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失せ物いずるメンチカツ【うしろむき夕飯店*四の皿】

ポプラ社さん、新人作家冬森灯さんとコラボした『うしろむき夕食店』プロジェクト。毎月第三金曜日に新しい物語をお届けしています。

それでは、第四話『失せ物いずるメンチカツ』をお楽しみください。

▼これまでのお話はこちら

一の皿*願いととのうエビフライ
二の皿*商いよろしマカロニグラタン
三の皿*縁談きながにビーフシチュー

▼うしろ向き夕食店プロジェクトについてはこちら

一気に読み切れない方のため、区切りのいいところで「栞」として🍺を入れることにしました。今自分が「何杯目のビール」まで進んでいるかをご確認いただきながらまた小説の世界に戻ってきてもらえればと思います。

1🍺

 並木台駅、北口から続く、いちょう並木を歩きましょう。

 曲がりたくなったり、そわそわしたりしても、T字路ギリギリまで、約十分くらいは。

 ああもう限界、突き当たりだ、と思った頃に見える、自動販売機の角を左です。

「どう? 深玲(みれい)、限界感じる?」

「ゆるいのぼり坂には、割とうんざりしてる。でもまだ限界っていうほどじゃないかな」

 深玲は腰に届く黒髪を揺らし、白いダッフルコートのポケットに手を入れた。

 僕はメール画面を閉じて、枝ばかりの木を見あげる。てっぺんに重なった星が、飾りのように瞬いていた。

 冴えた空気のせいか、穏やかな街あかりのためか、今日は星がひときわきれいに見える。駅から続く大通りなのに、商店街と反対側に延びるこちらの町並みは静かで、夜道を明るく照らす店もない。この半分眠ったような街のどこかに、うしろむき夕食店と呼ばれる店があるという。

 透磨(とうま)さん絶対好きだと思いますよ、と仕事相手の貴璃さんに教わった。

 店の本当の名前は他にあるのだけど、少し昔の時代を振り返る気分になるからと、そんなあだ名がついたと聞いた。今ではあだ名の方が通りがいいそうだ。

 古いもの好きの透磨さんなら気に入るはず、奥さまとぜひ、とすすめてくれた。

「自販機もなさそうだよ。光るものなんて見つからない」

 深玲は首を伸ばすようにして、あ、と声をあげる。

 小走りに駆け寄ったトタン屋根の商店に、白いロッカーのようなものが佇んでいた。

「透磨、これのことかもしれない」

 たしかに側面には産直自動販売機という手書き文字が並んでいるが、プールの更衣室にでもあるような、透明窓のロッカーだ。深玲は額をくっつけるようにしてのぞきこむ。縦に六室、横に二列の個室はどれも閉まり、深玲に倣って顔を近づけると、かぶや青菜、りんごなどが見えた。値段はずいぶん良心的だ。

「ねえ、これ買ってもいい?」

 たずねるつもりはないらしく、語尾に重なるようにコインの音が響いた。ビニール袋にみっしり詰まった赤と青のりんごを、深玲はうれしそうに抱える。重そうなその袋を引き取ると、ありがとう、と小声で歌うように言った。

 曲がった先は、少し前の時代に迷い込んだかと思うような路地だった。

 ところどころに、年月を経て焦げ茶色に変色した板塀や、ブリキの看板、もう使われていない木の電柱の名残もある。

 古きよきものを集めたお店への前奏曲のようで、期待に足取りが早くなる。右、左、右と、メールをたよりに路地を進んだものの、行き止まってしまい、僕たちは、隣の路地、さらにその先へと迷い歩くうちに、自分たちがどこにいるのかもわからなくなってしまった。

「なんかあったね、こういうお話。探しても探しても、たどりつけない場所」

 おとぎ話とかで、という深玲の声がくぐもって聞こえる。なんだかそれは僕自身に重なるようで、深玲にちっともそんな気がないのは知りつつも、ふいと視線を逸らしてしまう。

 その先を、光るなにかが横切った。

 住宅の玄関灯の横をすり抜けていったのは、小さな生き物のように見えた。大きさからすると犬か猫だろうが、あんなふうに、跳ねるように歩くだろうか。陽気な足取りは、鹿かうさぎのようだった。

 気になって、消えた先の路地をひょいとのぞきこむと、その正面に、ステンドグラスが、やわらかな光の花を咲かせていた。

「深玲。たぶん、ここだ」

 野の花を描いた、曲線のうつくしい、ステンドグラス。淡い色彩としなやかな曲線で描かれた草木や花は、日本でもなじみ深いものばかり。国内で作られた作品なのだろう。木造二階建ての洋館は、扉の左右に配置された縦長の格子窓も、横向きの板壁も、直線が強調されていて、ステンドグラスの曲線が、いっそうのびのびと見える。水色のなめらかな濃淡で描かれた空は広々として、肩に入った余計な力が抜けていくようだ。

 窓の向こうの客たちも、ずいぶんとくつろいでいる。着物姿で立ち歩く二人が店員なのだろう、着こなしが板について見える。

 扉につく真鍮の取っ手の古び具合もいい。ひとと時間に磨かれて、独特な風格が漂っている。赤い糸で結ばれた金の鈴がドアベルがわりらしい。

 しげしげ見ていると、深玲のお腹が大きな音を立てた。

「そろそろ入ろうよ。さっきからすごくいい香りがして」

 ごめん、と慌てて手を伸ばしたとき、内側から扉が開いた。

 路地に、りん、と涼やかな鈴の音が響く。

「お帰りなさい! お二人さまですね?」

 にこやかな笑顔の店員が、鮮やかな着物を翻して、僕たちを迎え入れた。

2🍺🍺

「乾杯!」

 グラスが立てる軽やかな音には、ありがとうの気持ちがひそんでる。

 そこに僕は、言葉にしない感謝を込める。今日も一日、お疲れさま、ありがとう。いつもそばにいてくれて、ありがとう。毎日顔を合わせるからこそ、照れ臭くて、面と向かって伝えなくなった言葉を、グラスの音に託す。

 グラスの中身はもちろん、自分への感謝でもある。立ちっぱなしで重苦しい足、だるくなった腕、今日もお疲れさま、ありがとう。一日の締めくくりに、おいしいものが待っていると思うと、延びる残業時間も、無茶な注文にも、がんばる力が湧いてくるというもの。深玲も焼き芋ラテなるソフトドリンクに、とろけそうになっている。

 ビールでのどを潤し、二杯目からは、ゆっくりと、ウイスキーを楽しむ。

 とろりとした琥珀色の液体を少しずつ口に含むと、アルコールのしびれるような刺激と、甘く、芳醇な香りが、鼻先をくすぐる。

 飲む詩だよ、と昔、あるひとが言っていた。

 なにせ、ウイスキーというのは、天使に祝福された飲み物なのだ。

 熟成中に減る分は、天使がこっそり飲んだ分らしい。熟成前のウイスキーは透明なのに、熟成の過程で、輝くような金色から、深みのある琥珀色に変化するのは、樽に棲みついた天使の祝福のおかげだという。天使の助けを借りて、時を重ねるごとにおいしくなる、祝福された飲み物とは、なんとも詩情あふれる話ではないか。そして僕は、そういう話にめっぽう弱い。

「また困ったような顔してる。なに考え込んでるの?」

 深玲が微笑みながら、マグカップをテーブルに置いた。

「いや、このウイスキー、あのショットグラスで飲んだらおいしそうだなと思って」

 僕の店で唯一の非売品であり、守り神みたいなアンティークのショットグラスだ。ショットグラスにしては少し大きめで、小さめのタンブラーと言ってもいい。厚みのある底面とその周辺には切子のようなカットが施され、飲み口に向かって広がる、咲きかけの朝顔みたいな姿がうつくしい。あれで飲むと、ひときわおいしく感じる。

「透磨は考え込むと、困ったような顔になるよね。それで、本当に困ったときは、笑ったようになる」

「そう? 自分じゃわからない」

「いつもそう。はじめて会ったときから、ずっとそう」

 深玲は、それこそはじめて会ったときと同じように、小鳥のさえずりのような笑い声を立てた。

 人生は、甘くない。

 僕自身はかなり甘かったと、異国の空の下ですぐに思い知った。

 一度は会社勤めをしたものの、数年経っても同じことの繰り返しにやりがいを見つけられず、人生には思いきりが必要とばかりに、退職してイギリスに渡った。

 雑誌やテレビで見たイギリスは、歴史の教科書と違って、パンケーキをひっくり返しながら足の速さを競ったり、百年前のおしゃれな服装でサイクリングとピクニックを楽しんだりするような、遊び心にあふれた国に思えた。

 なにをするかも決めていないくせに武者修行のつもりだったのだから、今なら頭を抱えてしまうが、あの頃の僕は大真面目に、世界を見たらなにかが変わるんじゃないかと、漠然と思っていた。

 たしかに、旅は僕を大きく変えた。

 最初の変化は、預金残高が減る速度と、安全意識だった。

 地下鉄で寝ている間に小銭入れを掏られたり、夜道で柄の悪い連中につけられて全力疾走したり。だけど一番ダメージを受けたのは食費。とにかく物価が高いのだ。下手をすると東京の倍ほどもかかり、見る間に預金残高が減っていった。一日でも長く滞在しようと思えば、もともと潤沢でもない毎日の予算は徐々に厳しさを増して、レストランはおろか、頼みの綱のリーズナブルなカフェチェーンやファストフードさえも、すぐに毎日通うにはきつくなった。寝泊まりしていた安宿が用意してくれる、ボリュームたっぷりのイングリッシュブレックファストとポットいっぱいの紅茶を詰め込めば、昼過ぎまで腹はもつものの、夕方から夜にかけて切なくなる。スーパーマーケットに並ぶ一番安いパンとハムとチーズに飽きてくると、種類豊富なりんごに目をつけた。

 その店では、赤いりんごは一個ずつ、小ぶりな青りんごは袋に四、五個も入って、同じ値段がついていた。迷うことなく青りんごを手に取り、近くの公園のベンチで、その日の夕飯にかじりついた。

「……すっぱ」

 甘くない。

 姿形はりんごなのに、僕の知ってるりんごじゃなかった。

 香りも食感もりんごなのに、甘みだけが忘れ去られてしまったかのように、感じられない。勘違いではともう一度試しても、結果は同じ。かじりかけの青りんごを手に弱り果てていると、すぐ目の前で、小鳥のさえずりのような、きれいな音がした。

 それが、深玲だった。

 美術史を学ぶために留学中の深玲と、ふらっと旅に出た僕とでは、同じものを見ても、見えるものが違っていた。昔見たアニメには相手の戦闘力を測る眼鏡みたいな道具があったが、物静かな深玲のアーモンド形の目には、それに似た特別ななにかが備わってるんじゃないかと思った。古い教会の色褪せた天井に、かつての青く塗られ星がきらめいていた姿を見て、街角の動物をかたどった飾りや雨樋に、意味を読む。なにからなにまで僕には新鮮で、魅力的に思えた。

 あの頃から深玲は、あまり変わらない。帰国しても、家族になっても。深玲の目はいつも、特別ななにかを見つめている気がするし、ひとことに重みを感じる。

 あの甘くないりんごが、調理用のりんごだと、教えてくれたときからずっと。

3🍺🍺🍺

「水炊き小鍋二人前と、牡蠣のオイル漬け、燻製チーズですね」

「あと、このノンアルコールの、ホットアップルサイダー、お願いします」

 注文を取る若い女性店員は、生成り地に目の覚めるような青紫で描かれたチューリップ柄の着物がよく似合っていた。カウンターに佇む店主らしきひとも、細かな十字の織り込まれた着物が粋だ。

 お通しの蒸し野菜には、二種類のソースが添えられていた。あっさりした豆腐のクリームと、にんにくとパセリとたまねぎの深みのあるバターソース、どちらも、ほこほこしたにんじんやかぶにつけると、野菜がつまみに変化して、酒をいっそうおいしく感じさせてくれる。

 深玲が手にするメニューは和紙に手書きされ、おしぼりはふわっといい香りがしたし、店内のしつらいも、趣味がいい。

 席はひとつひとつがゆったりとして、やわらかいソファは座り心地がよく、身を沈めると、立ちあがりたくなくなる。実際、角のテーブル席には、突っ伏して束の間の夢心地に浸っている客もいる。

 乳白色のランプシェードは古いミルクガラスだろう。やわらかなあかりが、客席や、ヘリンボーン模様に組まれた寄木の床を照らす。ソファの肘置きやテーブルはもちろん、カウンターに並ぶ曲木の椅子、壁際に置かれたチェストも、コニャックみたいないい色に磨かれていて、大切に扱われているのだとわかる。

 うちの品物を見た貴璃さんがすすめてくれたのも頷ける。

 いつか、こんな趣のある店が構えられたら、と僕は改めて思い描いた。

 そう広くなくていい。小さな空間に、イギリスをはじめヨーロッパ各地から集めた品物を並べて、宝物のように手渡していきたい。今はまだ、各地で開かれる骨董市などのイベントに出店し、夢をあたためているばかり。それだけで食べていくことはできなくて、現状では夢は夢のままだ。主たる収入源は他のアルバイトに頼り、今は並木台にできた商業施設のカフェで働いている。

 定期収入という点でも金額面でも、うちの大黒柱は、区役所の文化財セクションで働く、深玲になる。

 月に一度の外食は、僕たち夫婦のささやかな楽しみだ。

 運ばれてきた小さな土鍋の蓋をとると、真綿のような湯気と、おいしそうな香りがたちのぼった。

「透きとおってるね」

 白い土鍋の底がほんのり色づいて見えるスープに、ひとくちサイズの鶏肉と、きのこやねぎ、青菜が浸っている。白濁した水炊きもおいしいが、こういうシンプルなのも悪くない。取り分けて、木のスプーンで口へ運ぶと、しょうがの香るスープは滋味あふれて、体のすみずみにしみ渡っていくようだ。

 燻香の効いたチーズはもっちりと歯ごたえもいい。オイル漬けの牡蠣はなめらかでぷりぷりとして、噛みしめると口の中に海が広がるようだ。豊潤なうまみと磯の香りに水割りにしたウイスキーを重ねると、生きるよろこびとはこのことだと感じる。

「おいしいね」

 言葉とは裏腹に、深玲は箸を置いた。

 このところ、深玲はあまり食欲がない。体調が悪い日も多く、夜も早く休むことが多い。心なしか顔色もすぐれないし、疲れがたまっているのかもしれない。外食すれば気分も変わるかと思ったが、水炊きも牡蠣も、半人前ほどで手が止まり、大好きなチーズにも、手を伸ばさなかった。

 両手でホットアップルサイダーのマグカップを包み、深玲は、なつかしい、と目を閉じた。深玲はりんご好きで、夏場にはシードルもよく飲んでいた。この店のは、留学中に飲んだ調理用の青りんごの味に似ているそうだ。

 イギリスで生産されるりんごの約四割が、調理用のすっぱい青りんごらしい。あの強い酸味は、砂糖を加えてアップルパイやジャムにすると、他にないような個性的で魅力的な味になるという。

 ガラスの割れる音に、深玲がびくりと身を震わせた。

 角のテーブル席の男性客が目を覚まし、呂律の回らぬ舌で、若い店員に文句をつけている。手が当たったのか、床には水がこぼれ、ガラスの破片が散らばっていた。店員はおろおろとお盆を抱きしめて、床と客とを交互に見つめる。

 店主が進み出ると、客はいっそう激高したが、聞き取れたのは、酒を出せ、という一言だけだった。

「今日はこれ以上出せませんよ。お体に障ります」

 毅然とした店主をさんざん罵って、客は荒々しく席を立つ。あまりに乱暴な仕草にテーブルが動いて店主にぶつかる。咄嗟に近寄って、よろける彼女を支えた。

 男は、物憂い空気を店に残して、去っていった。

「大丈夫ですか?」

「ええ。すみませんね、お騒がせしまして。普段は穏やかな方なんですよ。なにかお辛いことでもあったのでしょ」

 すてきな殿方に助けていただいて役得ね、とおどけた店主は、騒がせた詫びに一杯振舞うと店中に笑顔を向けたが、左手の手首をしきりにさすっていた。見せてもらうと、熱を帯び赤く腫れている。さきほど、テーブルの角にぶつかったらしい。

 カウンター席に座る女性が、心配そうに声をかけてきた。

「志満さん、大丈夫ですか?」

 特徴のある声の主は、以前骨董市の取材に来た、ラジオ局のひとだった。あちらも僕に気づいたのか、その節は、と声をあげた。

「彩羽さんの、お知り合い?」

「こちら、澤口透磨さん。すてきな西洋アンティーク雑貨のお店をされているんですよ」

 まだイベントだけなんですがと付け加えるたび、胸が少しちぢこまる。彩羽さんは夕食店のひとたちに紹介してくれた。店主は志満さん、もう一人はお孫さんで希乃香さんというそうだ。

「来週、自然保護園での骨董市にも出ますので、もしよかったら」

 チラシを手渡すと、希乃香さんは食い入るようにその一部に見入った。

「この和簞笥、すごく安いですね。桁が違っていますよ」

「目玉商品はどこも結構がんばって勉強していますから。ただ限定五棹ですし、競争率は高いかもしれませんね。開場の数時間前から列ができることもあります」

 数時間前……と言い淀む希乃香さんは、笑い声に、カウンターへ目を走らせた。

「志満さん、なにかおかしいことでも?」

「いえね、アタシの取り越し苦労かもしれないけれど。希乃香のことだから、ずいぶん前から並んでも前のひとで売り切れるのが、目に見えるようで」

 希乃香さんは不運で有名らしい。頬を膨らませた希乃香さんは、かえって闘志を燃やしたらしく、うんと早くから行けば買えるかもしれませんね、とやる気を見せた。

 会計を済ませて外へ出ると、冷たい風が強く吹き付けてきた。

 寒い夜は、星がきれいに見える、と深玲が空を見あげる。

 背中に、希乃香さんの明るい声が重なった。

「いってらっしゃい。明日もいいお日和になりますように」

4🍺🍺🍺🍺

 店を出す日はいつも気持ちが落ち着かない。

 一番やきもきするのは、天候だ。

 どんなに準備をしても、青空市は、雨が降れば中止になる。

 今年は雨が多くて、いつもより中止が多かった。このところ売上が振るわないのは、そのせいもあるだろう。屋内で開催するときだって、晴れと雨では人出が違う。

 明けかかった空には暗い雲がたちこめ、いつ雨が降り出してもおかしくなさそうだ。この段階で中止発表がないということは、運営側は、できるところまで粘るつもりなのだろう。

 ようやく始発が動き出した時分、街はまだ眠り、ひとも車もあまりいない。唯一あかりのついた貴璃さんの花屋の前に、相棒の中古のバンを停めた。頼んでおいたディスプレイ用の花は、想像以上にシックな仕上がりだった。そう告げると、貴璃さんはガッツポーズをつくってよろこんだ。

 これから市場に向かうらしい貴璃さんは、透磨さんも早いですね、と言っていたが、今日は比較的余裕のある方だ。日の出前から営業をはじめる骨董市もある。そんなときは深夜に搬入設営して朝日が出るのを待つし、買う方だって懐中電灯で照らしながら品物を探して歩く、ほんものの宝探し気分が味わえる。

 昔ながらの骨董市に加えて、ここ数年は、西洋骨董や北欧、和のもの、着物など、テーマのあるものも増えてきた。定期的に開催されるものも、今日のようにイベント的に開催されるものもある。現場で何度か顔を合わせるうちに他の出店者と親しくなるケースも多くて、僕もそういう仲間と車に乗り合わせて、飛騨高山の市に参加したこともあった。

 あの頃はみんな同じように、夢ばかり大きくて、理想が高くて、財布はすかすかだった。

 搬入スペースに車を停め、出店受付を済ませると、出店者一覧の中に、なつかしい名前を見つけた。飛騨高山に誘ってくれた、大さんだ。頼れる兄貴分のような彼は、去年下北沢に実店舗を構え、イベントで顔を合わせるのはずいぶん久しぶりになる。

 地図では大福の断面のように見える自然保護園前の広場に、五十店ほどのスペースがロープで区切られていた。自然保護園の入場ゲートに向かって中央通路は大きく開き、両側に、西洋骨董や和骨董がゆるやかにエリア分けされて、回遊しやすいようにぽつぽつと店が配置されている。中央の列には子ども向けワークショップ用のテントが作られ、西の奥にはフードカーが並ぶという。

 僕のブースは北東の角。一番奥で大きなひとの波からははずれている。

 たぶん一般的にははずれ。でも僕にとっては、なかなかいい立地だ。通るひとは少ないかもしれないが、その分、ゆっくりと品物を手に取って見てもらえる。それに自然保護園の緑がいい背景にもなる。

 鉄格子のフェンス越しに、池の水面が見えた。耳を澄ますと時折、アヒルなどの動物の鳴き声が聞こえてくる。とすると、僕の左手あたりに鬱蒼と茂る木々は、ミニ動物園のあたりだろう、イノシシがいるはずの。前園長が、自然保護園にも革新(イノベーション)が必要と声高に言ったものの具体策に窮し、メスのイノシシ二頭を引き取ってカクさんシンさんと名付けた、という冗談みたいな逸話が気に入って、何度か見に行ったことがある。

 品物を下ろして、車を指定駐車場に移動させる道すがら、歩道を歩く鮮やかな赤紫色の着物姿が目に入った。希乃香さんだ。一心不乱に自然保護園を目指して歩いていく。ようやく日が昇りきったところだ、入場者受付はまだだいぶ先だろうに、よほど和簞笥を手に入れたいのだろう。

 品物を梱包から解く瞬間は、いつも気持ちが引き締まる。

 僕が扱うのは、イギリスやフランスで見つけた古い生活雑貨だ。百年を超えたものをアンティークと呼び、それより短いものをヴィンテージと呼ぶ。それぞれに、時を重ねてきた魅力がある。芸術作品が美術館に収蔵されるのと違って、市井の、しかも暮らしになじんだものは、その価値が認められにくい。当たり前にそこにあるものだから、魅力に気づきにくいのだ。そのうえ気軽に扱われるからこそ、役目を終えて消えていくものも多い。

 そういうもののほとんどは作り手の名前も忘れ去られている。だけど職人の真摯さが魂のように宿ったものに出逢うこともある。そこに価値を見出し大切に扱った誰かのおかげで、今ここに引き継がれたようなもの。

 そういうものに触れると、心の芯が、静かに澄むように思う。

 言葉もなく、時間も空間も超えて、誰かと心を通じ合わせているように。

「甘い。相変わらず甘いよ、透磨。商売ってそんなに甘いもんじゃないよ」

 店先のパイントグラスを手にして、大さんは顔をしかめ、値踏みするように品物を眺めまわした。パブで使われたパイントグラス。花と果実の彫られたシルバーのゴブレット。虹色の膜をまとったインク瓶、花々が浮き彫りになった木の写真立て、ぬいぐるみ。翡翠色のホウロウのウォータージャグには、貴璃さんが選んでくれた花が飾ってある。

「この品揃えでこの値付け? まっとうな値段だけど、これじゃ客単価低すぎるじゃん。売れてもカツカツ、仕入れにもそう行けないよ。商売に大切なのは、まず、利幅。理想があるのは知ってるけど、夢を現実に引き下ろすのも必要でしょ」

 だから、まだ店が持てないんだよ、と暗に言われている気がした。

「いつまで続けんの?」

「それは……」

 商材を見直して利幅の大きなものを扱うとか、流行りの品物を取り入れないと、と大さんはあれこれ助言をしてくれる。ピンバッジやキーホルダーなどの小物を扱っていた大さんは、普段使いできる手頃なコスチューム・ジュエリーに手を広げてから、商売の面白さに気づいた、と話す。

「透磨も、目利きもセンスも悪くないんだから、もっと派手にやればいいじゃん。伝え方がうまくない気がするんだよな。ウェブショップとかは?」

「ウェブもいいけど、実際に目で見て触れて、気に入ってくれたひとに届けたくて。これでも僕なりに工夫してるつもりなんだ、今回も品物に合う花を選んでもらった。けど、あんまり大きく凝ったことは。バイトもあるし」

 バイトねえ、と大さんは腕組みをして、僕を見据えた。

「飛騨で会った麻香さん覚えてる? ハワイアンアンティークの。あのひとウェブショップが評判よくて本出してカフェまではじめて、すっかり人気店だよ。ミッドセンチュリー家具専門の崇史さんも、北欧ものやってる徹也さんも、フレンチアンティークの靖春さんも、実店舗なりウェブなり店持ってがんばってるよ。そりゃ辞めちゃったひともいるけどさ、みんなそれぞれ、がんばってる。透磨も、がんばれよ」

 応援のつもりなのは、わかってる。だけど、それはどこか、僕の道が間違っていると言われているようでもあって、視線が下がった。

 その先には、非売品のショットグラスが、静かに、佇んでいた。

 僕が扱う品々は、暮らしの中になくてはならないもの、ではない。

 だけど、それがあれば、日々の暮らしにほんの少し光がともり、毎日をささやかに照らしてくれるようなもの。たとえば気に入ったグラスで飲む一杯が至福の時間を与えてくれるような。心に穏やかなさざなみを立て、おさまるべき場所へ連れて行ってくれるようなもの。

 その小さな光を、感じ取ってくれる誰かに、大切に手渡したいのだ。

 伝え方が下手、と言われたことを気にして、これまでは黙っていることが多かったけど、店先で品物を手に取るお客さんに話しかけてみる。すると彼らは、愛想笑いを浮かべて、すっと離れて行ってしまう。

 中央通路はひとであふれているのに、この端までやってくるひとは少ない。

 中央テントでは子ども向けに折り紙のワークショップが行われていて、若い青年が子どもたちに折り方を教えていた。親たちはその周辺の店をのぞきながら待っているらしく、ひとがひとを呼ぶのか、その界隈だけが賑わっていた。同様に、フードカーエリアも盛況だ。

 しゃれたフードカーの中に、ひとつだけ、昔ながらの屋台が交じり、長蛇の列ができている。特製のジャンボ焼き鳥らしい。先頭にいるのは茶色いジャンパー姿のおじさんで、背中に描かれたにんにくのような模様を左右にゆらし、注文を迷っているようだ。列には骨董市のビニール袋を手に提げたひとの他、制服姿の中高生らしき学生の姿も見える。

「焼き鳥もいいけど、こういうのも、十分、魅力的だと思うんだけどなあ」

 古いインク瓶を手に取り、曇り空にかざすと、小鳥のさえずりのような声がした。

「また、困ったような顔してる」

 起きたらもういなかったから、と言いながら深玲は僕の隣に立ち、一緒に虹色のきらめく瓶を見つめた。

「きれいだね。銀化した、なんの瓶?」

「インクだよ。まだ蓋がガラスでつくられて、ナイフで切り落として使っていた時代のだから、口がぎざぎざ。ひとの手と、時間がつくった、うつくしいものだよ」

 長いこと土に埋まり、ガラスと土の成分が化学反応を起こして、虹色の膜が張ったみたいに見える。

 深玲は赤い水筒に紅茶をたっぷり詰め、サンドイッチを買ってきてくれたらしい。

「朝ごはんには遅いし、昼ごはんには早いんだけど、一緒に食べようと思って。買ってきてよかった。ここにもなにか売ってると思ったんだけど、あの行列じゃ」

 焼き鳥屋台の行列はまだ動かず、列は二重に折り返し、運営スタッフが交通整理をはじめている。先頭では先ほどのにんにく柄ジャンパーのおじさんが、品物を手に、ようやく店を離れたところだった。

 僕たちは折り畳みスツールに腰かけて、エビカツサンドをほおばった。エビカツはぷりぷりとして甘く、マヨネーズのきいたキャベツと胚芽パンとのバランスもいい。深玲は、クエン酸がおいしいの、疲れてるみたいで、と言いながら、レモンティーに使う、小袋のレモン果汁をたっぷりとエビに振りかけた。

「売れ行きは順調?」

「まあまあだね。悪くない」

 ひとつも売れてないなんて本当のことを言おうものなら、深玲は自分も店番を手伝うと言い出しかねない。朝だって、ゆっくり休んでほしくて、声もかけずに出てきたのだ。安心したのか、深玲はサンドイッチを食べ終えると、水筒を置いて、帰っていった。

5🍺🍺🍺🍺🍺

 深玲を見送る視界の端に、見覚えのある、赤紫の着物姿が映った。

 希乃香さんは、鉄格子のフェンスにもたれかかっているように見えたが、突然くるりとフェンスに向き合って、押したり引いたりを繰り返す。なにか引っかかりでもしたのだろうか。そのうちに、急にバランスを崩してよろけ、足元の大きく膨らんだビニール袋にけつまずいて、転んだ。

 近寄ろうとしたところで、名前を呼ばれた。

「貴璃さん。来てくれたんですか」

「やっぱりこの取り合わせ、すてきですね。よかった」

 翡翠色のホウロウのジャグに飾りたいと話すと、貴璃さんはクリーム色とくすんだピンクの薔薇を中心に、花をコーディネートしてくれた。古い木のスツールに飾ると、とてもよく映えた。長い時間を過ごしてきたものと、今この瞬間を生きる花。詩情を感じる取り合わせだ。

 貴璃さんの旦那さん、央樹さんは、棚に並べたガラスの酒器に目を留めて、あのショットグラスを手に取った。

「すみません、それだけは、非売品なんです。店のお守りのような品で。ええ、そちらは大丈夫です。そのウイスキータンブラーは、僕が最初に仕入れた品物のひとつなんですよ。職人さんが吹きガラスで作ったものなので、少し気泡が入っているでしょう。譲ってくれたひとは、『ここには、言葉と感謝がしみ込んでいる』って言っていました」

 百年以上の時を経たガラスは、個々に表情が違う。世の中が便利になり、製品としての品質もあがった中で、こういう昔ながらのものに惹かれるのは、ひとの気配を感じやすいからだろう。いびつだったり、整いきらないところに、ぬくもりを感じるのは、もしかすると僕たちそれぞれもそういう存在だと、重ね合わせるからなのかもしれない。

 そう話すと、央樹さんは何度も頷きながら、共感してくれた。

「手にしっくりなじみますね。こういうのでウイスキーを飲んだら、格別にうまいだろうな。いいなあ、こういうの。心が旅に出かけるみたいで」

「そう、そうなんですよ。グラスで味が変わりますし、目の前の世界がほんの少し違って見えますよね」

「蛙の子は蛙、ロマンチストの子はロマンチストですよね。私、こういう話が大好きなひとをもう一人知ってますよ」

 貴璃さんを尻目に、央樹さんは他の品々も物珍しそうに眺めて、タンブラーを買ってくれた。

「ところで透磨さん、あそこの屋台って、行列してました?」

 貴璃さんが、焼き鳥の屋台を指さした。さきほどの長蛇の列は消え、他のフードカー同様、数人がのんびりと注文を待っている。他にも、学生が浮かれていなかったかとか、茶色いジャンパーのおじさんを見なかったかとか、いくつかの質問をされた。

 子ども向けの折り紙ワークショップをやっていた青年は央樹さんの後輩らしく、屋台の行列にいるのが、央樹さんたちの捜しているひとではないかと、連絡してきたそうだ。

「見ず知らずの学生の食事代金を、おごってくれるんです」

 貴璃さんがあまりに深刻なようすで言うので、僕は思わず吹き出してしまった。

「それ、ただの親切じゃありませんか。僕も前にそういう太っ腹なおじさんを見かけましたよ」

 地方に出店したとき、ふらりと入った定食屋でのことだった。おじさんは注文はやたらと遅いのに、食べるのが妙に早く、早々に店を出たが、その場にいた高校生や大学生の分も会計を済ませていたらしい。会計しようとした彼らが困惑していたのを覚えている。

「最近このあたりでよくあるみたいなんです。理由がわからないから〝謎ごち〟って呼ばれていて」

 央樹さんと貴璃さんは、高校時代にそのおじさんにごちそうしてもらったことがあって、最近もその場面に出くわしたらしい。だけど、問題はおじさんの姿が十五年以上も前と、全く変わらないことだという。

 ここだけの話、と央樹さんが声をひそめた。

「年を取らないひとか、時間旅行者じゃないかと、思ってるんですよ」

「それはまた……」

 ずいぶんと、ぶっとんだ考えだ。

 ジョークなのか本気なのか、反応に困っていると、央樹さんは真剣なようすで続けた。

「年を取らないひとなら、うちの会社の研究に協力してもらおうと思うんですよ。抗加齢医学は注目分野ですからね、新薬の開発に役立つはずです。時間旅行者なら、確実に未来人ですよ。未来を聞き出せたらすごいじゃないですか」

「そんなこと考えてたの? 私、あのときのお礼を言うためだと思ってたのに!」

 まあそれもある、と央樹さんはバツが悪そうに言葉を濁した。

 言い合いになる二人におろおろしていると、店の前を着物姿のひとが通りかかった。

「希乃香さん!」

 渡りに船とばかりに声をかけると、希乃香さんは肩を落として、大きく膨らんだビニール袋を手に、ゆらゆらとこちらへ歩いてきた。

 志満さんの怪我のようすをたずねると、骨折などの大事には至らなかったそうだが、痛みはまだあるという。それよりも、病院でおばあちゃんと呼ばれたと文句を言っていたというから、気持ちはお元気そうだ。貴璃さんたちもそれを聞くとほっとした表情を見せた。

「和簞笥は無事に手に入りましたか?」

「それが……」

 思いつめた表情で、ビニール袋から取り出したのは、卓上サイズの和簞笥だった。

 希乃香さんはずいぶんとがっかりしているが、悪い品ではない。ひっくり返してみると、底にK.O.と墨文字がついているものの、状態も引き出しの滑りもよく、他にこれといった不具合もない。ひとつだけ底の浅い引き出しがあるが、つくりもしっかりしているし、隅金具や飾り板も凝っていて、むしろよい品に思えた。

「チラシではたしか五千円でお釣りがくる感じでしたね。そこまで古い時代のものじゃなさそうですけど、状態もいいですし、まともに買えば二、三倍はしますから、そう悪い買い物ではないですよ?」

「サイズが……。こんなに小さいとは、思いませんでした」

 希乃香さんは、着物を入れようと思っていたそうだ。この値段でそれはなかなか難しいと思うのだが、超目玉激安、とうたわれたチラシの文句に、期待したらしい。それであれだけ熱心に、早くから並んだという。チラシの片隅には、ケシ粒のように小さくサイズが表記してあった。それを見ると希乃香さんは、うなだれた。

「わたし、不運なんですよね。せっかく長いこと並んで買えたジャンボ焼き鳥も、イノシシに食べられてしまいましたし」

 さきほどのようすはどうやら、鉄格子フェンスの向こうのイノシシと、焼き鳥を引っ張り合っていたところらしい。希乃香さんは恨めしそうに視線をそちらへ向けた。

「木と木の間から、にゅうっと鼻先が突き出てきたんです。すっごい力なんですよ。フェンスが変な音を立てて軋んでましたし、ぐらつくほどで」

 たしかに、急にバランスを崩して、よろけていた。

「希乃香さん、イノシシと互角にやり合おうと思うのが間違いですよ。危ないもの。焼き鳥くらいで済んでよかったじゃないですか」

 貴璃さんにそう諭されて、希乃香さんはしぶしぶ頷いた。

 イノシシは神経質で警戒心が強く、普段見慣れないものは避けようとするらしい。猪突猛進と言うが、実際には、まっすぐにしか進めないわけではなく、急停止や横跳びもするそうだ。とはいえ、かなりの速度で走るしジャンプ力も高く、突進されると大人でも簡単に撥ね飛ばされるという。カクさんシンさんのそばに説明板が立っていた。

 央樹さんと貴璃さんが、後輩のもとへと立ち去ると、希乃香さんは改めて店の品物を眺めまわして、花の彫られた写真立てを手にした。

「これ、すてきですね。来月、志満さんのお誕生日なんです。包んでいただけますか?」

「志満さん、おいくつになるんですか?」

「ハタチです」

 リボンを結ぶ手がすべった。冗談かと思いきや、正確な年齢は希乃香さんも知らないらしい。

「祖父と別れたのが、ハタチだったそうで。わたし、祖父を捜してるんです。祖母に愛想を尽かしたのか、行方をくらましてしまったらしいのですが。透磨さん、こういうお仕事だと探しものも多いですよね。コツはあるんですか?」

「僕はひとつの正解のようなものを狙って動くことは、あまりないんです。大切な兆しを見逃しそうな気がして。仕入れのときに気にするのは、耳を澄ませることと、目を凝らすことです」

「耳と目ですか?」

「ひとの話を聞くんです。こういうものを持っているひとはいないか、街のひとにたずねるんですよ。心当たりを紹介してもらったら、目を凝らす。偶然任せと言えばそうなんですが、本当に偶然なのか不思議なほど、あとから考えると、恵まれた出逢いをしていることが多いですよ」

 もちろんたまにはひどい目に遭うこともあるが、それもあとになると、とびきりの出逢いにつながるために、必要な一歩だったと気づく。

 志満さんは昔、金春町の芸者さんだったという。あの凜とした空気感と、うつくしい立ち居振る舞いに、合点がいった。希乃香さんは、おじいさんの出身地である奥多摩に出かけたり、志満さんと出逢ったという洋食店を探しに行ってみたりしたのだそうだ。

「だけど、志満さんから聞いた場所は、コインパーキングになっていたんです。街並みも新しいビルが多くて。当時の面影はもう、どこにも」

 希乃香さんの視線が落ちた先に、水滴が落ちた。

 涙かと思いきや、あたり一面が水玉模様に染まっていく。

 雨だった。

 空を見あげると、雨を孕んだ黒雲が、街を覆っていく。広場に、中止を告げるアナウンスが流れはじめた。

 その日の売上は、結局、央樹さんと希乃香さんの買ってくれたもののみ。出店料を差し引くと、手元にはほとんど残らなかった。

 いつまで続けんの、という大さんの声が、聞こえた気がした。

6🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 予定を考えるたび、大さんの言葉を思い出した。

 スケジュールアプリには、数か月先までの出店予定が書かれている。一週おきに書き込まれた行き先は地方も多く、出店料に加えて、交通費や宿泊費などの経費もばかにならない。

 売上には波があって、そこそこ黒字とぎりぎり赤字の間を行き来している。持って行った商品のすべてが売り切れたことは、一度もない。大きく赤字が続けば辞めざるを得ないのに、ぎりぎりのところで踏みとどまるかわりに、大きく黒字になることもない。気持ちひとつを糧に、続けているだけなのだ。もう、何年も。

 いつまで続けるのか。

 出店予定の合間に、バイトのシフトを書き加えながら、僕はずっと、問い続けている。

 駅に近い商業施設にあるせいか、カフェは遅い時間まで賑わっている。僕は遅番に入ることが多くて、今日も店に立つと、パートの新島さん、学生バイトの章人くんがすぐにやってきた。勤務交代に向けて、一通りの申し送りが済むと、新島さんが、声のトーンを一段低くした。

「透磨くん、今日たぶん面談あるよ。あたしも店長に呼ばれてるの」

「昨日シフト入った多江さんから聞いたんすけど、雇用体系見直すらしいすよ? 本部からお達しがあったって」

「それ、人員整理ってことですか」

 スタッフルームから店長が顔を出し、新島さんを呼んだ。新島さんはそのまま仕事をあがったらしく、店には戻って来なかった。閉店間際になると章人くんが呼ばれ、閉店後に僕が呼ばれた。

 細長いスタッフルームは、ただでさえ狭いのに、積み重ねられた資材の段ボールがあちこちで幅をとり、ブロックを積みあげるゲームの中に入り込んだような気持ちになる。部屋の中央に据えられた長机にもキャンペーン商材が積みあげられていて、僕と店長は座布団一枚ほどのスペースで向き合った。

 忙しいところ悪いね、と店長は片手で拝むようにして、手帳を開く。

「本部から、通達があってね。スタッフを見直すようにって」

 軽く頭を搔きながら、店長は言葉を探しているようだった。

 働きやすい職場だった。人間関係も悪くなく、なにより店長が僕の夢を応援してくれて、休日のシフトは極力融通してくれていた。でも、仕方ない。次の仕事を探さねば。

「僕は整理対象ということですね。今まで店長にはお世話になりました」

「いや、整理は整理なんだけど、君には社員登用の話なんだ。待遇はぐっとよくなると思う」

 想像もしない話だった。店長の話す社会保険や休日日数などは、どこか他人事のように聞こえる。給与体系の話でようやく現実なのかとぼんやり思い、毎月それだけあれば、二人の財布を合わせれば暮らすには十分だと思えた。

「ただ、勤務日数はぐっと増えるし、休日も積極的にシフトに入ってもらうことになる」

 店長は上目遣いに僕を見た。悪い話じゃない。ふつうに考えたら、いい話に違いない。だけど即答できずに、考えさせてほしいと申し出て、スタッフルームをあとにした。

 夢は、明日を迎える希望になるのは間違いないが、よく効く薬が劇薬なのと同じで、扱いを間違えば、自分を蝕む毒にもなる。夢が夢なのは、現実にその状態が起こっていないからだ。その差異が、ずっと自分を苦しめる。夢を追うことは、決してうつくしいことだけではなくて、その苦しみと痛みを、同時に背負うことでもある。

 つまり、僕は、決めなければいけない。

 夢をこの手で握りつぶすのかどうかを。 

 家に着いたのは、いつものように、日付が変わってからだった。

 珍しく深玲が起きていて、窓際に寄せた小さなダイニングテーブルには、プラスチック容器に入ったアップルパイがふたつ、並んでいた。

「どうしても食べたくなって。帰りにコンビニで買ってきちゃった」

 これも、と出されたのは、いつもは横目で眺めるばかりで買わない、緑色の瓶入りのビール。

 ずいぶん久しぶりに深玲は機嫌も体調もよさそうだし、ちょっといいビールとスイーツなんて、お祝いのようなのに、僕にはその理由がまるでわからない。

「ごめん深玲、今日ってなにか特別な日だった?」

「特別な日に、なったの」

 どうしても今日話したくて、と深玲は、僕の前に一枚の紙きれを差し出した。白と黒の陰影があるばかりで、それがなにかも、僕にはわからない。

「なに? この白黒の、扇みたいなの」

「写真なの。超音波写真」

 もしかして。それは。

「三か月だって。予定日は、夏の終わりごろ」

 深玲は、小鳥のさえずるような笑い声を立てて、アップルパイをついばむ。透磨に似てるかな、私かな、と楽しそうに言いながら。

 深玲はもうすべてを現実として、しっかり受け止めているように思える。

 それに引き替え僕は、濁流のようにうねるこの気持ちを、なんと呼べばよいのか、わからない。

 子どもができた。

 それはうれしいことでもあり、同時にとてつもなく不安でもあり、生きることと暮らすことの現実の重みがぐっと増す、重石のようにも思えた。夢なんて儚く甘いものを、たやすくかき消してしまうだけの、力がある気がした。

「臨月から産休に入ろうと思うんだけど、将来のこととかも、考えなきゃって」

 人生の潮目が変わるときなのかもしれない。

「今日、実は、社員に誘われたんだ」

 深玲は、おめでとう、と顔をさらにほころばせる。

「認められてよかったね」

 アップルパイを口に運んだが、なんだか、味がしなかった。先に食べ終えた深玲が、肩をすくめる。

「これもおいしいけど、イギリスで食べたのとは違うね。りんごが違うからかな。この間のお店のアップルサイダー、おいしかったなあ」

「明日、早番なんだ。帰りに買ってくるよ」

 深玲のうれしそうな笑みに、自分はもう夢を見る側でも追う側でもなく、それを守る立場になるのだと言い聞かせる。明日の予定に、うしろむき夕食店、と書き加えて、予定していた骨董市の出店を、すべてキャンセルした。

7🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 あの日と同じように、ステンドグラスの扉の前に立つと、胃がぎゅうっと縮こまった。

 チーズの焼ける香ばしさ。思いきり噛みしめたくなる肉の焼けるにおい。夕飯は家で、と思っていたのに、決心は簡単にゆらぎそうだ。

 お帰りなさいと迎え入れてくれた希乃香さんは、今日もポップなクリーム色と水色の千鳥柄の着物を着こなしていた。

「この間はありがとうございました。透磨さんのおかげで、手掛かりが見つかったんです。コインパーキングになっていた洋食店、まわりのお店に片っ端から聞いて歩いたら、かもめ橋に移転したとわかって」

 カウンター席に腰かけると、壁際の端に、例の和簞笥がちんまり載せられていた。

 あたたかいおしぼりを渡してくれる志満さんの左手には包帯が巻かれ、痛々しい。

 ホットアップルサイダーのテイクアウトを頼むと、希乃香さんはうれしそうに志満さんと視線を交わした。

「ちょっと特別なりんごで、八百屋さんが持ってきてくれたとき、仕入れに悩んだんですけど、そう言ってもらえてよかったです!」

「もしかして、調理用のりんごじゃないですか? 僕と妻は、それがもとで知り合ったんです」

 せっかくだから作りたてを、との申し出をありがたく受けて、僕は一杯飲んで待つことにした。

 ビールを頼んだものの、料理は相変わらずどれもおいしそうで、どうしたってお腹が空いた。家で深玲が待っていると思うと、あれこれ頼むわけにもいかず、一皿を選び出さなければいけない。

 迷っていると、テーブル席の客が、おみくじ、と手を挙げた。

 聞き違いではなく、どうやら料理の名前が書いてあるらしい。興味をそそられて、白木の三方を持つ希乃香さんを呼び止めた。

 選び出したおみくじには、料理の名前だけが書かれているわけではなかった。

「『失せ物いずるメンチカツ』。ええと、これは吉? 凶?」

「おみくじは、もとは和歌が書かれていたそうです。想像力を羽ばたかせて、神さまや仏さまからのメッセージをひもといたのだとか。そこからどう解釈して、自分に当てはめ、行動するか。当たるも八卦、当たらぬも八卦ですけれど、吉凶よりも、なんだか広がりがある気がしましてね」

 志満さんはそう言うと、メンチカツを用意すると言って、厨房へ姿を消した。

 お通しの春菊のナムルは、ごま油が、春菊特有の香りを引き立たせていた。添えられたのは油揚げの細切りかと思いきや、鶏の皮をカリカリに揚げたもので、これだけでもビールのつまみになる。一緒に出してくれた自家製のぬか漬けは、たまねぎだった。はじめて食べたが、しゃきしゃきとして、うまみの奥からじんわり顔を出す辛みが、ビールによく合う。

 味わいながら、おみくじの言葉の意味を、あれこれ考えてみる。

 真っ先に思い当たるのは、現実の重みと時間だ。本当ならもっと前に、現実を見つめるべきだったのかもしれない。失っていた現実を見る力をようやく取り戻した、ということなのだろうか。

 これで、いいんだ。きっと。

 飲む端から、酔いが醒めるようで、たまらず希乃香さんにウイスキーを頼んだ。

「透磨さんて、おいしそうにウイスキーを飲みますね」

「昔、飲む詩だ、って教えてくれたひとがいたんです」

 ウイスキーの香りは、曇ったロンドン郊外の空と、師匠のようなひとを、思い出させた。

 第一印象は、ひどいダミ声だった。

 頭の上から降ってきた、バナナの皮もないのによく転べるな、という言葉と、割れ鐘のような笑い声。ゆったりした話し方は、片言しかわからない僕にも、聞き取りやすかった。顔をあげると、目の前の古道具屋に座るスキンヘッドの老紳士が、にやりと笑いかけてきた。

 そもそも僕は、立ち並ぶアンティークマーケット見物に訪れたわけではなくて、馬を見に来たはずだった。

 イギリスという国は、王室がレースを主催するほど競馬が盛んだと耳にして、一度くらい見ておこうと、郊外の競馬場に足を運んだのだ。中心部から四、五十分ほど電車に揺られて着いたその場所には、不機嫌そうな曇り空の下、馬の代わりに、アンティークマーケットが立ち並んでいた。

 正直、またか、と思った。この国では考えられないようなことが頻繁に起こるという経験則ができていた。バス停があってもバスは来ず、どこかが工事中だと勝手に路線変更して別な通りを走るのだ。

 プロフェッサーと名乗った老紳士に、競馬場はなくなったのかたずねると、彼は目を見開きあの割れ鐘のような笑い声を立てて、星のせいだと、言ったのだ。

 僕はその言葉を知らず、電子辞書を差し出して、プロフェッサーが示す、星座という意味の言葉を知った。

 星のめぐりあわせ、というようなことを言いたいらしかった。

 競馬場はなくなったわけではなく、月に二回だけ、早朝からアンティークマーケットが開かれるのだと、プロフェッサーは教えてくれた。はるばる遠方から来た日に競馬が見られないのは星のめぐりあわせで、きっとなにかの意味があるのだろう、たとえば運命的な出逢いをするとか、と言ってウインクした。

 そのときも僕はたぶん、困ったような顔をしていたんだと思う。

 プロフェッサーは、人差し指をぴんと立てて、店の奥に僕をいざなった。グラスを念入りに拭いて、傍らのスキットルを手にする。その銀色の小型水筒から注がれる琥珀色の液体に、ペットボトルの水を少し足して、僕に差し出した。

 ちょっといびつで、気泡も入ったそのグラスは、見た目にも価値の高い品には見えなかったけど、手にすると吸いつくようにしっくりなじんだ。

 プロフェッサーは打ち明け話でもするように声をひそめ、このウイスキータンブラーは、港町の酒場で使われていた特別なものだと言った。

 ウイスキーは、飲む詩だ。

 そこに溶け込んだ、ひとの思いと時間の連なりと天使の祝福を、読むように味わえる。酒場で船乗りたちはその一杯を賛美し、帰港のよろこびと感謝を口にしながら、ゆっくり味わった。

 だから、ここには、言葉と感謝がしみ込んでいるんだ。

 プロフェッサーはそう言うと、お気に入りだというショットグラスにウイスキーを注ぎ、チアーズ、と掲げた。

 そうして飲んだ水割りは、感動的なほどおいしくて、時を超えてその船乗りたちとグラスを打ち鳴らしたような気にさえなった。

 もちろん、プロフェッサーはその後、心配しなくていい、ちゃんとまけてやるから、とちゃっかり値段交渉を持ち掛けてきたのだが。

8🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

「お待たせしました、メンチカツです」

 三つのゴルフボールほどの大きさの揚げ物が、差し出された。

 箸を差し入れてふたつに割ると、断面に白いものがのぞく。食べてみれば、肉汁のうまみのところどころに、ほくほくとやわらかな食感と独特の風味が、心地よいリズムを奏でる。なんだろう、知っているのに、知らない味がする。

「クワイなんですよ。いつもはれんこんを使うんですけれど、ちょうど八百屋さんが名残のクワイを持ってきてくれて。芽が出る、って縁起ものですし、せっかくだから」

 説明の途中でふたつ目を割ってみれば、今度は太く白っぽいものが、にゅうっと伸びる。久しぶりに胸が躍る気がした。こんなわくわくとした感じを誰かに届けられたら、どんなにか楽しいだろう。

「チーズ! 中身が違うんですね」

「そのときの気分であれこれ変えるものですから。みなさん、見た目は一緒だけどいつも違うって、驚いてくださいます。だけど、最後のひとつだけは、いつもの定番」

 断面に白と黄色の円が姿を現した。卵だ。うずらかなにかの。

 オレンジを帯びた黄身が、ゆっくりと、皿の上に流れ出る。

 昔は、玉子コロッケと呼んだんですよ、と志満さんが笑う。

 それは紛れもなく、スコッチエッグだった。プロフェッサーと何度も一緒に食べた、あの。

「なつかしいひとを、思い出します」

「そういっていただけると、うれしいわ。アタシが作るのは特別なハレの日のお料理ではなくて、なんてことない毎日にあるものだから、いつかの記憶と結びつきやすいのかもしれませんね。それも、なにかの兆しのひとつかもしれませんよ」

「兆し、ですか」

「おみくじの言葉もそうですけれど、小さな兆しは、未来を少しだけ見せてくれる気がするでしょう? よく見ればかすかな光に気づくはず。その小さな光に助けられることだってありますよ」

 志満さんの言葉は、くらくらするほどプロフェッサーの言葉に似ていて、僕はウイスキーを口に含んだ。

 プロフェッサーと名乗るくらいだから、彼はたしかに物知りで、美術史のおおまかな流れや、アンティークとヴィンテージの違いなどを平易な言葉を選んで教えてくれた。

 プロフェッサーの店の品はどれだと問うと、にやりと笑って、どれでもない、と言った。

 私の店は、星の光を売っている、と。

 店先に並ぶのは、お世辞にも、光なんて呼べそうな代物じゃなかった。

 輝きを失った金色の燭台、薄汚れたぬいぐるみや写真立て、店のロゴ入りのパイントグラス。ここで一番価値がありそうなのは、中途半端に磨かれた銀らしきスプーンやフォーク、それもセットではなくて、ちぐはぐだった。

 星のめぐりあわせでここへ来たというガラクタは、プロフェッサーが語る来歴に耳を傾けるうちに、不思議なことに内に光を宿したように感じ、ささやかだけど大切なものに姿を変えた。

 ガラクタだと思えば、本当にガラクタにしか見えなくなる、とプロフェッサーは言った。

 だけど、同じものを目にしていても、心持ちひとつで、見えるものは変わる。

 光は、与えられるものじゃない。目を凝らして、自分で、見つけるものだ。

 私は、星のめぐりあわせで出逢った光を、誰かに手渡す仕事をしているんだ、と。

 店じまいを手伝う頃にはすっかり魅せられて、僕にはむくむくと夢の種のようなものが生まれていた。

 店を片づけると、僕らは近場のパブに行き、スコッチエッグで一杯交わしあった。

 プロフェッサーはスコッチエッグを割ると、ほら中から光が出てきた、と子どもみたいにはしゃいで、チアーズとグラスを掲げる。

 その言葉は、乾杯だけでなく、別れの軽い挨拶や、感謝を伝えるのにも使われる。

 滞在中、彼の仕事を手伝わせてもらい、何度もスコッチエッグに乾杯した。

 プロフェッサーの声が、グラスから聞こえてくるように思えた。

 でも、その夢は、もう。小さなため息がグラスに落ちた。

「目を凝らしても、光が見えないときには、どうすれば?」

「どうしようもないことや、志半ばにして膝を折ることも、生きている間には起こります。そういうときでも、時間は流れて、お腹は空きます。真っ暗闇に思える夜空だって、じっと見つめるうちに、目が慣れて、星の光が見えてくるでしょう。どんなにかすかなものでも、光が少しずつ集まったら、希望みたいに大きなものにもなるのではないかしら。それでも見えなかったら、うしろを振り向いてみるんです。これまでやってこられたこと、できたことをね。忘れてるだけで、たくさんあるはず。そこに光は必ずありますよ」

 たしかに、今までカツカツでも続けて来られたのは、受け取ってくれたひとたちがいたからだ。僕の差し出すものに心を重ねてくれたひとたちが。

「志満さんにもそういうこと、ありましたか。思うようにいかないこと」

「そりゃあいっぱいありましたよ。悩みも、迷いも、たんまりと。希乃香が転がり込んできたときも迷いましたしね。今もありますよ、店を閉じる時期なども。こう不自由を経験しますと、余計にね」

 志満さんは、左手に巻かれた包帯を見つめた。あまりだらだらと続けるのもね、と小さく聞こえた気がした。

 スマホが震え、骨董市の出店通知が届いた。

 キャンセルしたはずなのに、慌てて確認してみると、なぜか手続きができていなかったようだ。もう一度キャンセルしようとして、手を止めた。

 失せ物いずる、と書かれたおみくじが目に入ったのだ。

 もしかしたらこれはなにかの、兆し、なのかもしれない。

 驚きを包むメンチカツに出逢えたことも。

「今日ここに来たのも、星のめぐりあわせなのかもしれませんね」

「誰かがあなたのしあわせを祈っているのかもしれませんよ、あなたが誰かのしあわせを願うように。アタシ、祈りはたぶん相手のもとに届くと思うんですよ。目には見えない形に、それこそ、星のめぐりあわせや小さな兆しみたいになって」

「わたしも信じていますよ。透磨さんのしあわせも、深玲さんのしあわせも」

 希乃香さんが、気に入られたしあわせなりんごです、とホットアップルサイダーの瓶を渡してくれた。

「深玲も僕にとってはりんごになるんです。イギリスでは、かけがえのないひとやもののことを、目の中のりんご、って言うそうで」

 帰国間際、りんごのおかげで出逢った、と深玲を紹介すると、プロフェッサーは飛びあがらんばかりに祝福してくれた。とびきりの星のめぐりあわせじゃないかと言って、深玲を僕の目の中のりんごと呼び、その意味を教えてくれた。別れ際にはお祝いだと言って、お気に入りだというあのショットグラスを、手渡してくれた。

 志満さんは、すてきなお話のお礼にと、りんごを手にした。

 横向きにすとんと切って、断面を僕に向ける。

「りんごにも、星があるんですよ」

 そこには、五つの種が、星の形を描いていた。

 星と星が結ばれた星座に物語があるように、ひとの暮らしの中にも、兆しがぽつぽつと浮かび、それが結び合わされて、物語のように意味を持つ。

 志満さんの言う兆しが、星座のように、像を結んだような気がした。

「透磨さん、もしよかったら、ちょっと見ていただけませんか?」

 希乃香さんが、あの和簞笥を持ってきた。引き出しのひとつが開かなくなってしまったそうだ。

「このハートの飾り板がかわいいなと思って開け閉めしていたら、急に」

「希乃香、それは猪目(いのめ)と呼ぶの。イノシシの目の模様。昔から魔除けに使われてきたんですよ」

 どこがイノシシの目なのかと希乃香さんが首をひねっていると、志満さんはメニューと同じ和紙を取り出し、筆ペンで絵を描いて、説明してくれた。

「これは……イノシシ、なんですよね?」

「ちょっと豚っぽくなっちゃったかしら」

「志満さん、四ツ足の毛虫にしか見えません」

 イノシシの目のどの部分なのかは結局わからなかったが、開かないのは、以前、底が浅いと感じた引き出しだった。

「木ですからね。湿度や温度で膨らんだり、縮んだりして、開閉しづらくなることがあるんですよ。あんまりひどい場合には、修理した方がいいかもしれませんけど」

 前後左右に揺さぶり、上下の引き出しを外して、マイナスドライバーを隙間にねじこんで動かすと、手応えがあった。

「あ……!」

 開いた引き出しから、白紙の便箋と、モノクロの写真がこぼれ落ちた。二重底になっていたらしい。写真は半分にちぎれていて、着物姿に日本髪を結った、うつくしい女の人が写っていた。

「写真のうしろになにか書いてありますが、読めません。達筆すぎて。志満さん読める?」

 志満さんは、その文字を目にすると、血相を変えて写真を表に返した。

「これは……金春町、登満鶴(とみつる)と書いてあるの。アタシの昔の写真ですよ」

「じゃあもしかして、この写真の半分には」

 希乃香さんは、和簞笥をひっくり返して、K.O.と書かれた底面の墨文字をなぞりながら、小島孝一さん、と呟いた。

9🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺

 人生で最後かもしれない骨董市は、幸運にも晴れ渡り、商品の売れ行きはどうあれ、いい幕引きができるような気がした。かもめ橋の海に面した公園で開かれるアンティークマーケットは規模も大きく、全国各地から二百弱の出店がある。古道具の他に、家具や古着、古本やレコードなど、出店者も多岐にわたり、人出もかなり見込まれている。

 どういうわけかキャンセルできていなかったこのイベントに、最後にもう一度だけ、賭けてみようと思った。

 商品を搬入し、テーブルに並べ終えると、これまでとはいっぷう変わった風景ができあがる。

 テーブルの上、足元に置いた革のトランク、ディスプレイ台代わりの古い木のスツールにも、ずらりと並ぶのは、色とりどりのリボンをかけた、白い箱だ。商品そのものは見えない。

 うしろむき夕食店のメンチカツにヒントを得て、驚きそのものと、僕が感じる光そのものを、届けてみようと思った。もともとキャンセル料を支払って止めるつもりの出店だったのだ、売れ残っても、キャンセルしたと思えば諦めもつく。

 でも、もしも。商品がすべて売り切れたら。

 それは僕がこの仕事を続けてもいいという、兆し、かもしれない。

 もちろん今日が最後になる可能性の方がずっと大きいはず。だからこそ、最後とけじめをつけるために、プロフェッサーから譲られたあのショットグラスも、箱に入れて、商品と一緒に並べた。誰か他の縁あるひとのもとに旅立ってくれればいい、と祈りを込めて。

 すべての商品に封筒を添えて、値段と、作り手やもとの持ち主、僕が手に入れたときのことなど、ものにまつわる話を書いた。

 どこかの誰かが真摯につくりあげたもの。大切に使われてきたもの。時の重なりに育まれた、誰かの心のうつくしい部分が、光のように宿ったもの。

 それは、ただ一度のかけがえのない物語として光を放ち、僕たちの暮らしをささやかに照らしてくれる。それを手にする僕たちにもまた、数限りない兆しと選択によって結び合わされた、僕たちにしか描くことができない物語がある。

 そのふたつは星のめぐりあわせによって出逢い、ともに新しい物語を紡ぎはじめる。

 珍しさから、店を眺めていくひとは少なくなかった。

 手に取って、封筒を開けてくれる人もいるものの、リボンを外して中を見て構わないと話しても、遠慮が先に立つのか、もとの場所に戻して、立ち去ってしまう。ディスプレイ台に飾った、貴璃さんのリースだけを見ていくひともいる。貴璃さんは身内に宣伝すると言ってくれたが、それらしきひとが訪れることもなく、時間ばかりが過ぎた。

 ただ一人、熱心にあちこちの封筒や箱を開ける初老の女性がいたが、封筒の中身が創作かどうかをたずねて、僕が実際に聞いた話だと答えると、落ち着かないようすで立ち去ってしまった。一目でヴィンテージの一点ものとわかる上質なシルクのシャツに、小粋なツイードのロングスカートを合わせた姿は、かなりのアンティーク通のマダムに見えたから、もしかすると、骨董的価値が高くないのが、気に入らなかったのかもしれない。

 やっぱり、今日が最後なのだろう。

 社員登用の話が出たのは、むしろ、幸いだった。いつか時間が経ったときに、あのとき諦めてよかったと、思えるのかもしれない。

 ため息がこぼれたところに、思わぬ顔が見えた。

「店長?」

 出勤前に立ち寄ってくれたのだという。

「一度も来たことなかったからね。透磨くんのやりたいこと、見ておきたいと思って」

「この間のお返事、次のシフトのときに、お話しさせていただきます」

 もう決まったようなものなのに、次のシフト、と言ってしまう自分の未練がましさが、滑稽に思えた。

「いい返事を待ってるよ」

 店長は片手で拝むような仕草をして、テーブルの上の一番小さな箱を手に取り、封筒を開けると、すぐさま財布を取り出した。ほんの一瞬、値段を確認しただけのようだった。農家のおばあさんが冬に手作りしたことも、中に小さなリスが彫ってあることも、きっと読んでいない。

「割といい値段なんだね」

「ひとつひとつ、手作りなんです。くるみの殻に蝶番をつけて箱にした、小物入れで」

 店長はコートのポケットに箱をしまうと、また片手で拝むようなしぐさをして、背を向けた。気持ちが静かに冷えていく。

 夢を諦めてしまえば、こんなふうに胸が疼くことも痛むことも、ないのだろう。

 その後もひとつふたつが売れただけだった。終了まではまだ少し時間があるが、もう期待はできないだろう。

 これで、いいんだ。きっと。

 僕は引き取ってくれそうな同業者を思い浮かべながら、搬出用の段ボール箱をのろのろと組み立てはじめた。

「まあ、大変! もうおしまいなのかしら」

 声の主は、あのアンティーク通らしきマダムだった。口元に手を当てたかと思うと、後ろを振り向いて、みなさん、急いで! と声を張りあげる。その背後からはわらわらと十数人ほどの老人たちが姿を現し、我先にと封筒を開きはじめた。

 間一髪ね、とマダムはひと息ついて、口を開けたままの僕に向かって微笑んだ。

「趣味も気も合わない嫁が一人おりますの。私が気に入りそうなお店があるって言うのだけど信じていなくて。でも来てみてよかった。ロマンあふれるお店に、久々に出逢えたわ」

 面白いお店があると、サークルで出逢った同好の士たちに、慌てて連絡をとってすすめてくれたのだという。

「どれも佇まいがとてもいいわ。用の美というのかしら。心を込めてつくられ、大切に扱われなければ、こうはならないもの。それに、あのお手紙がすてき。ロマンがあるわ」

 老人たちの楽しげなようすに誘われてか、遠巻きに見ていたひとたちも店を訪れて、見知らぬひと同士が封筒を手に、あれこれと楽しげに会話を交わしている。一人、また一人と購入を決めてくれるようすに、たぶん僕はこの仕事に携わって以来の忙しさを経験した。マダムは両手に抱えるほど箱を差し出した。

「お店はどちらにおありになるの?」

「ないんです……まだ」

「なら、ぜひ。楽しみに待っているわ。今日来られなかったお友達も多いの」

 待っている、という言葉は、僕がここにいてもいいと言われているようで、胸が熱くなった。

 店の品は見る間に減り、波が引くようにマダムと老人たちが去っていく頃には、小さな箱ひとつを残して、品物は売り切れていた。

 はじめて目にする空っぽの店の風景は、僕をこの上なく満ち足りた気分にしてくれた。

 小さな箱は、リボンもとれ、封筒もどこかへ消えていた。値段がわからなかったためか、残ってしまったようだ。

 これを売れ残ったと捉えるか、不可抗力と捉えるか悩んだ末、僕は箱を開けた。

 中から出てきたのは、プロフェッサーの、ショットグラスだった。

 チアーズ、というプロフェッサーの声が、聞こえた気がした。

 家に帰ると、深玲がテーブルに突っ伏して眠っていた。毛布をかける肩越しに見えた、開いたままの本やノートは、なにかのテキストのようだった。目を覚ました深玲は、おかえり、と目をこする。

「勉強してるの?」

「そう。前に話したでしょう? 将来のこと考えなくちゃって。ちょっと気が早いけど、復帰したら昇進試験受けようと思うの。お給料もちょっとあがるし。生まれてくる前に、進められるところまで、進めようと思って」

 お給料という言葉に気持ちがゆれた。だけどあの、満ち足りた気持ちと、待っているという一言も、忘れられない。マダムは月見が岡に住んでいるらしく、店を構えるなら、たくさんお友達を連れていけるからぜひ近隣に、とも言ってくれていた。でも。

「今日店長が来て。社員になるって話……」

 深玲はまじまじと僕を見て、小鳥のような笑い声を立てた。

「透磨は、お店を開かなくちゃ」

「だけど」

「透磨、社員に誘われた話をしてるとき、笑ったような顔だったよ。本当に困ると、そうなるもの。ちなみに、今も」

 深玲は、立ちあがると、冷蔵庫から、りんごジュースと、ウイスキーを持ってきた。

「いいのかな、もう少し、続けても」

「少しじゃなく、叶うまで、続ければいいんだよ」

 深玲は棚を捜して、あのショットグラスは? とたずねる。

 トートバッグから取り出したグラスをきれいに洗って、ウイスキーを注いでくれた、

「甘いりんごはそのまま食べられるけど、すっぱいりんごは、そのままじゃすっぱくて食べられない。でも、調理したら、とびきりおいしくなるでしょう。透磨はいまきっと、調理中なんだよ。ウイスキーに熟成する時間が必要なのと同じ。私、とびきりおいしくなるって思うし、応援してるもの」

 進む毎日が、たとえ闇夜のようでも。

 夜空に散らばる星々を線で結んだ先人たちのように、見える光を結び合わせるうちに、思いもよらない景色が、目の前に広がるときが来るかもしれない。

 限られたはずの生の時間の中、兆しが連なって、大きな物語が見えたときに、僕らはたぶん、生きる、っていうことを、うっすら感じ取るのだろう。

 合わせたグラスが、楽器のようなきれいな音を響かせた。

「乾杯!」