しながら、鞄の中に手を入れ、しきりに動かしているようだ。
サイレンのような音が遠くから響いてきて、わたしは少しほっとした。激しく打ち付ける鼓動のせいか、サイレンの音が間延びして聞こえる。
ごちおじさんは、肩越しにわたしたちを見、頭全体を押さえるようにして帽子をかぶり直すと、足を踏み出した。宗生さんがそれを止めようと慌てて声をかける。
その音に反応でもしたのだろうか。弾かれたようにカクさんがタケノコから顔をあげて、こちらに鼻先を向ける。おじさんが片足を踏み出した格好で足を止めた。
心臓が轟くようで、手のひらにじっとりと汗がにじんでくる。
カクさんとおじさんは、お互いの出方を確かめているようで、睨み合ったまま動かない。今わたしになにができるのか、考えが上滑りして、まるで思いつかない。
宗生さんは必死にごちおじさんを落ち着かせようと、後ずさりするよう説得を試みている。だけどおじさんはちらちらとわたしたちを見て、それを渋っているようだ。ようやく数歩、二人がこちらへ下がったところ。
カクさんが前脚で地面を掻くような仕草をした。
まずい、とたぶん誰もが思った。突進の前には、こんなしぐさをするのではなかったろうか。
宗生さんはごちおじさんを背に庇い、逃げて、と鋭く言って、手にした雑誌を筒状に丸めた。細く尖らせたものをそこに入れると、口元にすっと構える。
手製の吹き矢らしい。見間違いでなければ、それはお団子の串と紙でつくられていた。
イノシシは繊細な動物だという。うまくいけば驚いて立ち去るかもしれない。ただ、腰が引けているところを見ると、宗生さんにもあまり自信はないようだ。
勢いよく放たれた矢は、カクさんの鼻先に命中した。が、あっけなく足元に落ちた。
カクさんは、いかにも不機嫌そうに、ぶふ、と鼻を鳴らし、身震いする。
ごちおじさんは一歩ずつ後ずさりしながら、宗生さんとわたしたちの中間まで来た。
サイレンの音は徐々に大きくなるものの、低音のリズムが一緒に刻まれているようだ。少なくとも警察のサイレンとは違う。むしろ音楽に聞こえる。
音。はたと、貴璃さんの話を思い出した。
「彩羽さん、マイク! なにか音を! 大きな音が苦手だって聞きました!」
彩羽さんはすばやくマイクを構え、大きな声で歌いはじめた。あせっているのかマイクは電源が入っていないけれど、十分に声量がある。
カクさんが再び身震いをした。
はじめて聞く歌だけど、歌詞は「君といつまでも」によく似ていた。
ごちおじさんはぷっと吹き出すと、こちらに体を向け、身を屈めて肩を震わせる。
そのとき、カクさんがぐっと頭を低くして、地面を蹴った。
宗生さんは道の端に逃げたが、おじさんはカクさんに気づいていない。
「危ない!」
私は羽織を脱ぎながら走り出し、ごちおじさんを突き飛ばした。
イノシシは足が速いって本当だ。瞬く間にカクさんは目前に迫っていた。
体をひねり、羽織を持つ右手をぴんと大きく伸ばす。
牡丹色の羽織が広がる。唐草文様の一部が、ハート形の猪目だと気づいたとき。
間近に迫るカクさんと目が合った気がした。
次の瞬間、ぐんと大きな衝撃とともにカクさんが羽織に突っ込んだ。
耐え切れず手を離すと、カクさんは羽織ごと走り抜け、やがて羽織を振り落とすと、方向を変えて、車道を横切りT字路へ走り去った。
一瞬の出来事が、ひどく長く感じられた。緊張にせきとめられていた血が一気に流れ出したようで、頭がぼうっとする。彩羽さんがすかさず警察に連絡を入れる声がぼんやり聞こえた。
近づいてくるサイレン付きの音楽が、陽気なレゲエだと気づくと、体中からへなへなと力が抜け、その場にしゃがみこんだ。軽トラックが自販機の前に停まり、降りてきた禅ちゃんがタケノコの惨状に悲鳴をあげる。
T字路を、パトカーの回転灯が通りすぎていった。
ごちおじさんを助け起こす彩羽さんが、まばたきを繰り返して、おじさんの顔をのぞき込む。おじさんの生え際からは白髪がのぞき、マスクの外れた頬の一部には、白髪に見合う皺がしっかりと刻み込まれている。その横顔は、どう見ても。
「松嶋さん……、松嶋孝蔵さんですよね」
禅ちゃんが、なんかのロケ? と宗生さんにたずねている。志満さんがいたらどんなによろこんだろう。松嶋さんは、長いため息をつくと、カツラを引き剥がし、お久しぶりです、と彩羽さんに軽く頭を下げた。
「あなたが絡みはじめたと聞いて、いつかこういう日が来るのではと気に病んでいました。私だと知られると、いろいろと不都合があるのは、お察しくださいますね?」
眼光鋭く、松嶋さんは、彩羽さんとわたしたちをぐるりと見回した。
彩羽さんは、マイクをしまい、口外しないかわりに真相を聞かせてほしいと持ち掛ける。松嶋さんはしぶしぶ、恩人を捜している、と話し出した。
「学生時代のことです。食事の後に、持ち合わせが足らないと気づいて、ひどく困ったことがありましてね。そのときに、同じ店にいたひとがなにも言わずに食事をごちそうしてくれたんです。今はどこにいるかもわかりません。でも同じ状況を耳にしたら、私をなつかしんでくれるか、名乗り出てくれないかと思いましてね。もっとも、この世にいるかどうかもわからない。半分は自己満足なのですが」
ロケなどに出かけた先々で、繰り返してきたのだという。
目の前の松嶋さんは、映画と同じように渋い声で話すけど、凜々しいのは役柄なのか、ご本人は物腰やわらかく、とてもやさしいひとに思われた。
「つまり、年を取らないわけではなかったのですか……」
宗生さんがたずねると、松嶋さんは日々鍛えている成果だろうと答えた。
「職業柄、年若い役を演じる際のメイクも心得ておりましてね。長年の筋トレのおかげか昔と服のサイズも変わりません。これは、恩人が描いてくれた絵をもとに特注したものでして。ずっと大切に着ているんです」
松嶋さんは、逆さのかぶ柄のジャンパーの袖を、いとおしそうにひとなでした。
「みなさんに、とりわけ勇敢なお嬢さんに、助けられましたね。ご自分の危険も顧みず、助けてくださった。あのままイノシシに直撃されていたら、役者生命もままならなかった」
祖母には無鉄砲と言われると話すと、松嶋さんは違いないと笑う。うちの店で休まないかと声をかけたとき、黒塗りの車がすっと横に停まった。
「そろそろ失礼しなければ。ぜひお礼をさせてください」
懐から財布を取り出す松嶋さんの手を、そっと止める。
「あの、もしよろしければ、お願いがあるんです」
10🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺
「まるでお花畑みたいだこと」
貴璃さんが届けてくれたお花を見るなり、志満さんは両手を胸に置いた。
わたしの注文の他に、禅ちゃんや透磨さん、彩羽さん、貴璃さんのお店に、ご近所の方や洋食ロスマリンと石黒写真館からも、色とりどりのアレンジメントや花束が贈られた。カウンターやチェストの上だけでは置ききれず、テーブルなどあちこちに飾ると、店内が華やいだ。
「お料理、すごくおいしそう。希乃香さんがつくったんでしょ? みんな来るまで待ってられないなあ」
「お味見歓迎ですよ、お酒も、どうぞ練習しててください」
お料理はビュッフェ形式で、好きなものを、好きなだけ食べていただけるように、店の真ん中に動かしたテーブルに、大皿にたっぷりと盛りつけて並べた。
枝豆とクリームチーズのポテトサラダ、タコの唐揚げに、ふきのとうのコロッケ、クレソンとかぶのサラダ、いわしの南蛮漬けに、志満さんのぬか漬け。
もうすぐ、きのことほうれんそうのラザニアが焼きあがるほか、順次お料理を出せるように仕込みは万端。お酒も、カウンターに並んだものから、好きに召しあがっていただくよう準備した。
貴璃さんはさっそく小皿にふきのとうのコロッケをとりわけて、スパークリングワインと合わせて楽しんでくれている。
禅ちゃんが届けてくれたふきのとうでつくった小ぶりなコロッケは、ほろ苦く、春の息吹を体に吹き込んでくれる気がした。ここに来た頃には敬遠していたあのほろ苦さも、今はゆたかな味だと感じる。
鈴の音がして、透磨さんと深玲さんがやって来た。席に案内してグラスとお皿を準備すると、カウンターを見て、こんないいお酒出しちゃうんですか、と顔をほころばせる。深玲さんにと用意したホットアップルサイダーもとても喜んでくれた。透磨さんは、カフェでのアンティーク雑貨の販売が好評らしく、棚を常設してもらえることになったらしい。
続いて訪れた禅ちゃんは、食べられる花をたくさん持ってきてくれた。サラダと一緒にライスペーパーに巻くと、花が透けてとてもきれいな一品になった。
央樹さんとともに訪れた和可子さんは、商店街のケーキ屋さんのババをたくさん持ってきてくれた。貴璃さんのおかげで知ったケーキらしい。和可子さんは透磨さんと顔見知りらしく、和やかにあいさつを交わしていた。央樹さんが、ごちおじさんの目撃情報が急に途絶えたのを不思議がっているのが聞こえる。
宗生さんは紙細工で金と銀のガーランドをつくってきてくれ、彩羽さんは自然保護園の取材帰りだそうで、カクさんとシンさんのタケノコもぐもぐタイムが人気だと教えてくれた。
母も少し遅れて到着すると連絡が入った。
厨房に戻り料理を続けていると、料理テーブルあたりの立ち話が聞こえてきた。
うしろむき夕食店と呼ばれるのに、気持ちがうしろを向くときでも、ここで食事すると前を向ける気がする、という誰かの言葉が、胸にしみた。力が及ばず申し訳ない気持ちにもなる。せめてこれまでの感謝の思いを精一杯に込めて、腕を振るいたい。
貴璃さんが鼻をひくつかせて、厨房に顔をのぞかせた。
「いいにおい。希乃香さん、なにが出来上がるの?」
「ハンバーグです。志満さんにおみくじを引いてもらいました」
三方を差し出すと、はじめてだ、と志満さんはびっくりしていた。
「そういえばこれまで、アタシが引いたことはなかったねえ」
「志満さん、どうしておみくじをはじめたの?」
志満さんは、目尻に皺を寄せる。
「おじいちゃまは、どれもこれもおいしそうに見えるからと、メニューを選ぶのにひどく時間がかかるひとでね。こういうのがあれば、ぱっと決められると思ったの」
注文に迷うお客さんに出してみたところ評判がよかったのだという。志満さんの細い指先が、おみくじをつまみあげた。
「あら、いい兆し。『待ちびと来たるハンバーグ』。今日はたくさんお客さまがいらっしゃるもの、ぴったりね」
よく当たる、とわたしもびっくりした。
今日のパーティには志満さんに内緒で、サプライズゲストを招いてある。おじいちゃまには逢わせてあげられなかったものの、いつも封切りに映画館へ飛んでいくほど好きな俳優さんが姿を現したら、志満さんはきっと驚き、よろこんでくれるに違いない。
「おじいちゃまと逢わせてあげたかったけど……」
「その思いだけで十分。そういう星のめぐりあわせなんでしょう。アタシは大丈夫。大切なお守りがありますからね。あの言葉が」
あなたとならパンとたまねぎ。
それは、大好きな相手と一緒にいられるのなら、パンとたまねぎだけの貧しい暮らしもいとわない、という意味のことわざなのだそうだ。その言葉が、おじいちゃまから志満さんへのプロポーズだったのだという。
「アタシは、しあわせっていうのは自分でつくるものだと思うけど、それでも、誰かをしあわせにしたいっていう思いは大切だと思いますよ。おじいちゃまとアタシは、お互いをしあわせにする道が、重ならなかったけれどもね」
志満さんは、おじいちゃまに出逢えたことも、この店でたくさんのひとたちに出逢えたことも、アタシをゆたかにしてくれました、と微笑んだ。
「ひとの世は、選択と決断の連続だから。めぐりあうものや選び取るものが連なって、人生っていう長い長い時間になるのだもの。それは、そのひとにしかつくれない、ただひとつの、宝物ですよ」
志満さん直伝のハンバーグは、たまねぎとパン粉をたっぷり入れる。
ハンバーグをつくるたびに志満さんが呟く、たまねぎとパンはよく合うから、という言葉を祈るように唱えて、塩やスパイスと一緒に合い挽き肉をこねた。
ハンバーグは噛むごとにやわらかくほどけて、たまねぎのしゃきっとした食感とほのかな甘みが、ソースのゆたかな味わいから、ふと顔を出す。
出来あがったハンバーグを並べ終えると、志満さんがグラスを手に、カウンターの前に進み出て、挨拶をはじめた。
「夕食店シマは今日でなくなりますが、ここでみなさまがすごしてくださった時間は、なくなりません。ここで出逢ったひととのかかわりも、消えません。みなさまお一人お一人が、このお店の心を、受け継いでくださるのだと思います。今まで、ありがとうございました」
わたしも志満さんの横に並び、一緒に頭を下げる。
「では、みなさま、グラスを」
それぞれが手にグラスを掲げたとき。
扉に結ばれた鈴が、りん、とさやかな音を立てた。
颯爽と正面から入ってきたひとの姿に、志満さんは、目を大きく見開いた。
突然の映画俳優の来訪に、和可子さんが小さな悲鳴をあげ、店はどよめいた。
その反応に驚いたのか、松嶋さんも志満さんを見たまま、固まったように立ち尽くす。
「希乃香。あなた、どなたをお招きしたの……?」
「ご覧のとおり、松嶋孝蔵さんですよ! びっくりしたでしょう?」
ひょんなことから知り合い、無理に都合をつけてもらったのだと話すと、志満さんはまだ信じられないとでもいったようすで、松嶋さんをじっと見つめた。
みんなで乾杯した後、志満さんと松嶋さんは同じテーブルについた。目尻に柔和な皺を浮かべて、松嶋さんも志満さんを見つめる。
「お変わりありませんね、登満鶴さん」
「あれ、お知り合いだったんですか? 志満さんそんなことひとことも言わないんだもの!」
松嶋さんはわたしに、あなたがお孫さんとはすごいめぐりあわせです、とうれしそうに言った。
「この方が私の恩人です。洋食屋でハンバーグを食べたあと、持ち合わせが足らないと気づいて困っていたのを、隣の席にいた登満鶴さんが、いつの間にかごちそうしてくださっていたんです」
「志満さん、洋食屋さんでご縁ができやすいんですね。わたしの祖父も」
口にして、はっとした。
祖父も、洋食屋さんで隣に座り、ハンバーグを食べていたはず。
志満さんに向き直ると、ゆっくり頷き、静かに言った。
「この方のご本名は、小島孝一さんというの。希乃香。あなたがお招きしたのは、おじいちゃま」
目を丸くした松嶋さん、もとい孝一さんは、言葉を失い、志満さんとわたしを何度も見比べた。
「では、あなたが私の前から姿を消したのは、私に愛想を尽かしたからではなかったと……?」
志満さんは、こんなことがあるなんて、と呟くと、ゆっくり息を吐きだした。
「孝さん。あなたが映画のオーディションに受かった日、アタシも病院で身ごもったと知ったの。最初はちゃんと話すつもりだったんですよ。だけど、ほんの端役を受けたはずなのに、あなたは主役を射止めた。曲がりなりにも芸の道の厳しさは知っているつもりです。このひとは立派な俳優になるとわかった。そのために必要な道を、アタシや生活のためでなく、あなた自身のために選んでほしかったし、足枷になりたくなかったんですよ」
孝一さんは、志満さんとの交際を実家に大反対され、仕送りを止められていたという。それでも一緒になろうと、志満さんに結婚を申し込み、生活のためにオーディションを受けたのだそうだ。
お互いをしあわせにする道が重ならなかったと言っていたのは、こういうことだったらしい。
「……でも、こうして、また会えた」
孝一さんが付け加えると、あちこちから、洟をすする音が聞こえてきた。見れば、和可子さんと央樹さん、それに透磨さんが、目と鼻を真っ赤にしていた。
「孝さん、あなたの娘も間もなく到着しますよ。孫娘のつくったハンバーグでも召しあがっていてください。パンとたまねぎたっぷりの」
「その言葉が、私をここに導いてくれたんですよ。高梨さんの番組でパンとたまねぎの話を聞いて。この界隈にもしかしたら、あなたがいるのではと」
昔、志満さんが描いたたまねぎの絵を服にした、と孝一さんが話す。あの逆さのかぶのようなものは、たまねぎだったらしい。
「おじいちゃまも、みなさんも、お料理、どんどん召しあがってくださいね。まだまだたくさんありますから」
スモークハムのジャーマンポテトに、トマトのブルスケッタ、鶏の山椒焼き、茄子の煮浸し、タケノコの木の芽和えを並べる。孝一さんが青じそのスパゲッティを、緑スパ、とよろこんでいた。
「よく迷わずに辿り着きましたね。わたし、最初に来たときは迷いました」
「いや、私も迷いましたよ。でも、弾むように歩く犬かなにかを見かけましてね。なにかいい兆しかもしれないと、追いかけてみたんです」
どういうわけか、道に迷った誰もが、そんななにかに出逢っていた。
あれはなんだったのだろうと話すみんなのようすに、志満さんは穏やかな笑みを浮かべて、孝一さんのグラスにビールを注いだ。
巻き戻しも、やり直しもきかない、不自由に重ねる時間の中で、ひとつだけたしかなものがあるとしたら、自分で選び取り、進む、一日一日でしかない。
未来を見ることは難しくても、うしろを振り向けば、辿ってきた日々は、そこに残っている。そのひとにしか醸せないゆたかな時間として。
そうしたゆたかな時間を過ごすもの同士が、ひとときを重ね合う。
だからこそ、誰かとの乾杯の時間は、こんなにも心が満たされるのだろう。
そうして志満さんは、わたしに微笑んだ。
「乾杯をやり直さなくてはね」
志満さんは立ちあがって、グラスを手にするよう、促した。
「さきほどの挨拶のとおり、夕食店シマは、閉店いたします。でも、きっと近いうちに、ここにまたあかりがともるでしょう。新しい店主が切り盛りする、新しいお店として。ねえ? 希乃香」
「志満さん……!」
「もちろん、選ぶのはあなただし、行動するのもあなた。あなたには、自分の世界を変えることができる力があるの。あせったり迷ったりしたら、一度うしろを振り返ってごらんなさい。誰かの道をなぞるのじゃなく、あなたは、あなたの道を、歩いてきていると、ちゃんとわかるはずだから」
どうぞ今後ともご贔屓に、と頭を下げる志満さんを、拍手が包み込んだ。
それぞれが、思い思いの飲み物を手にする。
その笑顔のひとつひとつを、わたしは改めて見つめる。
誰かの笑顔が、よろこびでつながるこの風景を、ずっと見ていたいと思った。
声とともに、みんなが晴れやかに、グラスを掲げた。
「乾杯!」