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いつか遠い場所で 【#また乾杯しよう スタッフリレー企画 #08】

投稿コンテスト「#また乾杯しよう」の、弊社スタッフによる「リレー企画」。今回はnote編集チームの平山高敏より、「遠い場所」に向けたメッセージをお届けします。

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今日もまた、本搾り™をあけよう
乾杯三昧
20回の乾杯
オスロの夜に
特別な乾杯
言葉は交わさなくても。


陽の落ちた18時過ぎ。駅のホームのキオスクで缶ビールと軽いおつまみを買って新幹線に乗り込む。東京駅到着予定は20時ちょうど。これから2時間弱のひとりきりの宴が始まる。

指定席に座るやいなやテーブルを引き出しビールとつまみをセットする。新幹線が走り出すと同時に缶ビールのプルトップを引く。

「プシュッ」

示し合わせたかのように同時多発的に同じ車両から「プシュッ」が聞こえる。ある人は誇示するように、ある人は慮るように。それでもその音は紛れもなくささやかな宴の始まりを告げている。それぞれの場所で、それぞれのスタイルで。

まるで祝砲だ。この瞬間に立ち会う度にいつもそう思う。重なり合う音を受けて僕は小さく缶を掲げる。傍から見てもわからないほどに小さく。同じ空間に居合わせた「プシュッ同盟」の皆々様に無言の乾杯を贈る

ここまでが僕の出張の帰途におけるルーティンだ。こうして区切りをつけないとどうにも東京に戻った気にならないのだ。

言うまでもないことだけど、このルーティンを経て飲むビールはとてつもなく美味しい。

多い時は月に2回ほど行っていたこの「ルーティン」を、半年以上行うことができないでいる。同じ空間の中で、顔も名前も知らない人とちょっとした共犯関係になったような、あのなんともいえない高揚感をしばらく味わえていない。

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「あれ。この間来た時と雰囲気変わりました?」
行きつけと言えるほどではないけれど、何度か訪れたことのある和食屋さんの扉を数ヶ月ぶりに開けば、開口一番女将さんにそう声をかけられる。

お店に入る時はいつも、数名の常連さんが先に晩酌を始めていて、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。時折女将さんと二言三言話したり、横のお客さんとポツリと会話をしては、またそれぞれの時間に戻っていく。

出される料理はすべて美味しいのだけど、個人的なお気に入りはだし巻き卵。目の前で卵をボールに落とし、卵を溶くカタカタという音を聞いていると、子どもの頃の「おかって」を思い出す。思い出しながら少しずつ心拍が下がっていくのがわかる。寛ぎ始めている自分がいる。

女将さんがひとりで切り盛りするその和食屋さんは、カウンターばかり10席程度の小さなお店で、都心の繁華街から少し外れた住宅街(奥○○とか呼ばれる場所だ)のマンションの1室にこじんまりと構えている。料理も接客もすべて彼女がひとりでまわしている。

看板も出していない。だから道ゆく人のほとんどはそのマンションの2階においしいだし巻き卵を出す和食屋があることを知らない。

「看板は出さないのですか?」いつかそう聞いたことがある。「このお店を好きになったお客さんが新しいお客さんを連れてきてくれるんです。それがまたこの場に合うお客さんたちなの。だから看板を出す必要がないんです」と彼女はにかみながら答えてくれた。

そういえば、僕が好きになっただし巻き卵も、はじめて訪れた時に隣の紳士に薦められたのだったな。

友人や家族ほどの近しい間柄ではなく、「ただの僕」を拒否もしないし干渉もしない「少し遠い場所」があるというのは、暮らしていく上でひとつの安心材料だと、僕は勝手に思っている。

そして不思議と、そういう場所で友人や大切な人と過ごす時間は、これまたいっとう良い。うまく表現ができないのだけど、ただただ良いのだ。

大切な「近い人」を連れていきたい「遠い人」が営む場所を持っていること。それは小さくともたしかな幸せだ。ここ数年でいよいよその思いは確信に近い。

残念なことに、その和食屋さんにもしばらく行けていない。このご時世でお店はどうなっているのだろうと思っていた矢先、先日女将さんのInstagramが久しぶりに更新された。

その文面には、女将さんが現状を訥々と伝えるコメントとともにクラウドファンディングを始めたことを知らせていた。

「誰かが誰かを連れてくる場」にこだわる彼女が下したその決断には、のっぴきならない焦りが滲んでいた。

僕はいつか行くことを約束するように、「いいね」を押し、クラウドファンディングのページを開いた。

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僕の周辺の景色は一変した。

今ではほとんど家から出ずに仕事をしている。家から一歩も出ずに、見知った人たちとオンライン上で会話をするだけで、順調に事を運ばせることができることもわかった。

徐々にこの空気に順応してきているのがわかる。もう元の生活に戻れないことも、良いか悪いかではなく、当たり前のように受け入れているつもりだ。

けれども、最近は「疲れ」を感じるようになった。1日の仕事を終え、リビングのソファでぼんやりとお酒を飲みながら「くたびれたな」と思うことが増えた。

満員電車に揺られる通勤もなく、人との会話も効率的になって簡便化しているのに、以前よりも疲れている自分がいる。いやむしろ、身体が順応すればするほど擦り減っていくような気にさえなる。僕の中のエネルギーが逓減しているのがリアルな感覚としてわかるのだ。

先の「新幹線」と「和食屋」が頭に浮かんだのは、なんでこんなに疲れているのだろうとぼんやり考えた時だ。もう少し説明するのであれば、新幹線や和食屋にいた時の僕を纏っていた空気のような感覚もセットにして思い出したのだ。

その空気はつまり「人の気」だ。
身体の一部を構成する「人の気」が僕から抜け落ちている。

植物が太陽光をたよりに光合成するように、僕には、ただただそこに誰かがいるという「人の気」が必要なのだ。それは見知った人たちとの「分かり合える」会話の中では充填することができない別のエネルギーだ。

僕には今、「人の気」が足りない。

これから世の中がどうなるのかはわからない。それでも、早春の肌寒さに身を縮まらせながら日向を探すように、うだるような暑気から逃れるために木陰を探すように、僕は「人の気」に触れられる場所を必要とすることは変わらない。それはもはや本能のようなものだとさえ思っている。

「レストラン」とは、「良好な状態に回復する」というラテン語「restauro」が語源なのだと教えてもらった。長い年月を経て今、その言葉は僕の前で実感を伴って教えてくれる。僕には「僕自身に回復する場所」が必要だということを。

いつかまた、遠い場所で会いましょう。

その時はまた聞かせてください。
同じタイミングでプルトップを引く音を。
「あれ。雰囲気変わりました?」という声を。



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