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言葉は交わさなくても。【#また乾杯しよう スタッフリレー企画 #07】

投稿コンテスト「#また乾杯しよう」の、弊社スタッフによる「リレー企画」。今回はアカハネカオリさん。人の心を緩ませる乾杯とは。

▼これまでのスタッフによるnoteはコチラ
今日もまた、本搾り™をあけよう
乾杯三昧
20回の乾杯
オスロの夜に
特別な乾杯
世代を超えて


大人になると、日常の中で「人の楽しんでいる顔」を見ることは少なくなってくる。皆「各々の成すべきこと」と真剣に向き合う日々を送っているのだから当然だ。楽しいことだけをして生きることは難しいし、本当に "楽しい" と思える瞬間を迎えるには、楽しんでばかりじゃ成し得ないって、大人はよく理解っている。

だからこそ、「成すべきこと」から自分を切り離しているそのひとときに、ほころぶ表情やくだけた仕草を、より一層すてきなものだと感じるようになった。

そっか。この人はこんなことが好きで、こんなことに笑って、こんなことを大切にしているんだ。

知らない一面を見ると「自分は別の誰かと生きている」ことを改めて実感する。例えぶつかることがあったとしても「皆生きてて百万点」という気持ちになってしまう。ゆるゆるだ。でも、それでいい。

人の楽しんでいる顔はいいもんだ。
そして、こういう時、乾杯は常に側にいる。

今日も色んなことがあったし、明日も色んなことが山積みだけれど。そんなことは一先ず横に置いて「おつかれさま、乾杯」とグラスを傾け合う。

それだけで、心が緩んでいくのだから不思議なものだ。さっきまでぐるぐるに絡まってどうしていいのかわからなかったことも、誰かと笑っているうちに結び目が解け、スルスルと一本の糸に戻っていく。なぁんだ案外単純なことだった、なんてケロリとしながら、グラスに口をつけ喉を鳴らすのだ。

大人の楽しむ顔は、心が解けている証なのかもしれない。

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乾杯にまつわる心の解き方も色々だ。

自分の想いを言葉にして発すること。信頼する人の言葉に耳を傾けること。共感し合うこと。おいしいご飯を食べること。場の雰囲気に身を委ねること。

そういうものの1つに「人と一緒に音楽を聴くこと」がある。

学生時代からの音楽好きが高じて、都内のとある音楽イベントに出演している。私は途中参加だが、イベント自体は今年で9周年。そこで僭越ながら45分ほどの持ち時間をいただき、お客さんと音楽を愉しんでいた。

DJ活動をしているよ、という話をすると「なぜ?なに?どうして?」とよく聞かれる。野暮な質問だなぁ(だって草野球を趣味でしている人にどうして、なんて聞かないのにさ)と感じつつ、それ程私から遠く違和感がある行為なのだとも実感するのだった。

私はあまりお酒に強くないし、インドア派だ。人見知りで、どちらかといえば内向的だろう。それに足の見えないロングスカートばかり履いているもんだから「パーティっぽさ」から最も遠い人種といっても過言ではないのかもしれない。

だからその質問の解について、今まではうまく言葉にできなかった。「うん。なんでだろうね。似合わないよね。ごめんね」と笑って誤魔化していた。

勿論、かっこいいと思っているからその場所に居るのは間違いないのだけれど、自分が「何かになりたい」とか「何かを成したい」とか、そういうのとは少し違う気がしていた。

それでも「お金を払っていただいて、誰かに何かを披露する」為には、見せるなりの努力と誠意が必要だ。練習が憂鬱な日もあれば、自信が無くて塞ぎ込む日もある。前日怖くなって出たくなくなることもしょっちゅうだ。仕事を終えて夜な夜な練習をしている時、はたまた友人の誘いを断ってPCと向き合っている時、「私は一体何と戦っているんだっけ」と我に返ることも。

それでも、なぜ続けてきたのか。
自分のことながら、わからなかった。半年前までは。

2020年4月から今まで、私達のイベントは開催の自粛を継続している。

再開の目処は、未定だ。
予定していた遠征も全てキャンセルになった。

本番前の憂鬱も、練習の時間も、ポッカリと無くなってしまった。
それと同時に、この期間で痛く思い知らされたことがある。

「人の楽しんでいる顔を見ていない」

誰かに笑顔を向けて貰えることが、誰かに喜んで貰えることが、私の日々の中でどれほど貴重で尊いことだったのか。
ようやく気付いた。
気付いて、それで、理解した。

私は、皆が「最高の顔で乾杯」をする、その時間が好きで、その顔が見たくて、そのお手伝いがしたくて、ブースに立っているのだと。

最初はオーガナイザーの喜んでいる顔が見たかった。彼がお客さんよりも楽しそうにしている、そんな日は大抵良い日だ。だから自分もその力になりたいと思っていた。

次にメンバーの喜んでいる顔も見たくなった。息を合わせないと一日の流れは出来あがらない。流れをよく見て、考えて、バトンを繋ぐ。前の人が作ってくれた流れを自分が受ける。息が合った時は目を合わせて握手をした。皆が作ってくれた楽しい空気を守りたいと思っていた。

出番を終えてブースを降りると、お客さんが今日の感想を伝えにきてくれて、束の間の乾杯を交わす。口頭で話すこともあれば、インターネット配信をしているから、国内外問わずメッセージをいただくこともある。そういう時、美味しそうにお酒を飲んでくれているのがわかると、最高に嬉しい。あれもこれも上手くいかなかったナ、という反省の気持ちは一旦、お客さんと交わす杯が飛ばしてくれる。楽しんでくれて良かったなぁ。それだけで、私の時間は報われるんだ

「ねえ。いいよね。あの曲、いいよね!あの人の曲、すごくいいよね!」
と笑い合う。

この場所は8年間ここにある。お客さん、メンバー、箱のスタッフ。皆で一緒に作ってきたかけがえのない「遊び場」だ。8年間も顔を合わせているのに、どこで、何してる、どんな人かも、よく知らない。

でも、上手く言葉が交わせなくても、音楽を伝って皆と乾杯ができたことを、私はとても誇りに思う。

無くたって、日々は回るけれど。有ったほうが、笑顔になれる回数が増えるなら。私は、あの場所でまた皆と乾杯がしたい。

私にとって、人の楽しそうな顔を見れる1番の時間だったから。

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こんなときでも、日々は過ぎていくし、私たちの生活は続いていく。8年間は、人の生活を変えるには十分な時間だ。小学生は成人するし、学生も社会が板につくだろう。いつまでもずっと同じで居られることなんて、実はそんなに多くない。

「あと何回この景色を見れるだろうね」
去年オーガナイザーがぽつりと呟いた。みんなどこかで薄々気付いていて、それでもこの場所を守る為に、知らないふりをして笑っていた。

時間は有限だ。

そんな矢先の今年だった。ポッカリと空いたまま過ぎていく月日に、どうしようもない歯がゆさみたいなものが残っている。このままなんにも無かったみたいに、終わってしまったら。きっと、誰よりもまず、自分が悲しい。

だからこそ、今は、好きなこと・大切なこと・守りたかったこと。忘れないように日々を過ごしたい。この場所の時間が再び動き出す時、また皆の笑顔が見れるように。